貨車の絵 その9



これらの絵は 素材として使う事も考慮して描いているため、使用色数が少なく軽いのが特徴です。トロッコ等は小形鉄道車両のコーナーへ。
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ご使用の際は、知らせて頂けるとうれしいです。
なお、絵や解説文の根拠たる参考文献等は ここに記載しきれないので、直接私にメールか掲示板で問い合わせて頂ければ幸いです。また、基本的に解説文は作画当時に書いたものなので、情報が古い場合があります。

このページの絵は特記以外1ドット50mmで描いています。


貨車の絵 その1は こちら  貨車の絵 その2は こちら  貨車の絵 その3は こちら  貨車の絵 その4は こちら  貨車の絵 その5は こちら  貨車の絵 その6は こちら  貨車の絵 その7は こちら  貨車の絵 その8は こちら  貨車の絵 その10は こちら  貨車の絵 その11は こちら  貨車の絵 その12は こちら  貨車の絵 その13は こちら  貨車の絵 その14は こちら  貨車の絵 その15は こちら  貨車の絵 その16は こちら  積荷の絵その1は こちら  積荷の絵その2は こちら  蒸気機関車の絵は こちら  ディーゼル機関車の絵は こちら  電気機関車の絵は こちら  小形鉄道車両の絵 その1は こちら  小形鉄道車両の絵 その2は こちら

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古典油槽車たち

このページ最初に並ぶのは、主に明治期に製作された石油系古典タンク車です。
荷重5〜10tの油槽車と呼ぶにふさわしいこれらは、輸入灯油、国内油田の原油やその製品、あるいは蒸気機関車燃料の重油輸送用に誕生しました。
それまで鉄道での石油類輸送はドラム缶等が主流でしたが、明治中期以降徐々にタンク車も活躍するようになりました。
写真に残されている何種類かを見繕って、撮影年代毎に並べてみませう。

サミュエル商会 10噸積 油槽車 公式側甲武鉄道 ぬ形1〜9号 5噸積 燃料運搬車 非公式側小倉常吉 い形30〜34号 6噸積 油槽車 非公式側浅野石油 ア形20〜29号 6噸積 油槽車 公式側日本石油 甲形1〜10号 10噸積 油槽車 公式側

まずは明治期。螺旋・連環連結器&バッファー時代。いずれの絵も登場当時の姿です。
列左から、明治26年(1893年)にサミュエル商会が輸入灯油輸送用に導入した10噸油槽車。
山陽鉄道で私有貨車として運用されていたようで、英国ハーストネルソン及びそのノックダウン生産で1〜57号まで57両がいたもよう
鉄道国有化で明治44年(1911年)にライジングサン石油 ア1900形となりました。

その隣は、明治32年(1899年)製の甲武鉄道 ぬ形1〜9号、5噸積。すぐに小倉石油所有となり、改番でア1560形になりました。

“へ”と“久”を組み合わせた いかにも日本的な屋号が目立つのは、同じく明治32年(1899年)製の小倉石油(小倉常吉)の い形30〜34号(6噸積)
新潟から東京に灯油を運んだそう。改番でア1730形に。

その隣は、浅野石油のア形20〜29号、明治33年(1900年)製の6噸車。写真では立派に感じるのですが、絵に描くと小さいですね。
官設鉄道時代は、所有者毎に形式が割り振られていて、浅野は「ア」、小倉は「い」ってな感じです。頻繁に所有者も変わるので、全容把握は難しいです。
ア形20〜29号は明治44年(1911年)の改番でア2107形になりましたが、こっちの記号の「ア」は油槽車を表して、あぶらのアの意味です。
明治の大改番で形式分類が楽になったかというと逆で、この改番では同じ仕様の車両にもかかわらず、所有者や製作会社で細かく形式分けしてしまったため、さらに混沌としています。

以上のような明治30年代頃のタンク車は、タンクの固定もワイヤーや木材を駆使したり、そもそも下廻り自体が鋼木合造だったり、小さすぎたりで、大正14年(1925年)の自動連結器化を乗り越えられなかったものも多いです。

絵右端の少し立派なのは、明治42年(1909年)製の日本石油 甲形1〜10号10噸車
さすがに明治40年代製ともなると近代的な外観となり、最初から安全弁が付属して保安度も向上しています。
明治の改番でア1833形1833〜1842号車となり、昭和の改番でタ600形627〜636号車になりました。

ライジングサン石油 ア1981形 10噸積 油槽車 大正14年〜昭和3年(1925〜1928年) 非公式側

は、ライジングサン石油のア1981形10噸車。明治38年(1905年)オランダのファーブル社及びそのノックダウン生産で元ライジングサン石油58〜82号です。
昭和3年(1928年)の改番でタ600形694〜717号車になったので、絵は大正14年(1925年)の自動連結器化後から数年間の過渡期の姿です。

タ1形(元ア1738形)7t積 石油類タンク車 公式側 戦時中 石油共販

はタ1形(元ア1738形)で、タ66〜99号車が該当。元は日本石油所有で、乙形6〜45号車。明治33年(1900年)製造の7t車。明治末期の改番でア1738〜1777号車です。
絵は戦時下の石油共販所有の姿です。
石油共販とは国策の石油販売統制の会社で、国内各メーカーの販売部門が集合して昭和14年(1939年)に設立したものです。昭和18年(1943年)に石油配給統制に改組。
なお、ライジングサン石油とスタンダード石油は敵産管理法で国に接収されました。
また、国内および占領地の油田開発は、昭和16年(1941年)に半官半民の帝国石油に統合。石油精製は中小企業を大手8社にまとめました。
よって、戦時中はタンク車の所有者も集約が進みました。

タ600形(元ア1900形)10t積 石油類タンク車 公式側 戦後 シェルタ1形(元ア2144形)7t積 石油類タンク車 公式側 戦後 日石輸送タ600形(元ア2266形)10t積 石油類タンク車 公式側 戦後 日石輸送タ600形(元ア1981形2036号車以降)10t積 石油類タンク車 公式側 戦後 シェルタ600形(元ア1843形)9t積 揮発油タンク車 公式側 戦後 日石

明治時代の石油系古典タンク車ですが、昭和3年(1928年)の改番では6〜8t積のタ1形と9〜10t積のタ600形にまとめられました。
最後に並べたのは戦後も活躍した古強者たちです。

絵右端のタ600形655〜671号車は一番上に登場したア1900形の末期の姿。
安全弁は備わったものの 相変わらずタンクに昇るハシゴがありませんが、ワイヤーを掴んで昇り降りしたのでしょう。これが昭和30年(1955年)まで活躍したのですから 長持ちです。

その隣はタ1形157〜162号車で、明治33年(1900年)製の元ア2144形2144〜2149号車。ア1738形とほぼ同じ設計の7t車です。

真ん中は明治40年(1907年)製の南北石油 油1〜100号車の大所帯。明治の改番でア2266形2266〜2365号車となり、さらにタ600形739〜799号車となったものです。10t車。

右から2番目は明治41年(1908年)製のア1981形2036〜2055号車で、のちのタ600形718〜732号車。同じ新潟鉄工所製の甲形に似たデザインです。

右端は明治44年(1911年)製タ600形637〜646号車。先に説明した日本石油 甲形の増備車で、明治の改番で続番のア1843形1843〜1852号車だったもので、ほとんど同一設計です。

共立商事 据置タンク

タサ1形 20t積 石油類タンク車

フア27000形 20t積 石油類タンク車(手用制動機付) 公式側 日石フア27200形 20t積 石油類タンク車(手用制動機付) 非公式側 国鉄 ア27000形 20t積 石油類タンク車 公式側 日石 タサ1形(元ア27000形) 20t積 石油類タンク車 公式側 日石タサ1形(元ア27200形) 20t積 石油類タンク車 公式側 国鉄

