貨車の絵 その13



これらの絵は 素材として使う事も考慮して描いているため、使用色数が少なく軽いのが特徴です。トロッコ等は小形鉄道車両のコーナーへ。
改造素材や、ホームページや冊子のネタとして、ご自由にお使いください。※注 絵を単体で商用・営利目的使用する場合を除く。
小さな手直しは頻繁にあり、更新履歴に載せない事も多いいため、古いキャッシュを消去して、利用直前にコピーする事をお勧めします。
ご使用の際は、知らせて頂けるとうれしいです。
なお、絵や解説文の根拠たる参考文献等は ここに記載しきれないので、直接私にメールか掲示板で問い合わせて頂ければ幸いです。また、基本的に解説文は作画当時に書いたものなので、情報が古い場合があります。

このページの絵は特記以外1ドット50mmで描いています。


貨車の絵 その1は こちら  貨車の絵 その2は こちら  貨車の絵 その3は こちら  貨車の絵 その4は こちら  貨車の絵 その5は こちら  貨車の絵 その6は こちら  貨車の絵 その7は こちら  貨車の絵 その8は こちら  貨車の絵 その9は こちら  貨車の絵 その10は こちら  貨車の絵 その11は こちら  貨車の絵 その12は こちら  貨車の絵 その14は こちら  貨車の絵 その15は こちら  貨車の絵 その16は こちら  積荷の絵その1は こちら  積荷の絵その2は こちら  蒸気機関車の絵は こちら  ディーゼル機関車の絵は こちら  電気機関車の絵は こちら  小形鉄道車両の絵 その1は こちら  小形鉄道車両の絵 その2は こちら

表紙へ

九州鉄道の炭車たち(タ形6トン炭車、タブ形6トン炭車、ケ形9トン炭車、ケブ形9トン炭車、レ形7トン炭車、レブ形7トン炭車)

九州最初の鉄道は明治22年(1889年)開業の九州鉄道で、この鉄道は特に石炭輸送に特化したものではありませんでしたが、広大な九州炭田を要する地なので産出する石炭の輸送の役目もありました。
本格的な石炭輸送用鉄道としては、筑豊鉄道と三池炭砿の専用線が明治24年(1891年)に相次いで開業していますが、開業時の九州貨車は資料が無く、国鉄にも引き継がれなかったので詳細は不明です。
三池炭砿の方は当初は砿山軌道から始まったようで、国鉄とは別の独自進化を遂げたようですが、なんせ専用軌道ですので残念ながら詳細は知りません。ただ双方は お互いに影響し合っていたものと思います。

筑豊鉄道は明治30年(1897年)に九州鉄道と合併し、さらに豊州鉄道や唐津鉄道が合流して明治40年(1907年)に国有化していますから、鉄道貨車としての九州石炭車の歴史は筑豊鉄道から始まります。
筑豊鉄道や九州鉄道でも当初の石炭輸送はまだ6、7トン積の無蓋車で充分で、それでも人馬や河川舟運(水量が少ない時は運行できない。)に比べて効率的に港まで石炭を運べるようになりました。
やがて石炭の船積み施設の石炭桟橋やクレーンが整備されると、貨車の側面ではなく、底から石炭を落とす鉱石車が求められるようになり、無蓋車を底開きに改造するなど試行錯誤が始まります。
九州地区の炭砿は、坑口〜港まで完結する三池炭砿は別格として 財閥経営の大きなものから 個人経営のような小さなものまで無数に存在したので、北海道のような大形石炭車ではなく 2軸石炭車が発展してゆく事になります。

明治26年(1893年)に筑豊鉄道が導入したのが この6トン積の炭車で、英国のラムソンアンドラピーヤ社から150両が輸入されました。九州鉄道に合併後の形式はタ形のタ251〜400号車で、国有化後はテタ3250形となります。
当時、石炭の積出し港では石炭桟橋のほか、岸壁のクレーンで貨車を吊り上げて船の上に移動して、船の上空から船倉に石炭を落とす方法が採用されました。
この貨車はそれに対応した底開きホッパ車で、クレーンのワイヤーのフックを掛ける吊り金具が備わっています。
底扉は簡単なロックで開ける事ができ、閉めるときは車体片側に垂れ下がった鎖を引っ張ります。車体を鎖が貫通して底扉に結ばれています。
筑豊鉄道では他に木製の6トン積炭車もいたようですが、国鉄に継承されることなく廃車されているので、どのようなものだったか不明です。

こちらは九州鉄道が明治28年(1895年)に平岡工場という車両メーカーに製作させた半鋼製炭箱の9トン積炭車です。
形式はケで ケの1〜30号車、およびブレーキ付きのケブの1〜45号車。国有化後はタ2515形とフタ604形になります。
九州鉄道ではタ形=6トン積、レ形=7トン積、ソ形=8トン積、ケ形=9トン積で炭車の形式が整理されています。
車端に制動手が乗っているのがケブで、車端の上にある椅子に座って手ブレーキを操作します。上のタ形もそうですが、ただのケ形には そもそもブレーキがありません。
客車ならともかく頻繁に入換をする貨車で留置ブレーキも無いのは不便なような気もしますが、九州の鉄道が当初手本にしたドイツ流儀なのか、車端に吹きさらしで制動手が座る方式は大正時代まで続き、ブレーキ非搭載の貨車も昭和8年(1933年)まで存在しました。
九州地区は独自に運炭を発展させたので、その是非はともかく中央の常識が及ばない独特なルールが多いのです。

タ2515形とフタ604形は大正6年頃に廃車となりました。

こちらは7トン積のレ形及びレブ型で、明治28年(1895年)以降にドイツから輸入されたものですが、元からこの形態だったのか 無蓋車等を改造したのかは不明です。 炭箱が木製のものと半鋼製のものがあり、国有化後、木製のものがタ2116形とフタ535形に、半鋼製のものがタ2397形とフタ504形になりました。合わせて総数499両。大正6年頃に廃車となりました。

