小形鉄道車両の絵 その1



これらの絵は 素材として使う事も考慮して描いているため、使用色数が少なく軽いのが特徴です。
改造素材や、ホームページや冊子のネタとして、ご自由にお使いください。※注 絵を単体で商用・営利目的使用する場合を除く。
小さな手直しは頻繁にあり、更新履歴に載せない事も多いいため、古いキャッシュを消去して、利用直前にコピーする事をお勧めします。
ご使用の際は、知らせて頂けるとうれしいです。
なお、絵や解説文の根拠たる参考文献等は ここに記載しきれないので、直接私にメールか掲示板で問い合わせて頂ければ幸いです。また、基本的に解説文は作画当時に書いたものなので、情報が古い場合があります。

このページの絵は特記以外1ドット50mmで描いています。


小形鉄道車両の絵 その2は こちら

蒸気機関車の絵は こちら  ディーゼル機関車の絵は こちら  電気機関車の絵は こちら  客車の絵は こちら

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岩手軽便鉄道 ボールドウィン / 国鉄釜石線 ケ231形

岩手軽便鉄道 ボールドウィン

国鉄釜石線 ケ231形

この機関車は元々、日露戦争の兵站輸送のために明治37、38年(1904、1905年)に81両発注された軌間762mmの軽便機関車で、安奉軽便鉄道で日本陸軍の臨時鉄道大隊が運用したものです。
その後、満州で役目を終えた6両が 大正2年(1913年)の岩手軽便鉄道の開業に際して移籍しました。

岩手軽便鉄道は、東北本線の通る花巻と 製鉄所のある釜石を結ぶために作られた鉄道で、戦略上重要な路線だったため昭和11年(1936年)に軽便規格のまま国有化され 国鉄釜石線となりました。
このボールドウィン製の機関車は、国鉄釜石線が昭和25年(1950年)に改軌完了するまで主力として活躍し、人々から「くろがねのアヒル」のあだ名で親しまれました。
また、岩手軽便鉄道は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の執筆に 大きな影響を与えた事でも知られています。

絵は上段が岩手軽便鉄道の1〜6号機。下段が国有化後 晩年のケ231形ケ231〜236号機の姿。
この絵は鉄道連隊の調査記録のD-Foxさんのリクエストにより作画したもので、安奉軽便鉄道時代や人物無しバージョンを D-Foxさんの上記サイト用に差し上げました。詳しい解説もされていますので、ぜひ訪問して下さい。
また、この絵を元に D-Foxさんに「くろがねのアヒル」の大型を描いてもらいました。

くろがねのアヒル 大型

台湾鉄路管理局 台東線 LDT100形 蒸気機関車

臺灣鐵路管理局 台東線 LDT100型 蒸汽機車

台湾鉄路局台東線は 島内循環鉄道の一部として、台東〜花蓮 間に1910年〜1926年(明治43年〜昭和元年)にかけて建設されました。
建設時は 早急に開通させるため 軌間762mmを採用しましたが、北部(花蓮方)半分は、将来の在来線直通を見越して1067mm軌間の基礎構造で作られました。
そのため、当初より普通の軽便鉄道より大形の車両が活躍しましたが、1982年(昭和57年)に念願の改軌工事が完了し、1992年(平成4年)に南廻線の開通により環島鉄路が完成しました。
ナロー時代には 寝台列車も走る軽便路線として 有名だったようです。

LDT100形は、大東亜戦争中の1942年(昭和17年)に日本車輛で4両製作された40トン機で、当時の形式は分かりませんが、戦後はLDT101〜104となりました。
機関車重量40.48t、軸配置 1-D-1、全長14346mm、牽引力8.6t、火格子面積2.1m2、使用圧力14kg/cm2と 762mm軌間の機関車としては巨人機で、高規格で建設された台東線北半分(玉里〜花蓮 間)で活躍しました。なお、他に3両 同形機が朝鮮鉄道900形として作られたようです。
LDT100形は その後 長大貨物列車を牽くなどして黙々と働き、1968年(昭和43年)に 液体式ディーゼル機関車 LDH200形(これも大形の日本車両製)導入で休車となりました。
現在、LDT103号機が花蓮鉄道博物館に静態保存されています。

南筑軌道 石油発動機関車

南筑軌道 石油発動機関車

明治36年(1903年)、大阪で福岡鉄工所を経営する福岡駒吉により、石油発動機を利用した機関車が考案されました。
石油発動機とは原始的な内燃機関で、焼玉エンジンとも言い、熱した鉄球で燃料を爆発させてピストンを動かし、それをフライホイールを使って連続作用させるもので、主に農業用水ポンプや船舶エンジンに活用されたものです。特にこれを使った舟艇はポンポン船として戦後しばらくまで親しまれていました。
明治後期と言えど 焼玉エンジンは一般に普及し始めた段階ですが、福岡鉄工所は これを使った機関車で、馬車軌道の馬の置き換えを売り込んだわけです。我が国最初の内燃機関車と言われています。
機関車の出力は5〜7馬力しかありませんが、馬を置き換えるためなので問題なく、九州地方の馬車軌道を中心に80両近くの売り込みに成功しました。
なかでも筑後軌道は 47両を採用しました。
47両という数字は1軌道にしてはすごい両数ですが、元々この機関車は構造が簡素で安価な分 故障が多く、しかし修理も簡単なので とっかえひっかえ予備部品代わりに大量に抱えていたようです。
ただし筑後軌道も 次第にこの機関車の牽引力に不足を感じるようになったため、大正初めに大量放出。それらを買い取って増備に充てたのが南筑軌道です。