大正時代に入ると、石油類の需要も増えて、タンク車も大形化していきました。
と言っても、せいぜい20t積なので、当時はまだ特殊用途向けであったボギー車でなく、3軸車が流行りました。
絵に描いたのは大正3年(1914年)生まれのフア27000形(100両)と大正4年(1915年)生まれの国鉄車 フア27200形(45両)の系列で、両者ほぼ同じ設計で 見てのように当初は制動手室が付いていました。
ただ、この制動手室はうまくゆかず、大正9年(1920年)に撤去されて、それぞれア27000形とア27200形に形式変更されました。
この制動手室については貨車の絵 その1のフワ30000形の解説を参考にして下さい。

タンク車の設計としては、タンクが太くなったので重心を下げるためにタンクを台枠に沈めているのが特徴です。
大正14年(1925年)の自動連結器化の際は自動連結器の緩衝器を収めるために台枠を延長したり、タンク下部を削ったりして対処しました。

昭和3年(1928年)の大改番では20t積3軸石油系タンク車はタサ1形(208両)にまとめられ、元ア27000形はタサ1〜100号車に、元ア27200形はタサ101〜145号車となりました。
タサ1形の多くは構造上 空気ブレーキは装備されず、それでも昭和40年(1965年)まで活躍したようです。
絵は左からフア27000形、フア27200形、ア27000形、タサ1形(元ア27000形)戦後、タサ1形(元ア27200形)戦後。

タサ500形/タサ600形 20t積 石油類タンク車/タラ1形 19t積 揮発油タンク車

タサ500形 20t積 重油タンク車 539〜543号車 公式側 戦前 三菱タラ1形 19t積 揮発油タンク車 31〜41号車 公式側 戦前 日石タラ1形 19t積 揮発油タンク車 42〜46号車 公式側 戦前 中野興業 タラ1形 19t積 揮発油タンク車 42〜46号車 非公式側 戦後 出光タサ600形 20t積 石油類タンク車 653〜662号車 公式側 日石 タラ1形 19t積 揮発油タンク車 3〜12号車 公式側 晩年 出光

タサ1形の増備車は、さしたる理由もなく なんとなくタサ500形やタサ600形を名乗りました。
また、同一サイズのタンクに揮発油を積んだものは、比重の関係で荷重が減って19t積となったので タラ級となり、タラ1形やタラ100形を名乗りました。
3軸タンク車の製作が流行っていた時期はちょうど昭和3年(1928年)の大改番の近辺ですので、形式を付けるルールが固まっていなかったのでしょう。

これら昭和初期のタンク車は、確かに大正期のタンク車よりは進歩しましたが、構造について まだまだ試行錯誤されている時期で、同一形式でも製作ロットで形が全然違ったりします。
左端は昭和4年(1929年)製のタサ500形539〜543号車。長くてスマートなやつ。

その他の絵は昭和5、6年(1930、1931年)製のタラ1形19t積 揮発油タンク車の仲間です。当時は航空機や自動車用にガソリンの需要が増してきていました。
ただ、危険なガソリンをタンク車で輸送する技術は、これまた試行錯誤されていて、断熱用の保温キセでタンクを包んだり、ドームを大形化して気化したガスのスペースを確保するなどしました。
このうち保温キセについては あまり意味が無く、戦後に一皮剥けて ずんぐりした滑らかなシルエットから一転、リベットのタンク体が剥き出しになりました。
タラ1形のうち一部は、積荷を石油に変更して20t積のタサ600形となりました。

これら3軸タンク車はボギー車に比べて走行性能も劣り、老朽化もあってヨンサントウ前後までの活躍でした。

タサ700形 20t積 ガソリンタンク車

タサ700形 20t積 ガソリンタンク車 日石 戦前 公式側タサ700形 20t積 ガソリンタンク車 海軍 公式側 タサ700形 20t積 ガソリンタンク車 日石 戦後の姿 公式側タサ700形 20t積 ガソリンタンク車 日石 戦後の姿 公式側

タサ700形は、大正14年(1925年)〜昭和22年(1947年)に製作された 20t積 揮発油タンク車です。ここら辺からタンク車も走行性能の良いボギー車となります。
揮発油(ガソリン)用と言っても 増備中には石油類(重油)用のものが紛れており、どうも戦前の石油系タンク車の形式の付け方は いいかげんです。
タサ700形は181両が製作され、初期車はリベット組タンクであるなど 製造ロットによるバリエーションも多いですが、昭和10年代になると 近代的外観の標準車が沢山作られて 主流派となりました。
絵ではうまく表現できてませんが、タサ700形は手押し入換の時に重たいので、台枠に肩当ての板が溶接されたものが多いです。

絵は標準タイプの姿で、左から日石(戦前)、海軍、日石(戦後)2例です。
海軍所有の貨車と言えば錨のマークが特徴でしたが、昭和17年(1942年)以降は表記が簡略化されて、荷重表記の右隣に所有者略号(洋数字2文字+カタカナ数文字)、自重標記の右隣に常備駅名が小さく書かれるだけの絵のような感じになりました。

タサ700形は、昭和40年代中頃まで活躍しました。

タサ700形 20t積 ガソリンタンク車 連合軍専用車(米タン)

昭和20年(1945年)に大東亜戦争が終結すると、日本に米軍を主力とする連合軍が進駐しました(進駐軍)。
連合軍の名の下に 米軍は膨大な数の自動車を持ち込み、またすぐに始まった冷戦によって 日本は重要な補給基地ともなったため艦船や航空機の増派も行われ、石油輸送の需要が一気に増大しました。
もともと日本にはそれほどタンク車が無い地勢で、さらに戦争で多数が破壊されていましたが、残ったタンク車は殆んどが米国陸軍輸送隊に接収されました。いわゆる米タンの始まりです。
中でも20t積と大形で旧軍が多数所有していたタサ700形は、その米タンの主力となりました。

旧軍所有の貨車は大蔵省の管轄となり、国鉄車と共に米国陸軍輸送隊に召し上げられ、ケバケバしい車体標記が施されました。
この車体表記は昭和22年(1947年)に制定されたものですが、同年中に2回の改定、翌年にさらに改定、その後も何度も改定されています。
要は、日本語表記を米軍に分かりやすい表記に変えたりした結果です。

タサ700形 20t積 ガソリンタンク車 連合軍専用車(昭和23〜26年(1948〜1951年)) 公式側

上絵は昭和23〜26年(1948〜1951年)の仕様の一例です。
左端から、従来通りの荷重・実容積・自重標記、配属局名標記。右に移って常備駅名の英文表記(下に漢字で常備駅名)。ハシゴ左は上から赤文字で「火気厳禁」と※印、日本語の貨車記号番号の抹消、漢字で積載貨物専用表記、油種別名。
ハシゴ右は上に赤文字英語で可燃物だよ標記、下に英語で連合軍。その右は上から油種色別マーク、油種略号、英語で積載貨物専用種別、なんかの管理番号、積載容量ガロンとバレルの2段書き。隅っこに国鉄の貨車形式。台枠に貨車記号番号。
ってな具合です。
一応標記位置や文字の寸法も決められていたのですが、実車は結構いい加減です。

油種色別の丸表示は、白色W=60オクタンガソリン、赤色R=80オクタンガソリン、緑色G=100オクタンガソリン、燈色O=120オクタンガソリン、褐色B=重油、黄色Y=?で、昭和26年(1951年)の改正で、緑色=航空機用燃料、赤色=自動車用燃料、褐色=ディーゼル燃料、燈色=ジェット燃料となりました。