こちらは明治29年(1896年)に筑豊鉄道が用意したタ形の増備車で、炭箱の固定方法が変更されています。九州鉄道では順番が逆転してタ1〜250号車となりました。
国有化後はテタ3000形となります。

こちらは九州鉄道が明治31年(1898年)に導入したタ形の増備車。かなり構造が洗練されて、タ701〜900号車と番号が飛びました。
この頃にはクレーンが大型化したことで貨車全体をレールごと持ち上げる荷役方法に代わり、吊り金具は不要となりました。
国有化後はテタ3400形となります。

明治32年(1899年)製のタ形は7トン積のレ形を6トンに減トンにしたようなものです。総数120両。
国有化後はタ2000形、フタ500形となり、やはり大正6年頃に廃車となりました。

国有化後の古典石炭車の姿はこんな感じ。
ただし大正時代に入るとすぐに増炭改造、もしくは廃車淘汰が始まるので、この仕様も一時のものでした。

九州鉄道 ケ形 9トン積 炭車

左は九州鉄道が明治29年(1896年)に導入したケ形の31〜175号車。右は明治32年(1899年)に導入したケ形の176〜275号車です。
構造的にはタ形を近代化大形化したもので、国有化後はそれぞれテタ5782形、テタ5927形となり、最終的には増トン化されてテタ15000形に編入されています。
下は国有化後の姿。

九州鉄道 ソ形 8トン積 炭車/九州鉄道 ソブ形 8トン積 炭車

こちらは明治32年(1899年)から導入された 九州炭車のひとつの完成形と言える、ソ形及びソブ形8トン積炭車です。
この頃は国内車両メーカーも増えて製造箇所毎に微妙な違いがありますが、統一された仕様で明治38年(1905年)までに3100両以上が製作されました。
下は国有化後の姿で、鍋の高さにより形式が分けられて、テタ3600形、テタ4882形、フテタ800形、フテタ1319形となりました。

三井三池炭鉱 8トン積 炭車

これは明治末期から三井三池炭鉱が導入した8トン積石炭車です。
見てのように九州鉄道のソ形と同系の鉄道車両メーカー製の量産車ですが、三池炭鉱は積み出し港に直結しているので国鉄に乗り入れる必要性も薄く、三池向けにいくつか仕様変更がされています。

まず、当時の三池炭鉱のマイニングロコやトロッコに合わせて連結器が低い位置にあります。ただ、将来の連結器換装を考慮した設計のようです。
また、絵では表現できていませんが、この連結器のバッファーの間隔は 急曲線に対応するためか国鉄のものより狭くなっています。
急曲線対策もしくは荷役装置のレールの長さのためか 車輪の間隔も狭くなっていますが、この位置に車輪があると底扉を開けた時に車軸に石炭が降り注ぐ欠点はあります。
九州鉄道〜国鉄の2軸石炭車より進んでいるのは留置ブレーキとして側ブレーキを備えている事ですが、全車に及んでいたのかは不明です。
側ブレーキの配置から底扉は2枚である事が分かり、九鉄の3枚とは違っています。

テタ3600形 鉄製石炭車(9トン積増炭車)/テタ4882形 鉄製石炭車(9トン積増炭車)/フテタ800形 鉄製石炭車(手用制動機付)(9トン積増炭車)/フテタ1319形 鉄製石炭車(手用制動機付)(9トン積増炭車)

さあ、大正期の九州石炭車の増炭工事の幕開けです。
まあ、明治末期からなんですけど、鉄道国有化して間もない明治43年(1910年)から元ソ形、ソブ形の1トン増積工事が始まりました。
形式は8トン時代から変わらずで、ただ鍋を垂直に嵩上げしただけのようです。

テタ6027形 9トン積 鉄製石炭車/テタフ9000形 9トン積 鉄製石炭緩急車

こちらは国有化後の明治44、45年(1911、1912年)に、川崎造船と三菱造船で新製された 9トン積のテタ6027形420両とテタフ9000形100両。
ここに来てやっとブレーキ車に狭い部屋があつらえられましたが、ヘンテコな構造で、そもそも車両全体が補強だらけで変な感じです。はっきり言って設計がこなれていません。
残念な事に写真もなく、すぐに増炭改造されてしまったので、本当の姿はよくわかりません。
絵は一応 形式図通りに描きましたが・・・。

テタ2524形 13トン積 鉄製石炭車

大正2年(1913年)には一気に13トン積のテタ2545形が新製されるに至りました。
車体サイズを当時の荷役設備の限界まで大きくしています。全体の構造も洗練されたものとなり、底扉の開扉ロック構造も変わりました。
ただ、すべての荷役設備の更新は終わっておらず、10トンまでしか対応できない施設もあったため、炭箱の3分の1の位置に隔壁を設けて、3枚の底扉の開き方で荷卸ろしに対応しています。
隔壁の位置には白線が引かれています。この隔壁は大正15年(1926年)に撤去されました。
テタ2524形は284両が製作され、のちに15トン積のテタ18000形となります。

フテタ650形 12トン積 鉄製石炭車(手用制動機付)

こちらは大正2年(1913年)にテタ2524形と同じコンセプトで製作された手ブレーキ付きの12トン石炭車です。
国鉄の小倉工場製で、鍋の垂直部分に木材を使用していますが、なによりも注目しちゃうのが制動手の乗務位置。
ただでさえ吹きさらしの乗務環境なのにこれでいいのか?とも思いますが、この頃にはたぶん正式な緩急車も用意されて列車に連結されて、ここに座るのは入換運転の時くらい・・・だったらいいですね。
ただ、この位置まで炭箱を伸ばして荷重を増やさなかったのは、のちの緩急車化を見越しての事だったのでしょう。
フテタ650形は92両が製作され、のちに15トン積石炭緩急車のテタフ13000形となります。

テタ3250形/テタ3000形/テタ3400形 鉄製石炭車(9トン積増炭車)