南筑軌道は 鹿児島本線の羽犬塚から黒木に至る路線で、軌間は914mm(3ft)。
南筑軌道では石油発動機関車を20両導入しましたが、元々の製造ロットの違いや改造で、同じ形態のものは存在しません。ただ、救助網の形は南筑軌道独特のものです。
現地ではアイアンホースならぬ“豚”の愛称で呼ばれ、昭和15年(1940年)の廃線まで活躍しました。

南筑軌道 2軸客車

南筑軌道 2軸客車

この客車は南筑軌道の2軸客車で、1〜3、5号車の4両がいました。色は不明なので適当です。

10形 蓄電池機関車・AB10形 蓄電池機関車

10形 蓄電池機関車・AB10形 蓄電池機関車

EB10形 電気機関車

EB10形 電気機関車

昭和初期、東京北部・王子の「大日本人造肥料」の隣に「陸軍造兵廠豊島貯弾場」が開設され、大日本人造肥料専用線を須賀貨物線として国有化。そこで働くために2輌製作されたのが この10形蓄電池機関車です。

この専用線では それまで蒸気機関車が使用されてきましたが、付近に火薬工場があるとなると 汽車の火の粉が心配。
なので 電気機関車か内燃機関車の使用となるわけですが、当時、内燃機関車は産声を上げたばかり。
そこで電気機関車となるわけですが、非電化区間でもあり、ちょうど東芝が研究していた蓄電池機関車を データ収集を兼ねて投入する事にしました。。
製作年は、輸入機EF51(8010)と 初の国産大形機EF52の間 ――昭和2年(1927年)製と、まだ国鉄が輸入サンプル機を元に試行錯誤して ようやく電気機関車の技術が確立し始めたという時代。電気機関車黎明期の一品と言えます。

かつての通説では、「架線のスパークを考慮して蓄電池式機関車とした。」と言われていましたが、AB10形の電気機器は特に防爆仕様となっておらず、実際は「火気を気にして電気方式にしたが、ちょうど実験に手ごろな長さの線区だったので、新開発の蓄電池式の実地テストをした。」が正解のようです。
そもそも、電気接点のスパークで爆発なんて、火薬を線路際に野積みでもしない限り無理で、そんないい加減な製品管理の工場は 存在しません。

昭和3年(1928年)の形式称号改正で、AB10形に。昭和6年(1931年)の須賀線電化によりパンタグラフをのせて蓄電池を降ろし、床下の抵抗を機器室に移設して、EB10形電気機関車となりました。

さて、バテロコ(蓄電池機関車)といえば 大きいものでも入換用小形機と相場が決まっていて、小形機で入換用となれば運転室が中央で 運転台が横向き一台ですむ凸形機となり、世界的に このクラスの大形バテロコは凸形の 似たような姿をしています。
EB10形は使い勝手が良かったらしく、結局、須賀線廃止後(一部区間は今も現役。)の昭和47年(1972年)まで使用されました。
現在も EB10 1 が、府中市交通公園に展示されています。

外見の特徴を列記しますと、まず床下に鐘が付いています(絵の反対側)。これは線路と道路の境界が不明瞭な区間で、カランカランと鳴らして注意を促させるための物です。臨港線の機関車とかにも例がありますね。
パンタグラフはPS10→PS13→PS14と変化? 2号機は最後までPS13のままかも?
ATS関連は区間限定運用なので、最後まで装備していません。

東急 玉川線 デハ200形

玉電 デハ200形 公式側玉電 デハ200形 非公式側

玉電 デハ200形 公式側 開扉

玉電 デハ200形 晩年 公式側玉電 デハ200形 晩年 非公式側

東急玉川線(通称:玉電)デハ200形は、玉川線の近代化を目的として 昭和30年(1955年)に新製された 低床連接式路面電車です。
設計にあたっては 前年に登場した東横線デハ5000形のように 徹底したモノコック構造を採用して軽量化し、卵型の車体形状となりました。絵では表現できませんでしたが、車体幅も前方に向かって微妙に絞り込まれています。
さらに1軸連接台車や床下機器をスカート内に完全収納、抵抗器も屋根内に収めるなどボディーマウント構造になっています。また、制御方式も新しくなっています。
低床化したものの裾すぼまりの車体なので、ドアに連動したステップを備えています。なお、パンタグラフがある方が渋谷方です。