タサ700形 20t積 ガソリンタンク車 連合軍専用車(昭和29〜43年(1954〜1968年)) 公式側

昭和29年(1954年)の改正では、専用種別の表示にバーコードを使用する事となりました。
550mm角の白地の中央横に黒帯を入れて油種の略号を記入し、バーコードは黄色帯で1本は航空ガソリンAVGAS、2本は自動車ガソリンMOGAS、3本はジェット燃料JETFUEL、4本はディーゼル燃料DIESEL、5本は海軍特殊燃料油NSFO(艦船用重油)です。
その後 昭和43年(1968年)の改正で、前年に新宿駅で起きたタキ3000形米タンの脱線炎上事故でのイメージダウンやテロ防止の観点から英語表記は消されて、バーコードだけのシンプルな姿となりました。
ちなみに、平成の米タンで表示されるようになったJP-4とかJP-8はジェット燃料の種類で、JP-8がJP-4の代替、JP-5は艦載機用です。

タキ100形 30t積 石油類タンク車 1次車/タキ1形 28t積 揮発油タンク車/タキ500形 28t積 石油類タンク車

タキ100形 30t積 石油類タンク車 1次車 戦 シェル タキ1形 28t積 揮発油タンク車 ライジングサン タキ500形 30t積 揮発油タンク車 戦後 シェル

タキ100形は昭和4年(1929年)から製作された30t積 石油類タンク車です。
当時、大形タンク車といえば荷重20tのタサ形式でしたが、大口需要が増えたためタキ形式の登場となりました。
しかし、まだ大形ボギータンク車の設計は確立していなく、特にタンクを大形化する事による重心の上昇に注意が払われ、タキ100形1次車5両は 弓形中梁構造台枠に一部カマボコ断面の異形胴タンクを落とし込むという複雑な設計をして誕生しています。
ドームが片寄っているのはブレーキ機器と吐出口を干渉させないためと、タンク体の板取りの都合です。

タキ100形の1次車3両と3次車4両は、戦前にタサ1900形24t積 揮発油タンク車に形式変更しています。荷重が減ったのは積荷の比重のせいです。
基本的に近代の揮発油(ガソリン)タンク車は 危険性の高い積荷に対し 安全弁を2個装備して保安度を高めているのですが、タサ1900形はそんな改造しないで 石油類タンク車の構造のまま揮発油タンク車として活躍しました。

また、タキ100形1次車と同じ下廻りに めいっぱい大形のタンクを積んだのが中絵の タキ1形 28t積 揮発油タンク車で、同じく昭和4年(1929年)に5両作られています。
荷重が中途半端なのは、比重の軽いガソリンに対して タンクの大形化に限度があったためと思われます。

タキ1形は戦時中の昭和17年(1942年)に、全車がアルコール輸送用の28t積 タキ500形式に形式変更されました。
当時、ガソリンは軍用機に最優先で割り当てられたため、ガソリン+アルコールの自動車用代用燃料を作るため、アルコール製造工場から代用燃料製造工場に大量輸送する需要が生じたのでしょう。
戦後、タキ500形は形式そののままに揮発油タンク車に復帰し、昭和40年代初めまで活躍しました。

絵は左からタキ100形1次車戦後、タキ1形、タキ500形戦後。

タキ100形 30t積 石油類タンク車 2次車/タキ50形 30t積 揮発油タンク車 1次車

タキ100形 30t積 石油類タンク車 2次車 戦後 シェル タキ50形 30t積 揮発油タンク車 一次車 戦前 ライジングサン タキ50形 30t積 揮発油タンク車 一次車 戦後 シェル

タキ100形2次車は1次車の複雑な構造をやめて、普通の平台枠に直円筒タンクの組み合わせとなりました。
でも、まだ けったいな格好していますね。
ドームが小判形に大形化していますが、2つのドームを一体化したもののようで、なんでこうなったのかは よく分かりません。
また、初期の大形タンク車は、全周に手スリと歩み板を装備しているのが特徴です。

タキ100形の相棒の揮発油タンク車は、タキ1形式から2t増の30t積 タキ50形式となりました。
複雑な構造の呪縛が取れて、大形化が可能となったのでしょう。
といっても、タキ100形2次車もタキ50形1次車も、登場年はタキ100形1次車と同じ昭和4年(1929年)。
わずか半年程でタキ100形1次車の特殊構造は 無意味となってしまったのでした。
タキ100形 2次車は9両、タキ50形 1次車は3両製作。

絵は左からタキ100形2次車 戦後の姿、タキ50形1次車 戦前の姿、タキ50形1次車 戦後の姿。この辺のタンク車は 資料が少ないので一部推測なのは ご容赦を。
なお、タキ50形もタキ1形と同じように戦時中に1〜4次車の20両が タキ600形 30t積 アルコールタンク車に形式変更しており、戦後は形式を戻される事なくガソリン輸送用として活躍しました。

タキ100形 30t積 石油類タンク車 3〜5次車/タサ1900形 24t積 ガソリンタンク車 2次車

タサ1900形 24t積 ガソリンタンク車 2次車 戦後の姿 シェルタキ100形 30t積 石油類タンク車 4次車 戦後の姿 昭石タキ100形 30t積 石油類タンク車 5次車 戦後の姿 昭石

タキ50形 30t積 揮発油タンク車 2〜7次車

タキ50形 30t積 揮発油タンク車 3次車 戦前の姿 ライジングサン タキ50形 30t積 ガソリンタンク車 5次車 戦後の姿 昭石タキ50形 30t積 ガソリンタンク車 7次車 戦後の姿 日石

昭和6年(1931年)製のタキ100形3次車・タキ50形2次車辺りから 大形タンク車も ようやく まともな姿となりました。
タキ100形 3〜5次車は15両、タキ50形 2〜7次車は34両製作。

それにしても、こんなに姿かたちが変わっても同じ形式なのは 理由があります。
私有貨車・私有コンテナは、汎用を前提とする国鉄所有の貨車・コンテナに比べ、特定の積荷によりタンク・箱の構造が多岐にわたります(特に 戦後は重化学工業の発展と共に化成品の品目が増えました。)。
また、荷役装置等ユーザーの都合や好みでも構造が変わり、そのつど新形式を起こしていては、管理上好ましくありません。
そこで私有貨車・コンテナは大まかな構造が似ていたら なるべく同一形式に収める方策がとられているため、こんなに形が違っても同じ形式なのです。

タキ100形もタキ50形も、戦後はタキ2100形・タキ3000形に それぞれ形式変更されて製作(何両かはダブって戦後製もあります。)されましたが、この形式変更は将来の石油系タンク車の増備を考慮してのもののようです。

絵は上段左から タキ100形を形式変更したタサ1900形 24t積 ガソリンタンク車 2次車 戦後、タキ100形 4次車 晩年、タキ100形 5次車 晩年。
下段左から タキ50形 3次車 戦前、タキ50形 5次車 晩年、タキ50形 7次車 晩年。

タム500形 15t積 ガソリンタンク車

タム500形 15t積 ガソリンタンク車 戦前製 戦後の姿 日石タム500形 15t積 ガソリンタンク車 戦前製 戦後の姿 共同タム500形 15t積 ガソリンタンク車 戦後製 日石輸送タム500形 15t積 ガソリンタンク車 戦後製 丸善

タム500形は、昭和6年(1931年)から昭和36年(1961年)の長きに渡り製作された 15t積 ガソリンタンク車です。
といっても、ほとんどが戦後製で、戦前製91両に対し戦後製は530両となっています。
戦前製のものは ドームハッチの固定方法が蒸気機関車の煙室扉方式なのがポイントです。