九州鉄道引継ぎの いにしえのタ形は大正2年(1913年)に至り6トン積→9トン積に改造されることとなりました。まあ、車齢としては20年そこそこなので まだ若い方です。
改造の詳細は種車の構造によって全部違いますが、車体全体を強化して炭箱を垂直に嵩上げしています。
ややこしいのが形式が変更されていない事で、相変わらずテタ3250形、テタ3000形、テタ3400形を名乗っています。

絵を見て分かるように「九」の字と「門」の字か表記されていますが、これは配属された鉄道管理局の表示で、石炭車は一般貨車と違って配備先が決まっていました。
配属局名は当初 九州鉄道管理局の「九」で、大正9年(1920年)から 門司鉄道管理局の「門」ですが、大正14年(1925年)に規定が改正されて、九州と北海道の石炭車は記入が省略されました。

また、一部の絵の貨車形式の上に見られる□っぽいのは、絵では表現しきれませんが□の中に「唐」の文字が書かれた佐賀県唐津線の運用車の表示です。

テタ6450形 13トン積 鉄製石炭車

6トン車が9トン化できたのなら、9トン車は13トン化ということで、大正3年(1914年)からテタ3600形とテタ4882形を13トン積のテタ6450形に改造する工事が始まりました。
今回はさすがに炭箱の嵩上げだけでは強度が足りず、下廻りの交換や補強がなされています。

テタ15000形 15トン積 鉄製石炭車/セム1形 石炭車(旧テタ15000系)

と、旧ソ形を8トン→9トン→13トンと大形化してきたわけですが、「もっと・・・。」という声で大正6年(1917年)からは 13トン積化の工事を打ち切って、ついに15トン積化することとなりました。
形式はテタ15000形。
種車は旧ソ形(テタ3600形、テタ4882形)のほかケ形(テタ5782形、テタ5927形)やテタ6027形に及んでおり、戦後にも他形式から改造されたものや、戦時買収路線から編入された同系車もあるので、この一族はディティールにバリエーションがあります。
とは言うものの、九州の石炭車の改造は国鉄の若松工場と小倉工場が一手に引き受けており、他の車両で見られる施工工場の差というものはありません。

この改造は大規模なもので、下廻りの交換・補強のほか、炭箱を切開して鉄板を曲げ直して ナベの傾斜角を緩くすることによって幅を広げて、さらに垂直部分を木板で足して炭箱の容積を確保しています。
車体に表記された「白△」は車体断面が旧来の規格より大きいという意味で、荷役施設によっては入線不可を示しています。斜めの白線は隔壁の位置です。
形式番号の下には小さく「×」が書かれていますが、これは側ブレーキを装備していないという表示。
側ブレーキが無いと入換の時に現場は困るのですが、この期に及んでも頑なにブレーキの取付けは行われておりません。

また、絵では炭箱上部に何か棒が立っていますが、これは九州の石炭列車独特の「炭票」というものです。
九州の炭鉱は、大〜小規模なものが各地に無数に点在しているのが特徴で、小規模なものは石炭車1車に手作業で積み込む個人経営のものもありました。
各支線の結節点の駅には それらの石炭車が寄せ集められ、行き先別に組直されます。
行き先は若松、戸畑、門司港、苅田港等です。

結節点で最大規模の直方駅には あらかじめ行き先別の仕訳線兼着発線が用意され、ここに入換で石炭車列が突き放たれ、定数1600tの長さに連結両数が達し 前頭に機関車を連結すると、おもむろに信号が変わり列車は出発していきます。 まるで、流れ作業です。
ちょっと専門的な話ですが、筑豊本線の石炭列車のダイヤは 基本的にすべて季節列車のようなもので、あらかじめ無数に引かれた平行ダイヤが用意されており、実際に列車が走ったスジに後から手で線を引くというという、ちょっと国鉄の一般的ルールとは違う例外的な事が戦後まで行われていました。

この列車を組成するうえでの目印が 車体上部に立っている「炭票」で、白地の木の板に上から着駅、荷受人、炭種が書かれます。
この表示のキモは凾竅「に加工された先端形状で、△は戸畑、Mは西八幡と一目で大まかな行き先が分かるようになっています。
本来、貨車の行き先の目印は「車票」なのですが、車票は紙に手書きで しかも使い捨てが基本なので石炭車には効率が悪く、行き先が限られていてしかも作業員から見やすいこの木の棒が役に立ちました。
転轍係は この簡略的な目印を見て 手早く方面別に転轍器を切り替えるというすんぽうです。
なお、北海道の石炭列車では使いまわしができる車票が使用されていました。

この炭票が見られたのは石炭輸送華やかなりし頃で、大正11年(1922年)からは全ての2軸石炭車に受け金具が取り付けられ(それ以前や無蓋車積みの場合は石炭に突き刺していた。)ていました。
炭票は石炭車に黄帯が入る頃には姿を消したようです。

この大正年間から昭和初期に掛けては、貨車にとって ただでさえ自動連結器化、空気ブレーキ化、車体標記変更などのイベントが多いいのに、それに加えて九州の石炭車は毎年のように仕様変更を繰り返しているので、時代考証に注意しながら絵にするのはしんどいです。
上の絵は自動連結器化後、大正14年(1925年)〜昭和2年(1927年)年のテタ15000形の姿です。
ところで、大正時代以降の九州の石炭車の歴史については「石炭車の歴史」という本に網羅されています。

テタ15000形は昭和3年(1928年)の貨車称号改正で、下述のテタ18000形と合流して、セム1形となりました。
そして同年からようやくセム1形に側ブレーキの装備が始まりました。

国鉄の貨物列車空気ブレーキ化は昭和5年(1930年)からですが、昭和8年(1933年)になってやっとセム1形にも空気ブレーキの装備が開始されました。
セム1形は改造に改造を重ねているので空制機器の装備が窮屈そうです。
多くのセム1形に空気ブレーキが装備されましたが、戦後になっても空気ブレーキ非搭載で使われ続けたものも多数います。