デハ200形は6組が製作され、「ペコちゃん」の愛称で親しまれました。
しかし、あまりに先端技術の導入とデザインにこだわってしまったきらいがあり、1軸連接台車は脱線しやすいうえ 車体はローリングしやすく、何よりボディーマウント構造はメンテナンス性最悪で、新しい制御方式にも難点がありました。
とは言うものの、玉電の顔として、地下鉄化に伴う玉川線の廃止(昭和44年(1969年))まで しっかりと働きました。
デハ200形は 今でも大変愛されており、田園都市線 宮崎台駅高架下の「電車とバスの博物館」に、204号車が大切に保存されています。

東武伊香保軌道線の電車

東武伊香保軌道線の電車(シングルルーフ)東武伊香保軌道線の電車(ダブルルーフ)

かつて 群馬県渋川市を中心に 大路面電車網がありました。
明治時代から大正時代にかけて開通した それら各軌道会社は 東京電燈に合併され、さらに 昭和2年(1927年)に 前橋〜渋川間の前橋線、高崎〜渋川間の高崎線、渋川〜伊香保間の伊香保線の1067mm軌間の3線が そろって東武鉄道の経営になりました。
これら3路線は まとめて「東武鉄道伊香保軌道線」と呼ばれ、「伊香保の登山電車」の愛称で親しまれていましたが、バスの発達には勝てず、最後まで残った伊香保線の廃止(昭和31年(1956年))により姿を消しました。

走っていた車両の出自は何系統かありますが、戦前 及び戦後の車体更新で みな同じような姿になっております。 ただ、工事の施工は1両毎に 町の大工さんに発注しているので、細部を見ていくと微妙に違いがあります。
塗色は 茶(ないし青)とアイボリーのツートンが基本で、台車は軸距1830mmのブリル21Eが主流です。
伊香保登山用の車両は 下山用に電磁レールブレーキを備えておますが、効きが良すぎるため 基本は手ブレーキで速度を抑えながら下山しました。ちなみに下山走行時はトロリーポールを下ろして、重力のみで滑降します。

絵は左が戦後更新のシングルルーフの30号車で、左が戦前更新のダブルルーフの26号車です。
当線では付随車の連結もあるので 安全網が片側にしかありませんが、これは終点で乗務員がエンヤコラと いちいち付け替えます。また、前照灯は夜間のみ前面に ぶら下げます。

伊香保軌道線廃止後は3両が草軽電気鉄道に渡り、台車を履き替えてホハ10〜12として活躍しております。
なお、シングルルーフのデハ27号車が 長らく某所に保管されていましたが、平成26年(2014年)に伊香保の「峠の公園」に移転整備されて 一般公開されています。

草軽電気鉄道 ホハ11

草軽電気鉄道 ホハ11

上で説明した、伊香保電車の改造車です。アーチバー台車を履いた他、ドア廻りとかに手が加えられています。

日車の単端

日車の単端

「単端」とは、車体の片端にエンジン・運転台を置いた気動車を言います。
量産品の自動車用のエンジン・変速機構をそのまま使用し、安上がりなのですが 後進は苦手で、折り返しにターンテーブルを必要とします。
昭和のはじめに各地の軽便鉄道で フリーケントサービスを目的として 相次いで登場しました。

単端といえば まず思い浮かぶのが この、日本車輌製の標準形単端。「単端」とはそもそも日本車両の造語であり、いわばこれが正統派単端とも言えます。
その形態は、当時の標準的バス車体に そのまま鉄車輪を付けた様なもので、車体各部の絞りが特徴的です。
足回りは片ボギー式等、数パターンありますが 車体の寸法は標準化されています。

製作当初の標準エンジンはフォードT。のちに各鉄道で より馬力のあるエンジンに乗せ変えています(フォードA〜国産トラックのディーゼル等、解体業者から拾ってきたようなエンジンまで各種。)。
晩年は各種改造で「同じ形態の車両は一輌も無い。」という状況になります。これは他のメーカーの単端でも言えます。
描いたのはオリジナルな姿です。

井笠鉄道 ジ1

井笠鉄道 ジ1

昭和2年(1927年)日本車両製、定員20名。地味な存在。

九十九里鉄道 丸山製単端

九十九里鉄道 丸山製単端(車体更新後) 九十九里鉄道 丸山製単端(車体更新前)

九十九里鉄道と言えば、丸山車両製造製の この単端です。大正15年(1926年)の開業時にキハ101〜104の4両が用意されました。
エンジンは、もともとフォードT型 20馬力で、後にフォードV8型 110馬力に換装しています。戦後は木造車体に鉄板を貼り付けた、通称「ニセスチール」になっています。左の絵が車体更新後、右が車体更新前。
こいつが房総の平坦線を、トレーラーを3輌も牽引してトコトコ走っていました。