今ではタンクローリーが担うところの小単位輸送ですが、かつては鉄道輸送でそれが活発に行われていました。
―――昔は石油精製販売会社も沢山あり、内陸の大規模一時貯蔵石油基地も無く、道路網も貧弱なので消費する工場側にも専用線が引き込まれ・・・というより工場の立地条件の一つは「駅のそば」であり、また、中小各駅には小売の販売店の小っさな石油基地がどこにでも見られて、引き込み線の辺りは子供の遊び場になっている。―――
という光景は当たり前の事なのでした。

タム500形は、その小単位輸送の主力として量産され、平成の初めまで活躍しました。

タキ1500形 35t積 石油類タンク車

タキ1500形 35t積 石油類タンク車 日石輸送タキ1500形 35t積 石油類タンク車 丸善タキ1500形 35t積 石油類タンク車 ゼネラル

タキ1500形式は、タキ100形の拡大版の35t積石油類タンク車です。
設計的にはタキ50形後期車・タキ3000形の姉妹車と言え、それらより荷重は5t多いいものの 積荷の比重が高いため全長は少し短くなっています。
製作期間は長期に渡っていますが、昭和22年(1947年)製は戦時に計画されて戦後に完成した異端車(10両)。昭和46、47年(1971、1972年)製はホキ6500形、タキ3500形からの改造車(5両)で、標準車は昭和27年(1952年)〜昭和42年(1967年)に製作された887両です。
同時期には 同じ積荷で荷重が5t差の 30t積のタキ2100形も存在しましたが、タキ1500形を選ぶかタキ2100形を選ぶかは 所有者の好み(使用傾向)によって 明確に分かれていたそうです。

積荷の石油類は、正式には「石油類(除く揮発油)」もしくは「石油類(除くガソリン)」で、灯油・軽油は基本的にガソリンタンク車に積むため、簡単に言えば重油用タンク車です。
重油の中でも粘度の高いC重油は 冬季にはさらに流動性が悪くなるため、荷役に時間がかかります。
そこで、この頃からの重油用タンク車には タンク内に蒸気過熱管を装備し、地上設備から蒸気の供給を受けて 積荷の重油を加温しながら荷降ろしする方式が定着しました。
タンク端部に見える配管が蒸気過熱管の外部接続部です。

タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 初期形

タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 初期形 国鉄

タキ3000形は、戦前のタキ50形の名前を変えて 戦後増備したものです。
スペックは同じで30t積のガソリンタンク車で、昭和22〜39年(1964〜1947年)に1609両製作されました。同形の輸出車も存在しました。

この絵はタキ3000形の一次車50両で、私有貨車ではなく国鉄所有で誕生しました。
というのも、戦後占領下で民間のものも含め主要なタンク車はことごとく米軍が奪ってしまって、それでもなお 進駐軍向け燃料の輸送にタンク車が足りなくて作ったようです。

このタキ3000形 極初期車の特徴は きゃしゃな台枠が特徴です。
米タンの任を解かれたあとは 機関区の燃料輸送に使われたものもあるようですが、私有のタキ3000形より早く廃車になっています。

タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 米タン

タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 ドラム缶形ドーム 米タン 初期 タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 ドラム缶形ドーム 米タン 晩年

米タンとはタサ700形のところで解説しましたが、米軍用燃料輸送用タンク車の総称です。
その当初の主力は大蔵省所有の旧軍所有車と、国鉄所有車ですが、戦災を生き残った石油会社虎の子のタンク車も当然のように強制的に徴収されました。
占領下の日本は共産圏に対峙するのに ちょうどいい補給基地だったので、無理もありません。
ただ、昭和27年(1952年)にサンフランシスコ講和条約が発効したことにより、民間車はようやく元の所有者に返還され、米軍は自前で大形タンク車を用意しました。

この米タン タキ3000形(154両)も タキ3000形初期車の範疇で、ドラム缶形ドームが特徴です。
その他は以降の標準車と同じで、台車が構造簡単なTR41台車になりました。
この台車の形態は戦前にアメリカで開発されたもので、日本でも戦時形蒸気機関車の炭水台車に採用されましたが、軸箱まで一体鋳造で量産性が高く、3ピーストラックの名で呼ばれています。
TR41台車は以後、貨車用標準台車として広く普及しました。

タキ3000形の米タンも当初、米国流儀のケバケバしい連合軍専用貨車特殊標記が施されていて、この車両は借り物ではなく正式に米軍の私有貨車なので米軍の管理番号が大きく書かれていました。
従来の米タンは赤文字で危険物の注意喚起をしていましたが、タキ3000形米タンの場合は白文字で統一されていたようです。
昭和43年(1968年)以降はバーコードと米軍管理番号のみとなり、平成の時代まで活躍しました。

米軍用燃料輸送は 次第にトラック輸送に切り替えられていきましたが、現在でも、民間所有私有貨車を使って、浜安善〜拝島(横田基地)間の航空燃料輸送が行われております。

タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車

タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 日石タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 スタンダードヴァキュームタキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 日石輸送タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 出光タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 三菱タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 丸善タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 石油荷役タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 エッソタキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 日陸タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 昭石タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 共同タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 ゼネラル

大形車を狙ってくる米軍の徴集を恐れて なかなか進まなかった民間の大形タンク車増備ですが、米軍が昭和27年(1952年)に自前で米タンを用意したので、それ以降 各社は安心してタキ3000形の大量増備と相成りました。
この頃になると日本は急復興をとげ、大口の輸送需要も増えたのです。
これら民間所有のものがタキ3000形の標準車といえ、また、当時はタンク車と言えばタキ3000をイメージするほど、日本のタンク車の代表形式となりました。

タキ3000形の登場当時は、タンク上部踏板周囲の転落防止用手スリは普及していませんでしたが、後年多くに追設されています。
しかしこの工事は所有者対応なので、所有者によって装備時期に差があるようで、荷役作業者に対する思いやりの度合いが見えてきますね。
米軍所有のタキ3000は、最後まで転落防止用手摺を装備しませんでした・・・。

また、後期製作車も含めて新製時はデッキ手すりが簡単なポール状でしたが、こちらは下廻り、国鉄持ちの分なので昭和40年代には全車頑丈な物に換えられています。
手ブレーキの無い 前位デッキにもステップと手スリがありますが、これが無いと入換作業者や荷役作業者が反対側に渡るのに苦労するため、重要な装備です。

ところで、タキ3000の専用種別は「揮発油」で製作されましたが、増備途中の昭和39年からは「ガソリン」に呼び名が変わりました。
しかし徹底してなかったようで、昭和40年代末の写真でも揮発油の標記が見られますね。

タサ1700形 20t積 ガソリンタンク車

タサ1700形 20t積 ガソリンタンク車 日石輸送

タサ1700形は、戦前のタサ700形式の戦後増備として昭和24〜37年(1949〜1962年)に485両が製作されました。
絵に描いた標準タイプが多数作られ 地味な存在でしたが、諸事情で変形車も色々ありました。
のちに20t積ガソリンタンク車の需要が減ると、60両がタキ1000形(初代)25t積 石油類タンク車に改造されました。