こちらはセム1形の戦後の仕様です。
側ブレーキは操作の安全性が向上したブレーキイージーというのを早くから導入しています。
セム1形は昭和10年代と戦後の2回程度 炭箱の交換をしています。戦前の更新でも鋼製炭箱に替えられたものもありますが、戦後に更新されたものは角が角ばっているものが多いです。
セム1形は昭和41年(1966年)まで活躍しました。

セム1形 石炭車(水槽車代用)

これは渇水期に機関区等に給水する水槽車が不足した際に 応急的に石炭車を改造したもので、昭和14年(1939年)以降度々改造されています。
渇水期が過ぎると元の石炭車に戻すため、形式変更等はありません。
絵は戦後に改造されたやつで、○に水の標記がされています。
改造内容はホッパ底の開口部に水抜き穴付きの鉄板を溶接し、ホッパの上部は開口されたままですが、前後動の波でこぼれるのを防ぐために 両端部の70センチ程が蓋されています。
なお、昭和30年代以降は石炭車に復旧しやすいように底蓋は鉄板の仮溶接ですませて、隙間はピッチでシーリングで防水し、水はポンプで汲み取る方法になりました。
※水槽車については貨車の絵 その16も参照してください。

フテタ12000形 15トン積 鉄製石炭車(手用制動機付) /セム3140形 15トン積 石炭車

フテタ12000形は九州鉄道ソブ形由来のフテタ800形、フテタ1319形のうち461両を大正6年(1917年)に15トン積に改造したもので、改造内容はテタ15000形と同じです。

そしてフテタ12000形は昭和3年(1928年)の改番でセム3140形となりました。
ただ、手ブレーキは列車ブレーキとしては有用ですが、突放入換で地上から貨車に跳び乗って操作するには不向きなので、戦後に側ブレーキ化されてセム1形に統合されました。

テタ18000形 15トン積 鉄製石炭車/セム1形 石炭車(旧テタ18000系)

9トン積車の15トン積化に並行して、大正7年(1918年)からは元から13トン積で製作されたテタ2524形も15トン積化されました。
こちらの改造は比較的軽微で、元の炭箱を嵩上げしただけです。
なので車体幅は広がっていないので、テタ15000形のような白△マークはありません。
しかしテタ18000形は車長が長いのでそれの注意喚起なのか?大正期には白○標示が書かれていました。

昭和3年(1928年)の改番で、テタ18000形はセム1形に合流しました。
テタ18000形のグループは旧テタ15000系より少数派ですが、炭箱や台枠の形状が違うので、編成になれば簡単に見分けられます。
絵は昭和6年(1931年)以降の姿。
なお、戦時買収路線の小倉鉄道でも同系車を自社発注していて、それら110両はセム3750形となっています。

こちらは、昭和8年(1933年)以降の空気ブレーキの装備車の姿。

そして、戦後の姿です。

テタフ11700形 14トン積 鉄製石炭緩急車/セムフ1形 14トン積 石炭緩急車 セムフ1〜100号車

テタフ9000形9トン積車は大正8年(1919年)に、100両全車が14トン積に増積されてテタフ11700形となりました。車掌室の内側幅は610mm。

そして、昭和3年(1928年)の改番ではテタフ14000形と共にセムフ1形となりました。絵は戦後の更新車。

セムフ1形 14トン積 石炭緩急車 セムフ101〜558号車

こちらは九州鉄道ソブ形由来のフテタ800形、フテタ1319形のうち458両を緩急車に改造したもので、構造はテタフ11700形とほぼ同じ。
形式はテタフ14000形で、これにより九州の石炭列車にも多数の緩急車が用意されることとなりました。
絵はセムフ1形に改番されたのちの姿で、セムフ101〜558号車が該当します。
セムフ1形のうち一部は、戦後にセム1形に改造されました。

テタフ13000形 15トン積 鉄製石炭緩急車/セムフ700形 15トン積 石炭緩急車

テタフ13000形は15トン積のフテタ650形に車掌室を取り付けてかつ炭箱を嵩上げして荷重15トンとしたもので、大正10年(1921年)からの改造です。 車掌室内の幅は540mm。風雨はしのげます。

テタフ13000形は昭和3年(1928年)の改番でセムフ700形となりました。

テタフ2900形 8トン積 鉄製石炭緩急車/セフ20形 8トン積 石炭緩急車

テタフ2900形は大正11年(1922年)にテタ3250形を改造して作られた8トン積石炭緩急車です。 75両が製作されました。

テタフ2900形は昭和3年(1928年)の改番でセフ20形となりましたが、最後まで空気ブレーキは搭載されず、昭和22年(1947年)に廃車されました。

セ50形 10トン積 石炭車

9トン積の古典石炭車のテタ3250形、テタ3000形、テタ3400形は、大正13年(1924年)から1トン嵩増しの10トン車となりましたが、相変わらず形式の変更はありませんでした。
昭和3年(1928年)の改番では3形式まとめてセ50形となりました。

セ50形の側ブレーキ装備はセムよりさらに遅れて、昭和10年(1935年)からです。
実はセ50形及びセフ20形は昭和10年(1935年)の時点で老朽化で廃車の検討が始まっており、廃車が望ましい車両には左端絵のように白○が標記されました。
それでも貨車が足りないために、だましだまし使用を継続するため、昭和12年(1937年)からは暫定使用の車両に75mm角の□ 標示が描かれました。
絵で空気ブレーキ非装備車の+標記に並んでいる白点がそれです。

セ50形 10トン積 石炭車 戦時木体化更新車

そして戦時体制となって、炭箱が腐食でボロボロのセ50系は、廃車したいのに貨車が足りなくて廃車できない状況が続き、そこで昭和17年(1942年)から、しかたなくホッパー部分を木造で暫定修理することにしました。
セ50系の混乱はさらに続き、老朽廃車して西日本鉄道に譲渡した奴が 昭和19年(1944年)に戦時路線買収で再び国鉄に舞い戻ってくるなどしました。
セ50形をようやく廃車にできたのは戦後になってからでした。