九十九里鉄道 キハ201

九十九里鉄道 キハ201

昭和5年(1930年)雨宮製作所製の くるま。元々はチェーン連動二軸駆動だったようですが、のちに一般的な前輪一軸駆動化されています。エンジンはニューフォードAA。
部品入手難からか、晩年はエンジンを下ろしてトレーラー化されました。

九十九里鉄道 ハニフ106

九十九里鉄道 ハニフ106

キハ100系と同じデザインの荷物合造車です。

九十九里鉄道 ケハフ301

九十九里鉄道 ケハフ301

元、岩井町営軌道の気動車。九十九里では客車として働きました。

九十九里鉄道 ケハ111

九十九里鉄道 ケハ111

元、佐世保軽便鉄道の客車。この車にはブレーキがありません。

九十九里鉄道 ケワ50

九十九里鉄道 ケワ50形

九十九里鉄道に、3両が在籍したボギー有蓋車です。
ところで、軽便鉄道での一般貨物輸送ですが、九十九里鉄道のような短距離(8.6km)の場合、戦後になると一気に衰退しました。
それは、軽便鉄道では どうしても国鉄貨車への積替えが発生し、それならば 当時普及してきた自家用トラックで 国鉄駅まで直接運んだ方が良いからです。

西大寺鉄道 キハ1〜5

西大寺鉄道 キハ5

岡山の西大寺鉄道の梅鉢鉄工所製の単端です。昭和6年(1931年)に キハ1〜5が この形態で誕生しました。
描いたのは晩年の姿で、エンジンはトヨタの26馬力。
これまた独特なデザインです。後部には貫通扉があり、隣接車両連絡用の幅の狭いデッキがあります。

西大寺鉄道 キハ1、2

西大寺鉄道 キハ1西大寺鉄道 キハ2

キハ1〜5の内 キハ1、2は、戦後 当時出現し始めたキャブオーバーバスみたいな顔に改造されました。
後部に貫通扉があるのは原形車と同じですが、こちらに付いているデッキは 自転車も積めるような大形となっております。
絵は左がキハ1右がキハ2。

沼尻鉄道 ガソ101

沼尻鉄道 ガソ101

沼尻鉄道のヌシ的存在の昭和4年(1929年)雨宮製作所製ガソ101。この車両も かなり有名な車両です。描いたのは晩年の姿。

製作当初は両運転台式だったらしく、両側面窓配置が点対称になっています。
チェーン式二軸駆動で、ラジエーターだけが正面に顔を出し、エンジンは車内、運転席脇に出っ張っています。

根室拓殖鉄道 「銀龍」

根室拓殖鉄道 「銀龍」

銀龍号として極一部の人に有名な単端です。
昭和24年(1949年)に田井自動車で バス形単端「かもめ」とともに、貨物用単端式無蓋ガソリンカーとして製作。
就役後すぐに荷台部分を客室に改造。旅客化された姿です。

エンジンは日産180型85HP。後部に脱線復旧用?(車体のバランスをとるための重しという説も。)の枕木を積んでいます。
米国、リオグランデ・サザン鉄道の「ギャロッピング・グース」といわれる大形単端に スタイルが似ていることから「和製グース」とも言われています。

静岡鉄道 蒙古の戦車

静岡鉄道 蒙古の戦車 DB601静岡鉄道 蒙古の戦車 DB609

蒙古の戦車とは、静岡鉄道駿遠線で活躍した ディーゼル機関車DB601〜DB609の あだ名です。

戦後、買出し客の急増、設備・車両の老朽化で、地方鉄道は深刻な車両不足に襲われました。
しかも、石炭の価格が高騰し、蒸気機関車は粗悪な石炭で 何とか走ってる始末。
そこで地方鉄道向けに 森製作所や協三工業によって、蒸気機関車のディーゼル機関車化改造が 行なわれましたが、静岡鉄道駿遠線では 独自に自社工場で改造車両を作り上げました。

蒸気機関車の下廻りを活用し、手元にある材料で 適当にでっち上げたので、各車まちまちの形態です。
特に後期に製作された機関車の、そのユニークな中途半端に流線形な形態から 当時の鉄道ファンによって「蒙古の戦車」と名付けられました。その後も、何度も改造しているので 形態が定まりません。
絵は左がDB601、右がDB609。
ちなみに、変速機の関係から後進が苦手なので、終点で転車台に乗せる必要がありました。

松山人車軌道の客車

松山人車軌道の客車

鉄道の動力には電気、内熱機関、蒸気機関、馬力、牛力、犬力等色々ありますが、人車軌道とはその動力を人力に頼った鉄道です。
主に鉱山等の軌道では人力が ごく普通に見られたのですが、これを小規模軌道の旅客輸送に置き換えたものといえます。
日本では明治後期から昭和初期にかけて見られましたが、どの軌道も長続きせず バス等に置き替わって短命に終わりました。