タキ2100形 30t積 石油類タンク車

石油系タンク車は 石油類タンク車と ガソリン(揮発油)タンク車に分けられますが、石油類タンク車は比重の高い重油用に設計されており、ガソリンタンク車は危険性の高いガソリン用に設計されています。
戦前は、その設計は比重の違いのみでしたが、戦後のものから構造にも違いがでてきました。
まず、石油類タンク車は粘度の高いC重油の冬季荷役用に蒸気過熱管を装備したりしています。安全弁は1個。
ガソリンタンク車は当初 揮発油タンク車と呼ばれていたように、揮発性の高い積荷=ガソリンを積むため安全弁を2個装備しています。
安全弁は積荷の発生ガスによりタンクが破裂をするのを防ぐのが役目であり、特に火災時にもガスを逃し続ける能力が求められます。

構造的には、車体表記の「石油類(除く揮発油)」「石油類(除くガソリン)」のものが、灯油、ジェット燃料、軽油、重油用。
車体表記が「揮発油」「ガソリン」のものが、ハイオクガソリン、レギュラーガソリン用の設計となっています。

ところで、灯油・軽油を輸送する場合は、ガソリンタンク車ほど重装備でなくとも運べるのですが、重油よりも比重が軽いので重油用タンク車で運ぶのは荷重の点から非効率です。
なので灯油・軽油は ガソリンタンク車で運ぶのが基本です。
また、重油をガソリンタンク車で運ぶ事も行われていますが、これも荷重の点から満タンにできません。
逆に、ガソリンを石油類タンク車で運ぶ事は 危険なのでできません。

まとめると、車体表記とは異なり、ガソリンタンク車にはガソリンの他に、灯油、ジェット燃料、軽油の いわゆる白油(ハクユ)を積むのが標準です。
石油類タンク車には重油 いわゆる黒油(コクユ)を積むのが標準で、潤滑油も石油類タンク車で運びます。
なお、一見重油のような見た目の原油は、アスファルトから揮発成分までごちゃまぜなため、ガソリンタンク車で運びます。

タキ2100形 30t積 石油類タンク車 標準 日石 タキ2100形 30t積 石油類タンク車 灯油・軽油用 日石タキ2100形 30t積 石油類タンク車 重油用 出光

タキ2100形 30t積 石油類タンク車 カマボコ形保温キセ付き 日石タキ2100形 30t積 石油類タンク車 円筒形保温キセ付き 昭石タキ2100形 30t積 石油類タンク車 タキ3000改造 保温キセ付き 日石輸送

と、ながながと積荷の話をしてきましたが、上記の説明のハザマに存在するのが タキ2100形です。
タキ2100形は 30t積 石油類タンク車として、昭和26年(1951年)〜昭和43年(1968年)、昭和46年(1971年)に682両が製作されました。タキ100形の戦後形式にあたります。

まず、絵を見ての通り 長さがバラバラです。
これは、同時期のタキ1500形が明確に重油用なのに対して、タキ2100形は灯油・軽油用やC重油用に設計されたものが存在するためです。
おなじ30t積ながらも、タンク長の違いが、設計時に想定した積荷の比重にそのまま表れ、短いのが重たい重油用、長いのが軽い軽油用です。
・・・と、簡単には まとまらず、過熱用蒸気管を装備すればその分容積が減るため、これもタンクを長くする必要があります。

極めつけは保温キセを装備した車両も混在する事で、これを装備したものはタキ3000形式並みの大形車となりました。
保温キセは保温ジャケットとも言いますが、ようするにタンクの周りを厚さ100mmほどの断熱材で包んだもので、実際のタンクよりも大きく見えます。
これは、北海道等の寒冷地ではC重油の荷役が蒸気過熱管装備でも厄介で、積み込む時に予め温めておいた重油を荷役して、輸送中に冷めないように断熱材で保温するためのものです。
北海道では暖房ボイラー用に、重油の消費が多いのです。

絵は上段左から、標準車、灯油・軽油用、重油用。 重油用でも蒸気過熱管は必須ではありません。
下段が 保温キセ付き重油用で、左のがカマボコ形(正確にはマッシュルーム形?)遮熱板装備のやつ、真ん中が円筒形遮熱板装備のもので、この差は製作メーカーの設計の違いによります。
下段右端は、余剰のタキ3000形式からの改造車で、昭和46年(1971年)に33両改造。上廻りを新製していますが、タキ35000形のようなドームレスタンク体が特徴です。

タキ50000形 50t積 ガソリンタンク車

タキ50000形 30t積 ガソリンタンク車 初期車 シェルタキ50000形 30t積 ガソリンタンク車 初期車 日石タキ50000形 30t積 ガソリンタンク車 標準車 モービルタキ50000形 30t積 ガソリンタンク車 標準車 丸善

タキ50000形は昭和35年(1960年)に日本車両が開発した揮発油50t積大形タンカーで、昭和40年(1965年)までに90両が製作されました。
3軸ボギー台車や、積車・空車切替式のブレーキ機構等の新装備をふんだんに使い、車長を押さえるためタキ100形1次車以来の異形胴タンクを採用しました。
ただ、独走的過ぎたため途中で国鉄が標準化設計を施し、大きく初期車と標準車に分けられます。初期車はブレーキ装置やタンク受台が標準車の倍ありますので、見分けるのは簡単です。

このように突如として登場した感のあるタキ50000ですが、製作両数がそんなに多くないにもかかわらず 色んな所有者が導入しました。
大形タンク車と言えば のちに登場する64t積のタキ64000形が 積込口が2つあるため 積み込みに手間を要して敬遠されたのに対して、タキ50000形・タキ55000形の方は 各社とも最後までそれなりに使用したようです。
車体が長いと 既存の荷役施設とうまく適合しない気もしますが、それが問題視されるようになったのは ごくごく最近の事で、当時はそれこそ大小様々なタンク車が混在しており、油槽所も現代のように大規模なものに集約されておりませんでしたので、所有者毎に、自社の油槽所向けに 需要に合わせて大小各形式を用意して使っていたのでしょう。
タキ50000形式は、JR化後も数年働きました。


ところで、タキ50000形は車番も一挙に5桁台となったのですが、ここで貨車の形式について少々。

国鉄時代の貨車の形式は、旧形国電や大正以前の機関車と同じ考え方で付けられており、形式と製造番号が混ざって標記されているので、車号を見ただけでは形式を想像するのが困難です。
基本的には若い番号から付けていくのですが、増備の途中で次の形式にぶつかってしまった時は1桁追加したりして、形式の多いタキなどは特に訳が分からない事になっています。

もっとも、貨車の場合は構造用途記号(ワとかト)が充実しており、荷重記号(ムラサキ)と合わせ、たとえば、15t積有蓋車が欲しい場合にワム50000形が配車されようが、ワム21000形が来ようが荷主としては困らないのです。
私有貨車の場合は、それこそ所有者が1両毎に管理しているため、まったく問題ありません。
列車を組成する時も換算を用い、特殊標記符号(コ=短い、オ=長い・・・タキ50000形はオタキ。)もあり、形式も車体に別記されているので 車号から形式を類推する必要もありません。
検修場面で ちょっと困りそうですが、例えば特殊な台車を履いているとしても、消耗品・交換部品は だいたい汎用品なので問題無いのです。
そんな感じで、機関車や電車が新しい命名基準(形式と製造番号を分離)になってもなお、貨車の形式称号改正は置き去りにされ、改善はJR化まで待たなければなりませんでした。

タキ55000形 50t積 石油類タンク車

タキ55000形 50t積 石油類タンク車 日石輸送タキ55000形 50t積 石油類タンク車 日石

タキ55000形はタキ50000形の兄弟の石油類専用タンク車です。
荷重はタキ50000形と同じですが 比重の高い積荷のため全長は短いです。蒸気過熱管を装備。
昭和35年(1960年)から39両が製作されました。