西武の2軸石炭車たち

西武鉄道は多摩川や入間川で川砂利採取をしていましたが、戦後になり国鉄から2軸石炭車を何両か譲り受けて砂利輸送に充てています。
この石炭車が主に活躍したのは是政線(→武蔵境線→多摩川線)で、是政で採取した川砂利原石を 約6km先の新小金井の砕石工場まで運ぶ短距離線内輸送でした。
この石炭車については「トワイライトゾ〜ン MANUAL IV」に詳しいです。

具体的に導入車両を見ると、セ1形セ1〜4号車が旧テタ3000系、セ1形セ5〜9号車がテタ3400系、セ1形セ10〜15号車及びセフ1形1〜3号車がテタ3250系、セム1形セム1〜8号車がテタ18000系だと思われます。
しかし戦後しばらくの時期、西武鉄道は頻繁に車号の振替を実施しており、詳細は不明です。
また総数の資料である形式図は、石炭車の晩年にホッパ車に形式変更してからのものであり、写真に残されているセフ3号車がカウントされていないなど、総両数はもう少しいたものと思われます。
さらに、テタ〜系と書きましたが、国鉄のセ50形セフ20形やセム1形は、昭和19年(1944年)に戦時路線買収で西日本鉄道などから多量の車籍編入がありました。
それらは私鉄の独自発注車のほか、もともと国鉄が廃車譲渡したものが含まれており、私鉄独自の改造もされていたようです。国鉄としては そんな老朽雑多な石炭車はさっさと処分したいので、西武に再譲渡した可能性が高いです。
実際、西武の石炭車の写真を国鉄純正車両と比べてみると、だいぶ おもむきが違います。

これら西武の2軸石炭車は比重の重い砂利輸送用なので、ホッパの背を低くカットしています。
西武鉄道のセ1形、セフ1形、セム1形は、昭和36年(1961年)に国鉄に合わせてホッパ車に種別変更されて、それぞれホ1形、ホフ1形、ホム1形になりました。しかし昭和39年(1964年)に多摩川の砂利採取が禁止されて役目を終えています。

三井三池炭鉱 セコ形 15トン積 炭車/貝島炭鉱 セム1形 15トン積 石炭車

三池炭鉱のセコ形は国鉄のセム1形の譲渡を受けたものと言われ、相当数がいたようです。
ただ、国鉄の普通のセム1形とは だいぶ雰囲気が違い、三池独自の改造も積極的にしているのでしょうが、そもそも正確な出自からしてよくわかりません。元私鉄車や、自社の旧形炭車の改造車もあるかもしれません。
絵は更新車体で嵩上げしたタイプです。

貝島炭鉱のセム1形は昭和51年(1976年)の閉山まで専用線内で活躍しました。
国鉄セム1形のお古ですが各車出自はバラバラで、絵はテタ6027形からの改造車と思われるもの。

テタ2980形 10トン積 鉄製石炭車/テタフ490形 9トン積 鉄製石炭緩急車

この貨車は足尾銅山の古河合名会社の私有貨車で、大正3年(1914年)にテタ2980形が8両、テタフ490形が4両製作されました。
積荷は銅精鉱(泥鉱)で、貨車の種別の石炭車(セ)とは国鉄に適当な専用種別が無かったため適当に付けたもの。正確を期すなら私鉄流に鉱石車(こをせきしゃ=ヲ)を名乗るべきもの。
足尾鉄道足尾線(実態は国鉄が借り上げ運営)は大正3年(1914年)に足尾本山まで全通しますが、この貨車はそれに合わせたもので、足尾銅山の通洞選鉱所から本山精錬所への通洞駅〜足尾本山駅のわずか4.1kmを運用していました。

この貨車の構造としては九州のソ形炭車に近いですが、積荷の比重の関係でだいぶ小柄です。
私有貨車なので側面に古河の屋号紋(社章)が書かれています。
昭和3年(1928年)の貨車称号改正では、テタ2980形がセ1形に、テタフ490形がセ600形となりました。

東武鉄道 ヲ61形 13トン積 鉱石車/東武鉄道 ヲフ1形 12トン積 鉱石緩急車

国鉄のセ1形とセ600形は昭和7年(1932年)に揃って三岐鉄道に払い下げられ、炭箱の嵩上げの上、セ1形には空気ブレーキを装備する改造がされましたが、昭和12年(1937年)には東武鉄道に移りました。
東武では砂利輸送用としてさらに増トン改造して、それぞれヲ64形、ヲフ1形として戦後まで活躍しました。
貴重な戦前期の写真が「鉄道ピクトリアル誌 863号」に掲載されています。

セム4000形 15トン積 石炭車

大正期以来、九州の石炭車は旧形車の増炭改造で需要をしのいできましたが、セム4000形は久々の新車として昭和11年(1936年)から305両が製作されました。
従来の2軸石炭車は台枠がくりぬかれていて強度が弱い欠点と、底扉の開閉構造が単純で操作がめんどくさい欠点がありました。
そこでセム4000形では台枠に中梁という補強を貫通させ強度を向上し、それを避けるために炭箱の底扉は中梁を挟んで斜めに配置するという 馬の鞍状のホッパ形状となりました。
また、底扉の開閉はセキ形石炭車で実績のあるウォームギアを利用したものとなり、一気に近代化しました。操作は車体側面の丸ハンドルにより行います。

このウォームギアを利用する方式は底扉を任意のスピードで徐々に開け閉めしたり、半開状態で止める事も可能です。
しかし、九州の現場では特に必要な機能ではなく、セキと違って扉を閉めるときに石炭が扉に挟まっていても外から見えず、力任せでハンドルを回してギアを破損させてしまう事例が多かったようです。