松山人車軌道は 東北は宮城県松山町に大正11年(1922年)から昭和5年(1930年)に存在しました。
が、旅客営業は昭和3年(1928年)には廃止されており すごく短命でした。
ですが開業時期が人車軌道の中では後発組であったためか その車両が2輌も残されており、大宮の鉄道博物館と地元松山町の「ふるさと歴史館」に展示されています。
さらに松山町の御本丸公園には完全復元レプリカがあり、年に数回 実際に運行されております。

人車軌道の客車は どの軌道の物でも裾絞りの車体の似通った造りで、デザイン的には馬車の延長になります。
両端面が入口で、ひさしの下にベルが備えてあり、停止してもらいたい所で乗客が紐を引きます。
ひさしの下には更に夜間に 前照灯のランプが取り付けられます。
斜めの棒はブレーキハンドル、ブレーキは結構まじめな作り。
惰行時にはステップに乗り 必要に応じてこのブレーキを操作します。

なお、一般的には「人車」とは鉱山等 産業軌道の作業員輸送用の車両をさすので、ここでは「人車軌道の客車」と表現しました。
人車軌道の「貨車」っていうのも存在しますし・・・。

大井川鉄道 井川線 DD100形 ディーゼル機関車 3次車

大井川鉄道 井川線 DD100形 ディーゼル機関車 DD107号機 公式側 大井川鉄道 井川線 DD100形 ディーゼル機関車 DD108号機 非公式側

静岡県の大井川水系では 戦前から発電用のダム建設が計画されていましたが、ダムにより川が堰き止められることにより、伝統的なイカダ流しによる原木輸送ができなくなるのが問題でした。
そこで、ダム建設の資材輸送と、代替木材輸送手段として建設されたのが、大井川鉄道 井川線(当時は大井川専用軌道。)です。
井川線は建設費を抑えるために軽便規格で作られましたが、大井川鉄道本線に直通するため、1067mm軌間を採用しています。
また、起点付近には、同様に寸又川のダム開発のための寸又川専用軌道(千頭森林鉄道)があり、これを沢間〜千頭間に乗り入れさせましたが、この区間は1067mmと762mmの3線軌でした。
戦後になると、豊かな自然風景が注目されて 観光客が押し寄せるようになったため、昭和32年(1957年)に地方鉄道に昇格し、施設所有:中部電力、運営:大井川鉄道となりました。

井川線のDD100形ディーゼル機関車は昭和29年(1954年)から8両導入された35t機で、メーカーや年式で3タイプに分かれます。
当時は 井川ダムの建設のために井川・堂平まで路線が延長された時期で、各種車両が一斉に増備されました。

DD107、DD108は昭和35年(1960年)に三菱で製造され、木材輸送や、観光客輸送の長大列車の牽引に当たり、昭和61年(1986年)まで活躍しました。
形態は、前から見て左に片寄って配置されたボンネットと、車端に直立した排気管が特徴です。
変わっているのは下部にある副前照灯で、井川線の急カーブに合わせて首を振る構造になっています。
外に給油口が見当たりませんが、運転室内にでもタンクがあるのでしょうか?

時期によるものか、個体差なのか、写真を見ると塗装や仕様に変化が見られます。
DD107号機は現在も川根両国の基地に保存されているようです。

大井川鉄道 井川線 cトキ200形 無蓋車

大井川鉄道 井川線 cトキ200形 無蓋車 公式側 丸太積大井川鉄道 井川線 cトキ200形 無蓋車 非公式側 丸太積大井川鉄道 井川線 cトキ200形 無蓋車 長物車代用 公式側 国鉄 トキ15000形 無蓋車 公式側

井川線のcトキ200形は、昭和28年(1953年)に井川ダム建設のために50両が製造されました。
頭文字のcは中部電力所属を表しています。また なぜかトキを名乗りますが荷重は16tで、国鉄ならトムに相当します。
参考に右端に国鉄のトキ、トキ15000形(荷重35t)を掲示します。

cトキ200形は木材輸送に大活躍し、大井川本線の新金谷支線にまで乗り入れていました。
当時の写真を見ると、丸太と言うには細くて短い雑木を多数運んでいますが、静岡県は製紙業が盛んなので、紙原料のチップ用木材の需要が大きかったのでしょう。
井川線の木材輸送は1970年代初めまで続きましたが、その後は貨物列車自体が不定期になり、cトキ200形は多数が客車へ改造されました。今は少数のトキが残され、保線や業務用に活躍しています。

なお、cトキ200は 煽り戸と妻板を外して長物車代用とする事を考慮して、さく柱の受けが設けられています。さく柱は他のトキの側柱を流用したようで、その写真も残っています。
丸太はトキの状態のままの方が運びやすいので、ダム建築資材を輸送する際に 長物車代用としたのでしょう。
ただ、この車端のさく柱受けはロープを掛けるのに邪魔なのか撤去された車両も多いいです。
煽戸に荷重表記や車票挿し、検査日表記があるのでフレームだけにしてしまうと色々困りそうですが、閉ざされた環境で産業鉄道的な車両管理をしているので、車号だけ分かればいいようです。
連結器解放テコも無くなるので、連結器の解放は錠揚げを手で直接操作して行いますが、小サイズなので操作も軽いのでしょう。
現在も 一部のトキが長物車状態でレール輸送とかしています。