台湾鉄路管理局 P50L100形 50t積 石油類タンク車

臺灣鐵路管理局 P50L100型 50t積 油罐車 中國石油

台湾鉄路管理局 P50L100形は、台灣機械製作の、一見して台湾版タキ55000形とも言える形式です。
ただ、タキ55000との共通点は台車やブレーキ装置くらいで、当然 要求仕様も工法も違うので、よく見ると別物。
特に 大物車みたいに頑丈そうなフレームや、丸いドーム形状、タンク付帯設備の違いに目が行きます。蒸気過熱管は無いようです。
自重は30tと、タキ55000形とほぼ同じ。
20世紀末まで活躍したようです。

タキ9900形 35t積 ガソリンタンク車

タキ9900形 35t積 ガソリンタンク車 シェル 公式側タキ9900形 35t積 ガソリンタンク車 共同 公式側タキ9900形 35t積 ガソリンタンク車 モービル 非公式側 タキ9900形 35t積 ガソリンタンク車 日石 公式側 タキ9900形 35t積 ガソリンタンク車 日石輸送 末期 公式側

タキ9900形は、昭和37年(1962年)から量産の 35t積 ガソリンタンク車です。
軸重を押さえつつ荷重を増やすため、日本車両が得意な異形胴タンクと 三菱重工が研究したフレームレス構造を組み合わせて自重を減らし、なおかつ タキ3000形(全長14300mm)よりも全長を短く(13320mm)する事に成功しました。
タキ9900形はタキ3000形の後継として、昭和41年(1966年)までに545両が製作されました。

タキ9800形 35t積 石油類タンク車

タキ9800形 35t積 石油類タンク車 大協 公式側タキ9800形 35t積 石油類タンク車 シェル 非公式側 タキ9800形 35t積 石油類タンク車 日石 公式側

タキ9800形は、タキ9900形の姉妹車として製作された 35t積 石油類タンク車です。
昭和37年(1962年)から昭和41年(1966年)までに496両が作られました。

構造が複雑になると当然、製作費に反映されるので、同じ35t積なら 安いタキ1500形の増備で良いような気もしますが、タキ9800形は車長が短くなり 以下のメリットがあります。
まず、私有貨車には自動車で言うところの車庫証明が必要で、所有者は未使用時を想定して所有する貨車を一度に全部留置できるだけの専用線(留置線)を自前で用意しなければなりません。
貨物の積み込み積降ろしも、小規模施設では荷役の終わった貨車を貨車移動機で順次押して作業するのですが、その引き上げ線の長さも考慮する必要があります。
車両は短いに越した事はありません。
また、国鉄としても 短い車の方が列車組成の際に いっぱい連結出来て好都合なので おススメします。

ただ、荷主(私有貨車所有者)にとっての一番の関心事は「運賃」で、運賃は単純に言うと重量と運転距離から求められるため、貨車の自重は 軽ければ軽いほど良いのです。
私有貨車の場合は空車返送運賃も発生するため、重要な問題です。

タキ9800形は車長が短くなったと同時に、自重軽減も実現しています。
具体的には、タキ1500形が自重17.9〜19.1t(標準車18.9t、空車換算2.0)なのに対し、タキ9800形が自重16.9〜19.0t(標準車17.5t、空車換算1.8)、ライバルのタキ10000形は自重17.2〜18.0t(空車換算1.8)、後継のタキ45000形は自重16.0t(空車換算1.6)となっています。
これを 返回送私有貨車の運賃計算トン数貨物手帳を参照。)で比べると、タキ1500形が4.57トン、タキ9800形が4.36トン、タキ10000形は4.42トンに決められています。
どれを選ぶかは ユーザーしだい。

※ 返回送私有貨車の運賃計算トン数・・・通常の運賃計算は荷重×輸送距離でいくら?だが、返回送貨車は空車なので甲種鉄道車両の一種とみなし、車両の自重や私有貨車制度上の割引等を考慮して決められたもの。これに運賃計算キロ程を掛けて空車返送運賃とする。ただし、返回送私有貨車は 制度上 運賃計算キロ程80キロメートル未満は無料。

タキ42750形 32t積 石油類タンク車

タキ42750形 32t積 石油類タンク車 日石輸送

1970年代のオイルショックは、私有貨車にも影響を及ぼしました。
それまで重油の大口需要先であるセメント工場等が、燃料を 安定供給が見込める輸入石炭に転換したのです。
石油類=C重油用タンク車が、たくさん余りました。

タキ42750形は、余剰となったタキ9800形の有効活用を図るべく、過熱蒸気管を撤去して荷重32tの灯油・軽油用タンク車としたもので、昭和56年(1981年)に145両が改造されました。
過熱管を撤去したのに荷重が減っているのは 積荷の比重が軽いためです。

タキ10000形 35t積 石油類タンク車

タキ10000形 35t積 石油類タンク車 昭石

タキ10000形は 日車+三菱のタキ9800形と同時期に 汽車会社が開発した35t積 石油類タンク車です。
当時の国鉄は、車両メーカー同士を競わせていたようで、メーカーも顧客獲得のため必死に技術開発をしていました。

設計は 限られた軸重の範囲内で35t積を実現するため 台枠に高張力鋼を採用して構造を簡素化、自重を軽減しています。
タンクは円筒形で、複雑な製作工程を必要としないので タキ9800形より価格は安かったと想像されますが、全長は若干長く、どっちの形式を導入するかは ユーザーの判断の分かれるところです。
参考に35t積 石油類タンク車の形式別の全長(連結面間)を比較してみると、タキ1500が13700mm、タキ10000が12800mm、タキ9800が12020mm、後継のタキ45000が11300mmです。
結果的にタキ10000形は 昭和38〜42年(1963〜1967年)に84両と タキ9800形の約6分の1の製作両数でした。

タンクローリー

石油タンクローリー(移動タンク貯蔵所)20キロリットル石油タンクローリー(移動タンク貯蔵所)陸上自衛隊 3 1/2t燃料タンク車 公式側

タンクローリーは色々なタイプがありますが、絵に描いたのは油槽所からガソリンスタンドや工場などに白油(ハクユ(ハイオクガソリン・レギュラーガソリン・軽油・灯油))や重油を運ぶ 石油タンクローリーです。

石油タンクローリーの特徴は、重心を低くするための楕円形タンク体で、タンク内部は積荷のチャプつき防止を兼ねて 何室かに仕切られています(タンク各室 容量4000リットル以下。)。
また、現在のものはタンク上部に横転時受身用の三角の出っ張りがあります(左絵の車は古いタイプなのでツノは付いてません。)。
これにより、多少無謀運転しても天地逆さまになったり、多量の引火性液体が流出する危険性が減ります。

タンクの中ほどにある横長の四角い箱は、送油ホース格納箱です。

タンク内部が部屋分けされている事により、ガソリンスタンドへの末端輸送では 需要に合わせて各部屋毎にハイオクガソリン・レギュラーガソリン・軽油・灯油を積みます。
灯軽油を運んだ後にガソリンを積むと残液で混油しそうですが、容量も少なく白油どうしなので 気にしないようです。
注意しなければならないのは、ガソリンを運んだ後に灯軽油を入れる場合で、気化したガソリンをタンクから吸い出す「ガスパージ」という作業をしてから積み込みます。
拠点間輸送用のタンクローリー等、会社によっては どの部屋に何を入れるか決めているようです。

むしろ、積み込む際、もしくはスタンドで下ろす際に混油する危険がありますが、ガソリンはオレンジ色、軽油は蛍光色か無色、灯油は無色または淡黄色に 製油所で色付けされているので、注意して入れます。
石油販売会社は配管等を色分けして油種を区別していますが、各社まちまちのようです。(※ セルフ給油ガソリンスタンドのノズルの色については、平成10年(1998年)の省令改正で全国統一されています。)
また、最近は混油防止装置(比重を監視して弁を閉鎖する装置=ハイテク)を装備したタンクローリーも活躍してます。