セム4000形の何よりの欠点は、国鉄は石炭の比重から無蓋車やセキ形と同じように営業活動に必要な容積を計算して、ごく当たり前の寸法で炭箱を設計したのに、なぜか利用者から「容積が少ない!」と苦情が絶えなかったこと。
この辺の事情は「石炭車の歴史」という本に記録されていますが、この「過積載できなくなった!」というクレームに国鉄はついに折れて、次のセム4500形を設計することとなります。

セム4000形は昭和30年代時点では まだそんなに古い車両ではありませんでしたが、昭和34年(1959年)には17トン積のセラ1形への改造(部品の提供)で数を減らし、残った車両は昭和45年(1970年)まで活躍しました。

セム4500形 15トン積 石炭車

セム4500形はセム4000形の改良形で、昭和12年(1937年)から904両が作られました。 セム4000形の量産版形式とも言え、要望の多かった炭箱の容積をセム4000形より拡大したほか、セム4000形の使用実績から荷役装置等が微改良されています。
セム4500では炭箱の補強を内側とする事で 幅を広げて容積を増す改良をしたのですが、国鉄としては荷主に対して「使い勝手を向上するために炭箱を大きくしたけど、石炭を山盛りにしないで、しっかり荷重を守って積載してください。」ということで妥協したのでしょう。
なお、九州の石炭車も昭和18年(1943年)の戦時増積で、10トン車は荷重12トン石炭11トン積、15トン車は荷重17トン石炭16トン積を許容しています。
ところで、九州のほかの石炭車にも言える事ですが、戦前期の写真を見ても、そんなに石炭を山盛りしている印象は無く、平らに均して積んでいる写真が多いですね。ただ、記録が少ないので実態はよくわかりません。

セム4500形もセム4000形と同じく、戦後はセラ1形への部品提供による廃車や、ヨンサントウで黄帯を巻くなどして昭和46年(1971年)まで活躍しました。

セム6000形 石炭車

セム6000形 石炭車 公式側 戦後セム6000形 石炭車 非公式側 戦後

セム6000形 石炭車 更新車 黄帯 公式側

セム6000形は、凝った構造のセム4000・4500形の設計を改め 簡略化したもので、鋼材節約を図っています。
昭和14年(1937年)から1251両が作られました。
設計変更点は再び台枠中梁を廃止し、底扉の開閉は単純なレバーリンク式を開発して、その関係で底扉の取付向きがレール方向から枕木方向に90度変更されています。
底扉の動作は開か閉の2択になりましたが、それで必要十分であり、高価なウォームギアを使う必要は無かったのです。また、この構造はセム1形よりも操作が簡単です。

・・・しかし、今度は資材節約をしすぎたようで、台枠強度の不足が問題となりました。
そこで戦後は 台枠に補強を入れる改造をしています。外観では台枠と炭箱の接合部を補強しているのが分かります。
下段の絵がそれで、昭和43年以降の65km/h制限の黄帯を巻いた姿を描きました。

セムフ1000形 石炭緩急車

セムフ1000形 石炭緩急車 公式側

セムフ1000形はセム6000形とペアとなる石炭緩急車で、昭和15年(1940年)に135両が作られました。
ペアとなるといっても 編成で綺麗に揃うはずもなく、各形式ごちゃ混ぜが 九州石炭列車の楽しさです。

セム8000形 石炭車

セム8000形 石炭車 急行 公式側セム8000形 石炭車 非公式側

セム8000形は昭和27年(1952年)から1780両が作られた セム6000形の改良形です。
懸案の台枠を強化し、また、溶接も全面的に採用しています。
・・・が、今度は台枠強度に余裕がありすぎたのか?増炭する事となり、昭和37〜昭和40年(1962〜1965年)にかけて全車がセラ1形に改造されました。
なので、セム8000の黄帯車は ありません。

変わり映えの無いセム8000ですが、昔の記録映像に○急マーク付きのものが編成で映っており、急行貨物列車用として使われたようです。

セフ1形 石炭緩急車

セフ1形 石炭緩急車 公式側 セフ1形 石炭緩急車 黄帯 非公式側

セフ1形は九州石炭列車伝統の、狭い車掌室を改めた存在です。
昭和29年(1954年)からセムフ1000形や セム6000形の改造名義で310両が作られました。
構造は セム8000形に従来の倍の広さの車掌室を追加したもので、改造扱いですが台枠等を新製しています。

セラ1形 石炭車

セラ1形 石炭車 黄帯 公式側セラ1形 石炭車 黄帯 非公式側セラ1形 石炭車 黄帯 水戸鉄道管理局 公式側

やっぱりセラと言えば、黄帯を巻いたこの姿。 を、思い浮かべる方が多いいでしょう。蒸気機関車末期。九州石炭車の象徴でもあります。

セラ1形はセム8000形の炭箱を単純に かさ上げし、17トン積とした設計で、昭和32年(1957年)から4129両が新製・改造されました。
セム8000改造のものは 元番号から4000引いた車号となっており、セラ4000〜を名乗ります。(セム8000以外にも改造種車はありますが、ほとんど名義上のもので、新製車に紛れています。)

この車は九州以外にも 本州に少数が進出しています。
右端の車両は1970年代の初頭に常磐線で見られたセラ1形。常磐線沿線の炭鉱から常磐協同火力発電所への石炭輸送に使われたとの事。
BRASS SOLDER 的 鉄道趣味生活さんの2006-11-30の記事を拝見して描けました。
写真を見ると、水戸鉄道管理局の「水」の横に何かの通し番号のようなものが書かれています。また、石炭が山積みですが、これは炭質の違いによるものなのでしょうか?九州の場合はスコップで平らに均すので、車体からはみ出ません。
これは蒸機の炭水車にも言える事ですが、石炭の積み方は時代や地域の特徴が色濃く出ますので、模型化の時は注意しましょう。※ 機関車の絵のD51とか、その辺こだわって描いてます。