大井川鉄道 井川線 cトキ200形 無蓋車 アプト化改造 公式側 大井川鉄道 井川線 cトキ200形 無蓋車 アプト化改造 非公式側


平成2年(1990年)、長島ダム建設に伴い 井川線の一部区間が水没することになりましたが、付け替え路線は急勾配のアプト式が採用されることになりました。
その区間ではアプト機関車のED90形と本務機のDD20形を川下に付けるため、川上方は制御客車のクハ600形で運転する方式にしました。
そのため主要車両に制御回路を引き通すとともに、電磁ブレーキの追加や連結器緩衝器の強化が行われました。
上の絵がそれで、ジャンパー線が目立ちますが、前から見て海側(大井川側)が緑、山側が白に色分けされています。
井川線の車両は 過去には方向転換する事もあったようですが、これで今は向きが固定されました。

大井川鉄道 井川線 cト100形 無蓋車

大井川鉄道 井川線 cト100形 無蓋車 公式側大井川鉄道 井川線 cト100形 無蓋車 公式側 丸太積

井川線cト100形は、cトキ200形と同時期の昭和29年(1954年)に50両が製造された8t積無蓋車です。
cトキ200形と同じく 木材輸送にも活躍しましたが、どちらかというと こちらの方がダム建設資材輸送に重用されたようです。
一部車両は煽り戸を撤去のうえ セメントタンクを仮設して、ホッパ車として使われました。
この車も現在何両か残っていますが、アプト化改造はしていません。業務用に たまに使うだけなので 特に問題ないのでしょう。

大井川鉄道 井川線 cワフ0形 有蓋緩急車

大井川鉄道 井川線 cワフ0形 有蓋緩急車 公式側 大井川鉄道 井川線 cワフ0形 有蓋緩急車 非公式側

DD100形のところで書いたように 井川線は軽便規格なのですが、車体が小さいだけでなく、連結器も通常より小形の自動連結器を使っており、取り付け位置も低いです。
そこで、井川線車両を大井川本線に直通させる際のアダプターとしてcワフ0形有蓋緩急車が誕生しました。
形式が0なのが変わっていますが、トが100代、トキが200代、シキが300代と数字が被らないようにしているのでしょう。
この車の特徴は、井川線用の小形(通常の3/4サイズ)と、一般鉄道用の2種類の自動連結器を備えている事で、使わない方の連結器は首を振らせてたたみます。また、構造上 連結器解放テコは省略されています。
ブレーキ装置は 元々井川線も本線と同じものを使っているので、問題ありません。

井川線貨車の総数に比べて cワフ1〜4の4両と配備は少ないですが、もっぱら本線で直通列車に運用されていたのでしょう。
もちろん、井川線唯一の有蓋車なので 沿線の生活物資輸送にも使ったでしょうが、井川線内の貨物列車自体は緩急車省略か、緩急客車でも付けたのではないでしょうか。
なお、定期貨物列車が無くなって以降は、旅客列車に併結してレール塗油装置を付けて活躍したようです。

大井川鉄道 井川線 cワフ0形 有蓋緩急車 公式側 アプト化改造 大井川鉄道 井川線 cワフ0形 有蓋緩急車 非公式側 アプト化改造


cワフ0形は現在も健在で、アプト化対応の改造もされました。
また、いつの頃からか屋根が鉄板張りに改造されています。

大井川鉄道 井川線 cシキ300形 大物車

大井川鉄道 井川線 cシキ300形 大物車 公式側

cシキ300形はダム・発電所建設用に作られた軽便規格の大物車で、荷重は25t。昭和29年(1954年)に2両が製造されました。
今は井川線沿線に道路が整備されているので、黒部峡谷鉄道の大物車と異なって暇を持て余していますが、現在もcシキ301号車が残されて 低床を生かして たまにユンボとか運んでいるようです。

大井川鉄道 井川線 スロフ1形 貴賓緩急客車

大井川鉄道 井川線 スロフ1形 貴賓緩急客車 公式側大井川鉄道 井川線 スロフ1形 貴賓緩急客車 非公式側

もともと産業鉄道の井川線に 本格的な客車は無かったのですが、昭和29年(1954年)に会社幹部や来客のいわゆるVIP輸送用に作られたのがスロフ1形です。
1と2の2両が作られました。なお、正式には形式の頭にcが付くようですが、車体表記は貨車と違ってcは付きません。
自重6.5tで定員16名なので 国鉄ならコロフですが・・・井川線の車両形式はフィーリングで決めているのでしょう。
扉は点対象配置で、座席はロングシートです。
後年は観光客輸送にも使われ、平成2年(1990年)に廃車されました。現在、新金谷駅前の「プラザロコ」で保存されています。