なお、平成6年(1994年)の規制緩和で従来の20000リットルから、最大30000リットルまで運べるようになりました。
30000リットルというと 白油4種類の中で いちばん重い軽油が比重0.86位ですから、軽油単品満タンで26t積みを想定しているのでしょう。
一応、鉄道貨車で言うところの“タキ”に含まれるサイズですが、この規制緩和のせいで鉄道輸送から道路輸送への転換が激しくなっています。

タキ11000形 35t積 石油類タンク車

タキ11000形 35t積 石油類タンク車 中期形 日石 公式側 タキ11000形 35t積 石油類タンク車 中期形 日石 晩年 非公式側

タキ11000形 35t積 石油類タンク車 後期形 日石輸送 末期 公式側 タキ11000形 35t積 石油類タンク車 後期形 シェル 非公式側

タキ11000形は昭和39年〜43年(1964年〜1968年)に133両が製作された C重油輸送用の35t積 石油類タンク車です。
設計はタキ50000形やタキ9900形の流れを引き継ぎ、日車及び三菱で製作されました。
35t積で なおかつ 蒸気過熱管の能力を高め、保温キセも取り付けたため、軽量化のためにタンク体に高張力鋼を使用しています。また、外見ではドームが片寄った配置になっています。
絵は上段が中期形、下段が後期形で、後期形は設計の一部にタキ35000形のコンセプトを取り入れたそうです。

タキ35000形 35t積 ガソリンタンク車

タキ35000形 35t積 ガソリンタンク車 初期形 ゼネラル 公式側 タキ35000形 35t積 ガソリンタンク車 初期形 内外 公式側タキ35000形 35t積 ガソリンタンク車 初期形 三菱 非公式側

タキ35000形 35t積 ガソリンタンク車 シェル 公式側タキ35000形 35t積 ガソリンタンク車 共同 公式側タキ35000形 35t積 ガソリンタンク車 石油荷役 公式側タキ35000形 35t積 ガソリンタンク車 豊年 公式側 タキ35000形 35t積 ガソリンタンク車 日石輸送 公式側タキ35000形 35t積 ガソリンタンク車 モービル 公式側タキ35000形 35t積 ガソリンタンク車 日石 公式側タキ35000形 35t積 ガソリンタンク車 日陸 非公式側タキ35000形 35t積 ガソリンタンク車 日陸 米タン 非公式側 タキ35000形 35t積 ガソリンタンク車 JOMO 公式側

タキ35000形は、タキ9900形の後継として、昭和41年〜48年(1966年〜1973年)に1108両が製作された35t積 ガソリンタンク車です。
今まで 私有貨車は車両メーカーが主体となって開発していましたが、この車から国鉄の統制のもと、標準車として各メーカーが技術を持ち寄って設計しました。

開発のコンセプトは、どのメーカーでも製作出来るように構造を簡素化して、なおかつ軽量化・全長縮小を図るというものです。
構造の簡素化は、異形胴タンク体の傾斜部分を単純な円錐形とし、またドームを廃する事によって成し遂げています。
旧来のタンク体のドームは、気化したガスの逃げ場のためにあったのですが、ドームレス構造のタンク体は 発想を転換して、タンク本体に空間を確保しています。
また、タンク体に耐候性高張力鋼を使う事で板厚を薄くして、台枠も いろいろ無駄を省いて軽量化しています。
車体長の短縮は、手ブレーキを側ブレーキに変更して デッキ部分を省略する方法をとっております。
その他の技術としては、積車と空車のブレーキ力を自動で切り替える 積空ブレーキの採用があります。

以降、本形式の設計をベースに 各種化成品タンク車も作られ、私有貨車の一大勢力を構成していました。
なお、この時期の他形式にも言える事ですが、量産の途中で側ブレーキを片側から両側に変更しています。これは突放入換の際のブレーキ係の直前横断触車事故を無くすためです。

絵は上段3両が片側ブレーキの初期形。他は一般的なタイプです。
バラエティ豊かな貨車所有者(長期リース含む)も この系列まで。 晩年は業界再編や輸送方式の改革によって石油元売り会社所有のタンク車は輸送会社に移籍し、徐々に淘汰されていきました。
参考に石油業界の大まかな系統を書くと・・・

日本石油・三菱石油→平成11年(1999年) 日石三菱→平成20年(2008年) 新日本石油(ENEOS)→平成22年(2010年) JX日鉱日石エネルギー(ENEOS)→平成29年(2017年) JXTGエネルギー(ENEOS)
九州石油→2008年 新日本石油(ENEOS)
共同石油・日本鉱業→平成4年(1992年) ジャパンエナジー(JOMO)→平成22年(2010年) JX日鉱日石エネルギー(ENEOS)→平成29年(2017年) JXTGエネルギー(ENEOS)
ゼネラル石油・東燃→平成12年(2000年) 東燃ゼネラル→平成29年(2017年) JXTGエネルギー(ENEOS)
三井石油→平成26年(2014年) 東燃ゼネラル
スタンダードヴァキュームオイル→昭和36年(1961年) エッソスタンダード石油・モービル石油→平成14年(2002年) エクソンモービル→平成29年(2017年) JXTGエネルギー(ENEOS)

大協石油・丸善石油→昭和61年(1986年) コスモ石油
日本漁網船具→昭和47年(1972年) キグナス石油→平成13年(2001年) キグナス石油(東燃ゼネラル系)→令和2年(2020年) キグナス石油(コスモ石油系)

出光興産→令和元年(2019年) 出光興産(出光昭和シェル)
ライジングサン石油→昭和23年(1948年) シェル石油→昭和60年(1985年) 昭和シェル石油→令和元年(2019年) 出光興産(出光昭和シェル)
昭和石油→昭和60年(1985年) 昭和シェル石油

太陽石油。

タキ45000形 35t積 石油類タンク車

タキ45000形 35t積 石油類タンク車 初期形 昭石 公式側タキ45000形 35t積 石油類タンク車 初期形 モービル 公式側タキ45000形 35t積 石油類タンク車 初期形 キグナス 非公式側

タキ45000形 35t積 石油類タンク車 エッソ 公式側タキ45000形 35t積 石油類タンク車 ゼネラル 公式側タキ45000形 35t積 石油類タンク車 共同 公式側 タキ45000形 35t積 石油類タンク車 OT 公式側タキ45000形 35t積 石油類タンク車 日石 公式側タキ45000形 35t積 石油類タンク車 日石輸送 非公式側 タキ35000形 35t積 石油類タンク車 キグナス 晩年 公式側

タキ45000形は、タキ9800形・タキ10000形の後継として、昭和41年〜48年(1966年〜1973年)に589両が製作された35t積 石油類タンク車で、タキ35000形の姉妹形式です。
従来形式に比べ車体長が大幅に短縮されました。が、のちに台車間距離の短い形式の走行安定性が問題となり、対策として昭和51年(1976年)以降 台車枕バネ部にオイルダンパを付ける改造をしています。

絵は上段3両が片側ブレーキの初期形。他は一般的なタイプです。

なお、各形式に言える事ですが、手ブレーキ・側ブレーキ各部への白色デコレーション塗装は、昭和46年(1971年)に正式化しています。
形式番号下への燃31とか燃32とかの「化成品分類番号」表記は昭和54年(1979年)10月〜。
軸箱・軸受へのサーモラベル貼付けは平成元年(1989年)〜。です。