セム1形 15トン積 石炭車(セメント輸送代用車)/セム6000形 15トン積 石炭車(セメント輸送代用車)

セメントのバラ積み輸送については昭和30年代から各種専用車貨車の絵 その16を参照。)が開発されていましたが、北九州周辺ではそれを補う目的でセムをセメント輸送及びセメントクリンカー輸送に代用することも行われました。
本来、特定の顧客に対して国の資産である国鉄車を専用に割り当てるのは好ましくないのですが、私有貨車導入までの暫定処置名目だったようです。
改造種車はセム1形とセム6000形が充てられ、改造は積込口等を設けた取外し式の屋根を被せる簡単なもので、荷降ろしは底扉を開いての重力式です。
顧客は北九州の日本セメントが香春〜葛葉間に58両、麻生セメントが船尾〜外浜間に42両、そのほか熊本の電気化学工業が9両、山口の宇部興産がセメントクリンカー用に9両とのことです。
使用時期は昭和32年(1957年)からで、私有貨車の導入と共に任を解かれてゆきました。

ホラ1形 17トン積 セメント専用 ホッパ車

上述の石炭車を代用したセメント輸送車は、日本セメントなどはエアスライド式貨車の導入に進みましたが、麻生セメントについては設備の都合か2軸石炭車の構造を踏襲したホラ1形を新製しました。
ホラ1形の設計は ほとんどセム8000形と同じで、セム6000形改造車と同じ屋根が載っています。荷重は17トンに増え、昭和35年(1960年)に18両が製作されました。
ただ、そもそもセメント粉は流動性が悪く、ただの重力式では石炭のように すんなりとは落ちてくれません。
荷降ろし現場ではバイブレーターを併用していたようですが、効率的とは言えません。
そのため、結局はエアスライド式貨車が導入されたのですが、それを見越していたのかホラ1形は屋根が外されて早い段階で石灰石輸送用に転用されています。
ホラ1形は大きな社名板が目につきますが、所有者の名義は麻生産業→麻生セメント→三井鉱山と変転しています。

セラ1形 肥料輸送代用車

セラ1形 肥料輸送代用車

これはセラ1形の肥料輸送転用車。
本州西端の下関〜岩国間の活躍で、屋根としてテントの骨組のようなものにシートを被せています。
数両の、極少数派だったのではないでしょうか?

セラ1形 生石灰輸送代用車/ホラ100形 生石灰専用 ホッパ車

セラ1形 生石灰輸送代用車ホラ100形 生石灰専用 ホッパ車

こちらはセラ1形の生石灰輸送転用車。
と、その本格的改造版のホラ100形 生石灰専用車。29両改造。
どちらも屋根を被せていますが、セラ1形の代用車の方は取り外し式で、ホラ100形となったものは屋根を固定しています。
運用区間は関門トンネルをくぐるもので、厚狭〜西八幡・大牟田・三池港。製鉄用の生石灰輸送に活躍しました。

ホラ100形 硅砂専用 ホッパ車

ホラ100形 硅砂専用 ホッパ車

こちらも上と同じくホラ100形ですが、こちらはガラス原料の硅砂輸送用で、構造が異なり、500番代に分けられています。
豊前川崎〜二島の運用で20両改造。

秩父鉄道 ヲキ100形 35t積 鉱石車/ヲキフ100形 35t積 緩急鉱石車

秩父鉄道 ヲキ100形 35t積 鉱石車 初期車 公式側 空車秩父鉄道 ヲキ100形 35t積 鉱石車 初期車 非公式側 積車秩父鉄道 ヲキフ100形 35t積 緩急鉱石車 初期車 公式側 積車

秩父鉄道 ヲキフ100形 35t積 緩急鉱石車 非公式側 空車秩父鉄道 ヲキ100形 35t積 鉱石車 公式側 空車秩父鉄道 ヲキ100形 35t積 鉱石車 非公式側 空車秩父鉄道 ヲキフ100形 35t積 緩急鉱石車 公式側 空車秩父鉄道 ヲキフ100形 35t積 緩急鉱石車 非公式側 積車秩父鉄道 ヲキ100形 35t積 鉱石車 公式側 積車秩父鉄道 ヲキ100形 35t積 鉱石車 非公式側 積車秩父鉄道 ヲキフ100形 35t積 緩急鉱石車 公式側 積車

秩父鉄道 ヲキ100形 35t積 鉱石車 更新車 公式側 空車秩父鉄道 ヲキ100形 35t積 鉱石車 更新車 非公式側 空車秩父鉄道 ヲキ100形 35t積 鉱石車 更新車 公式側 積車秩父鉄道 ヲキ100形 35t積 鉱石車 更新車 非公式側 積車

秩父鉄道のヲキ100系は、昭和31年(1956年)に大野原〜黒谷に開設された 秩父セメント秩父第2工場への石灰石輸送用として、同年に用意された 35t積鉱石車です。
影森駅に接続する秩父セメント三輪鉱山専用線から 秩父第2工場専用貨物駅の武州原谷駅まで、ヲキ8両+両端にヲキフの10両編成で活躍しました。
昭和37年(1962年)には 秩父セメント熊谷工場の開設に伴い ヲキ・ヲキフ100形も増備され、こちらは影森〜三ヶ尻間に2ユニット20両編成で運用され、現在に至っています。
ヲキ100形は自重14.9t、ヲキフ100形は自重16.0tなので、積車20両編成では下り勾配ながらも約1000tとなり、秩父鉄道では強力機が活躍しています。
ヲキ100系の特徴は圧搾空気を利用した底扉開閉機構と、バイブレーターを装備して荷役を近代化した事で、編成丸ごと同時荷降ろしができます。