井川線の客車は コロコロ塗装変更していますが、絵の水色の発色は 良い写真が見当たらないので参考程度に・・・。
千頭森林鉄道の簡易客車も同様の塗装だったようです。

大井川鉄道 井川線 スハフ1形 緩急客車

大井川鉄道 井川線 スハフ1形 緩急客車 公式側大井川鉄道 井川線 スハフ1形 緩急客車 非公式側

井川線のスハフ1形は、やはり昭和29年(1954年)に作られた、ダム工事作業員輸送用の客車です。
自重8t、定員40名で、スロフの続番の3〜7号車の5両が製造されました。
オープンデッキで優美な外観が特徴ですね。ダム建設終了後は観光客輸送に使われました。

大井川鉄道 井川線 スハフ1形 緩急客車 アプト化改造 公式側大井川鉄道 井川線 スハフ1形 緩急客車 アプト化改造 非公式側


スハフ1形は現在も4と6号車が生きており、アプト化対応改造されました。

井川線は現在 観光輸送に特化していて貨物輸送もなく、万年赤字ですが、地元へダム建設の見返りの意味があるため維持されており、現在も車両の所属は中部電力です。

黒部峡谷鉄道 箱形(EDM形/EDR形)電気機関車

黒部峡谷鉄道 EDR形 電気機関車 29号機黒部峡谷鉄道 EDM形 電気機関車 32号機

黒部峡谷鉄道(くろべきょうこくてつどう)は 黒部川のダム発電所の建設のためにつくられた762mm軌間の産業鉄道ですが、戦前から立山連峰の観光客便乗輸送を行っており、戦後になると観光客がさらに増加したため、昭和28年(1953年)に地方鉄道に昇格しました。

黒部峡谷鉄道で最初に導入された機関車は、L形で草軽電気鉄道のものと同系の鉱山機関車です。
その後、凸形機関車が増備されていきましたが、昭和41年(1966年)のED18号機からは箱形になりました。

箱形といっても軽便の小形機関車のため 前後の運転室は連絡しておらず、機器のメンテナンスは側面から行います。
凸形と全長や出力は さして変わらないので、客車暖房用の電源装備と、関節制御化に伴う機器設置スペースの拡大が 主な形状変更理由でしょう。
前後台車は連結されており、車体は載っているだけの いわゆる旧型電機方式です。
当初 重連総括制御はできませんでしたが、観光客の増加で長大編成の客車列車を牽引する必要がでたため、1970年代から機器が追設されています。
その後、新製や凸形機の改造により平成6年(1994年)まで増備が進められ、17号機〜33号機が揃いました。

箱形ED機の当初の性能は、主電動機出力35KW、ギア比78:14でした。
平成2年(1990年)から速度向上のためギア比を74:18にする改造が始まり、このタイプはEDM形に改称され、31、32号機はEDMとして新製されました。

しかし、ギアをいじったら牽引力が不足したようで、主電動機出力を42KWに強化したEDR形に再改造されました。
具体的には、平成5年(1993年)に、主電動機出力42KWの凸形17号機を箱形に改造したのがEDR形の始まりで、33号機はEDRとして新製されました。
いまのところ 全箱形機の改造は済んでおらず、現在はEDM形とEDR形が混在しています。
重連は、EDM+EDMもしくはEDR+EDR、EDR+EHRで組になります。

黒部の箱形機の外観の特徴は、運転席前面の通風用出窓です。
ただし、19号機は出窓が無く、17、32、33号機は運転室を延長したため、出窓になっていません。
なお、当初は前面2枚窓でしたが現在は全機1枚窓に改造されています。
また、車体側面の通風口は各機でさまざまですが、EDR形化の際にルーバーを増設しています。
絵は左が EDR29、右がEDM32。絵の向きは、左が宇奈月方で、右が欅平方です。ジャンパー栓やホースの向きが固定されているので 方向転換はしません。

黒部峡谷鉄道の機関車は、平成23年(2011年)に登場のEDV34、35号機から、インバーター制御の新系列が新製されています。

黒部峡谷鉄道 EHR101形 片運転台 箱形電気機関車

黒部峡谷鉄道 EHR101形 電気機関車 + EHR102形 電気機関車

黒部峡谷鉄道のEH101形 電気機関車は、昭和49年(1974年)年に主電動機出力42KWの凸形 ED15号機とED16号機の改造により誕生しました。
客車列車の重連牽引を目的に、箱形機の運転台を片側省略した形態で、常時重連しているため、8動軸のEHを名乗りました。
しかし機器の構成的には単独使用も可能なため、101号機と102号機に分かれています。
ただ、単機で動かせるといっても、黒部峡谷鉄道では方向転換できず、また 他の箱形機と重連総括するにも性能が異なるため、運用は常に101と102がペアになっていたようです。

しかし平成5年(1993年)に、ギア比を78:14→74:18にして高速化(EHR化)した事により、EDR機と性能が統一されて、現在は それと重連を組む事もあるようです。
絵は、左が宇奈月方102号機で、右が欅平方101号機です。前から見た時に 重連用空気ホースが無いのが 他の箱形機との識別点です。

黒部峡谷鉄道 ト形/オト形 無蓋車

黒部峡谷鉄道 ト形 無蓋車黒部峡谷鉄道 ト形 無蓋車 フレコン積黒部峡谷鉄道 オト形 無蓋車

黒部峡谷鉄道は水力発電所やダムの建設のために敷かれたので、建設資材輸送用に数百両の無蓋車を所有していました。
その後、トロッコ客車への改造もあり 数を減らしましたが、現在も関西電力発電所と黒部川治水のための資材輸送は活発で、40両程度の無蓋車が在籍しているようです。
積荷は、ありとあらゆるもので、大型重機等は細かく分解して運びます。

絵に描いたのは、左側2つが荷重3tのト形、右側が荷重3.6tのオト形で、どちらも戦後製。
小形のトの方は 終点の欅平駅のエレベーターに乗りいれて、一般人立ち入り禁止の上部軌道まで入線可能です。
絵は現在の姿ですが、当初は空気ブレーキを装備していませんでした
また、貨車の所属は 厳密には黒部峡谷鉄道所有車と関西電力所有車が混在しているようです。

黒部峡谷鉄道 チ形/オチ形 長物車

黒部峡谷鉄道 チ形 長物車黒部峡谷鉄道 オチ形 長物車

黒部峡谷鉄道では、無蓋車の他に長物車も多数活躍しています。
絵に描いたのは、左側が戦後製 全長3598mmのチ形、右側が戦前製 全長4537mmのオチ形で、どちらも回転枕木付きの荷重3.6t。

この他に黒部峡谷鉄道では、回転枕木付き 荷重7t 全長6000mmボギー車のナチ形と、荷重15t 全長8120mmボギー車のムチ形が所属しています。
多くは回転枕木を利用して2車またがりで長尺物の輸送に使われますが、回転枕木を撤去して単独で使ったり、仮設のタンクを据え付けて タンク車代用として使ったりもしているようです。
全長の長いムチ形は フラットカーとして自動車や建設重機の輸送に活躍します。
なお、チ形は上部軌道まで入線可能です。

黒部峡谷鉄道 オシ形 大物車

黒部峡谷鉄道 オシ形 大物車 オシ2

黒部峡谷鉄道には背高貨物輸送のため何両かの大物車がいますが、絵に描いたのは最大のオシ2で、20t積めます。
オシ2は大正14年(1925年)汽車会社製で、この他 荷重10t昭和37年(1962年)日本車輌製のオシ3というのもいます。
また、昭和33年(1958年)ナニワ工機製 荷重5tの 小形大物車 シ104〜106も存在し、そのうち シ106は現役です。
おそらく戦前には オシ1ないしシ1も存在していた事でしょう。

大物車も、当初は手ブレーキのみでシンプルな外観でしたが、現在は高床面に空気ブレーキユニットを追設して凸凹しています。
大物車と言っても軽便規格で 大したものを積めないように感じますが、黒部川の発電所では直径3m台の水車が使われており、斜めに積めば この大物車で運べます。

黒部峡谷鉄道 C形客車 ハ/ハフ

黒部峡谷鉄道 C形 客車 ハ 旅客輸送現役時代 黒部峡谷鉄道 C形 緩急客車 ハフ 秋季仕様黒部峡谷鉄道 C形 緩急客車 ハフ 更新車

黒部峡谷鉄道のC形客車は、便乗客輸送用にト形等から改造されたものですが、昭和10年(1935年)頃から既に改造が始まっていたようです。
改造は ベンチと屋根と付けただけですが、この簡単な構造がかえってトロッコ列車として親しまれました。
その後 旅客輸送が活発になるとボギー客車が新製されて、旅客営業から退きました。

絵の左端のものが旅客営業現役時代で、形式はハ。6列の座席があり、定員は18名。
まだこの頃は空気ブレーキを備えていませんが、のちに装備しました。また、車掌設備も追加したものは ハフに形式変更しています。
真ん中の絵は、秋季にアルミサッシを取り付けられるように改造した姿。暖房はありませんが、他車への暖房回路は引き通されています。
さらに、右端の絵は車体を更新した姿です。

C形客車は一般旅客営業はしなくなったものの ハフ形は残され、発電所・治水作業員輸送に活躍しており、また、貨物列車や混合列車の緩急車として欠かせない存在です。


参考資料


小形鉄道車両の絵 その2は こちら

蒸気機関車の絵は こちら  ディーゼル機関車の絵は こちら  電気機関車の絵は こちら  客車の絵は こちら

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