ヲキ100系は 昭和48年(1973年)まで増備され、メーカーも2社あるため 細かく見ると仕様変更があります。
一応上段に描いたのが初期車で、ヲキフは101〜109号車までこのタイプ。以降のヲキフ増備車では 車掌室拡幅に伴い 全長が少し伸びました。
また、最下段に描いたのは 最近のブレーキ装置更新車で、デッキが少し混雑しています。この改造は2000年代初頭からで、現在は全車更新が終わっているようです。
ブレーキは近代化したものの、台車軸受は平軸受のままで、この車を現在も多数運用する秩父鉄道は、今や日本随一の平軸受整備能力があると思われます。

ところで ここまで何も説明せずに来ましたが、石炭以外の鉱物を運ぶ鉱石車の記号は「ヲ」を用います。
国鉄では石炭以外用途でも 石炭車「セ」で統一してたので 「ヲ」は私鉄独自の記号で、国鉄がホッパ車「ホ」を制定後も 秩父鉄道では伝統的に使っています。

「ヲ」の記号は 英語の鉱石車「オアカー」から取ったとする説と、「鉱石(コヲセキ)」から取ったという説があります。
国鉄で使っていなかったので、由来が曖昧なのです。
ただ、オアカーはore carであり、語源とするには ちょっと違和感を感じていました。
そこで「鉱石」の読みに注目し、歴史的仮名遣いを調べてみたところ、やはり「鉱・鑛」の正式な振り仮名は「コヲ(くゎう(kuwo))」ではありませんか!
「歴史的仮名遣い」というのは、戦後のどさくさで台頭してきた表音主義者により、昭和21年(1946年)に制定された「現代かなづかい」により葬り去られた日本語です。
元々は「い(イ)」と「ゐ(ヰ)」、「え(エ)」と「ゑ(ヱ)」、「お(オ)」と「を(ヲ)」は それぞれ発音が微妙に違います。
実際は 当時でも発音の使い分けは薄れていたようですが、戦前からの鉱石車が「オ」では無く「ヲ」だったのは 「現代かなづかい」が制定される前だったので、当然の事だったのです。
由来は「鉱石(コヲセキ)」とみて 間違いないでしょう。
なお、「コ」とならないのは、“小さい”という意味ですでに一般化されていたためです。また、電報略号が被った場合 2文字目から取るのは よくある事です。
とかく戦前戦中の歴史は、戦後に変なバイアスが掛けられて 間違った上書きがされている事が多いので、注意が必要です。

ホキ10000形 35t積 石炭専用 ホッパ車

ホキ10000形 35t積 石炭専用 ホッパ車 チチブ 公式側ホキ10000形 35t積 石炭専用 ホッパ車 チチブ 非公式側ホキ10000形 35t積 石炭専用 ホッパ車 電化 公式側

ホキ10000形 35t積 石炭専用 ホッパ車 太平洋 公式側ホキ10000形 35t積 石炭専用 ホッパ車 太平洋 非公式側

ホキ10000形は、セメント焼成燃料の輸入炭を運ぶために 昭和55年(1980年)に開発された 35t積ホッパ車です。
当時、日本では消費エネルギーの75%を石油に頼っていました。
しかし昭和48年(1973年)の第1次と、昭和54年(1979年)の第2次オイルショックの影響で、リスク回避により燃料を石炭に切り替える企業が増えてきました。
関東内陸部の秩父セメントでも、従来 炉の燃料に重油を主に使っていましたが、安定供給できる石炭に頼ることとなりました。
石炭を燃やすと 多量の石炭灰(フライアッシュ)が発生しますが、それもセメント原料として有効利用できるので好都合です。
当時は既に国産炭よりも輸入炭の方が安くなっていたため、東京湾で陸揚げされた石炭を 鉄道で運ぶこととし、国鉄と交渉しましたが、輸送量も多いため私有石炭車を製作する事となりました。
国鉄としても 今後同様のケースが想定されるため、石炭専用私有ホッパ車は標準車として国鉄主導で設計されました。

車両の構造は秩父鉄道で石灰石輸送に活躍していたヲキ100形を参考とし、底開き式の近代的な石炭ホッパ車が誕生しました。
荷役用エアホースを繋げる事により、編成単位での荷降ろしが可能です。
形式をセキにしなかったのは、私有貨車に石炭車という項目がなかったためです。
標準車といっても国鉄貨物が完全に斜陽化している中、採用したのは2社だけで、秩父セメント向けに250両、電気化学工業向けに22両が製作されました。
電化工業向けはホッパの鋼板を厚くし、石炭の硫黄分による腐食に強くしています。

積荷は当然 輸入炭ですが、時期により炭質や出炭地が違うようで、オイルコークスを運ぶこともあるようです。また、セメント工場では完全に石炭に頼っているわけでなく、重油も併燃されているようです。
通常は、外から見て石炭が積まれているのは見えませんが、電化工業のホキ10000では炭質の比重の違いでしょうか? 絵のように石炭 山盛りになった写真が残されています。
また、太平洋セメントのホキ10000は、平成12年(2000年)に97両が中部国際空港の建設用骨材輸送用として 専用種別を石灰石に改め、三岐鉄道方面で活躍しました。

電化工業向けの輸送は平成8年(1996年)に終了。 秩父セメント 改め 秩父小野田セメント 改め 太平洋セメント向けは老骨に鞭打って ボロボロになりながらも令和2年(2020年)まで活躍しました。


貨車の絵 その1は こちら  貨車の絵 その2は こちら  貨車の絵 その3は こちら  貨車の絵 その4は こちら  貨車の絵 その5は こちら  貨車の絵 その6は こちら  貨車の絵 その7は こちら  貨車の絵 その8は こちら  貨車の絵 その9は こちら  貨車の絵 その10は こちら  貨車の絵 その11は こちら  貨車の絵 その12は こちら  貨車の絵 その14は こちら  貨車の絵 その15は こちら  貨車の絵 その16は こちら  積荷の絵その1は こちら  積荷の絵その2は こちら  蒸気機関車の絵は こちら  ディーゼル機関車の絵は こちら  電気機関車の絵は こちら  小形鉄道車両の絵 その1は こちら  小形鉄道車両の絵 その2は こちら

表紙へ