タキ43000形 43t積 ガソリンタンク車
戦後、国鉄は鉄道の改革を推し進めていましたが、貨物輸送については 車両の近代化や、配車システムの構築と共に、直行列車拡充・客貨分離(増送)が順次計画されてきました。
客貨分離については、貨物専用線の建設・線増の他に、当時 ほとんどの駅で行っていた貨物取扱業務を なるべく拠点駅に集約する事が必要でした。

鉄道の駅というものは そもそも旅客の他に貨物も取り扱っているのが当たり前で、住民が荷車で持ってきた荷物を 鉄道で都会に運ぶ重要な使命がありました。
ところがトラックや舗装道路網が発達すると なにも一番近い駅が貨物取扱駅である必要が無くなり、貨物を取り扱わなければ 本線を塞ぐ入換作業も、要員も、設備も 削減できます。

当時はトラックや船に シェアを奪われつつあるものの、経済成長で鉄道貨物輸送は増え続けると考えられていたので、貨物取扱量の純減ではなく 受け皿としての大規模操車場や貨物ターミナルが建設されました。
一般貨物はそれで良いのですが、困るのが 各駅にある企業の専用線の存在で、特に戦後のエネルギー革命以降急速に、各企業毎の石油中継基地が地方内陸部の小駅に計画・設置される状況で、この受け皿として新たに物資別共同着基地の構想が生まれました。

これは、まず国鉄と関連業界が共同出資して物流拠点会社を設立。消費地の拠点に貨物の共同中継荷役基地(ターミナル)を用意。
物流拠点会社は、鉄道からの積み下ろし、トラックへの積み込みをなりわいとし、また、貨物の短期貯蔵(出荷量微調整)の役割も果たします。

これに合わせ業界各社は、会社毎に各駅に散らばっていた中継荷役基地(専用線)を廃止。
各社は 自前で行っていた輸送を輸送専門業者に委託し、各製造工場から物流拠点(ターミナル)に対して専用列車で大量直行輸送(物資別適合輸送)を行おうというコンセプトです。
これは、企業側の輸送関連経費の削減の時流にも合致していました。

こうして昭和40年代以降、石油、セメント、飼料、紙、化成品の各ターミナル会社が設立されました。※おかげで石炭→石油転換で生まれた 各地の小規模専用線は、開設されてから短期間で消滅が進みました。

タキ43000形 43t積 ガソリンタンク車 初期車 OT 非公式側タキ43000形 43t積 ガソリンタンク車 一般車(前期) OT 公式側 タキ43000形 43t積 ガソリンタンク車 一般車(後期) OT 公式側 タキ43000形 43t積 ガソリンタンク車 一般車(後期) OT 非公式側

タキ43000形は、昭和41年(1966年)設立の日本オイルターミナル(OT)用の貨車として昭和42年(1967年)に誕生しました。
OTの基地は内陸地方都市周辺に作られ、これらの輸送経路は幹線なので その専用車のタキ43000系は軸重15tで設計され、製作単価は上がりますが輸送効率を高めるためタキ9900形以来のフレームレス構造を採用して、荷重43トンを実現しました。
一般貨車は黒色が標準塗装ですが、当時、国鉄近代化の宣伝になるような貨車にはカラフルな色が使われ始め、石油大量集約輸送用貨車(=OT所属貨車)は運用区間制限車の目印として 特別に青15号で塗装されました。
同時期並行製作の亜幹線用タキ35000系列が 車体全長をケチるために 制動力に劣る側ブレーキを採用したのに対して、タキ43000系列は荷重が増えたために手ブレーキを採用しています。
ただ、手ブレーキの反対側のデッキは短くしたので 車端のオーバーハングが前後で違います。

足廻りは標準の12t軸(最大負担力13t)ではなく14t軸(最大負担力15t)を採用。
初期車37両は、従来通り平軸受でしたが、OT専用列車の重量級長大編成を全部平軸受台車とすると 走行抵抗が過大という事が判明し、量産車はコロ軸受化した43100番代に変更になりました。
また、北海道用に制輪子を変更した43500番代も製作されましたが、すぐに耐雪形制輪子も開発されたため15両のみの製作で終わり、43100番代の量産の狭間に埋もれています。

上廻りに目をやると、タンク中央が限界まで太くなったのでハシゴが片側に寄っています。
タンク上部踏板の手すりには、行き先別表示板枠というものが付けられました。
行き先別表示板は真荷主の社名表示が入りますが、これは宣伝のためというよりも、着基地で荷降ろしの時にパイプラインの接続を間違えないようにするためだと思われます。
OTの内陸油槽所は 荷役設備はもとより 貯蔵タンクも供用が基本ですが、パイプラインで業者別タンクと接続している所もあります。
ただ、石油元売業者間で輸送の合理化が進んだためか、平成1桁時代には行き先別表示板は使われなくなりました。

ちなみにガソリンは大きくレギュラーとハイオクに分かれていますが、実はレギュラーガソリンはJISで規格化されていますので どのメーカーでも同じ成分です。
なので、各地の製油所から石油中継基地の同じタンクを経て、各社の配送タンクローリーに分配されています。
(一時期、出光のレギュラーガソリンのみ洗浄剤を添加していましたが、輸送の合理化で中止となりました。)

なお、タンクの液出口と地上荷役設備との接続は旧来、8本のボルトで接続するフランジ式でしたが、これでは手間がかかるため、OTは新たにヨネカップリング(米田式カップリング)というワンタッチ方式の接続装置をタンク車・地上荷役装置に採用し、荷役時間の削減に成功しました。
一方、他社は その後 フランジ式をクイッカー式(MCカップリング)という接続装置に置き換えていきました。
そのため、しばらくの間 石油系タンク車の世界は 米田式とクイッカー式・フランジ式が並存していて、貨車を借りたりした時はアダプタを接続して荷役したりしていたのですが、順次OT車(施設)もクイッカー式へ交換作業が進められて、平成23年(2011年)の東日本大震災に間に合いました。

上絵は左から初期車非公式側、一般車(前期)公式側、一般車(後期)公式側、一般車(後期)非公式側。

タキ43000形 43t積 ガソリンタンク車 前期保安対策車 OT 公式側タキ43000形 43t積 ガソリンタンク車 中期保安対策車 日石輸送 公式側タキ43000形 43t積 ガソリンタンク車 中期保安対策車 日石輸送 非公式側

タキ43000系列の量産途中の昭和42年(1967年)8月に 新宿駅で石油列車衝突脱線事故が発生、昭和48年(1973年)8月には韓国で石油列車脱線転覆事故が発生し、いずれも流出した積荷に引火して大惨事となりました。
そこで、43438号車からは脱線事故時の安全性を向上するため、小改良がなさられました。
変更点は まず、事故発生時に損傷しやすい液出装置の吐出弁のハンドルをタンク上部に移動。また、脱線して車体がゴロンってなった場合に タンクから出っ張っている安全弁等を保護するため、タンク上部踏板を強化して ここで受身を取らせる事にしました。
こういった設計の多くは、のちのタキ1000形に引き継がれていますが、平成23年(2011年)の東日本大震災で効果を実証しています。
さらに 趣味の分野で準保安対策車と呼ばれている43470号車からは、必要最小限の長さしかなかった片側デッキの長さを 手ブレーキ側と同じ長さとして、衝突時のクラッシャブルゾーンを確保しています。

また、43486号車からは日本石油輸送所有車も作られるようになりました。
これは 成田空港開業に向けた航空燃料輸送のためと言われていますが、開港に手こずっている間に 実際の輸送は 後述のタキ40000形が担ったので、こちらは幹線筋の一般輸送で働きました。

上絵は左から前期保安対策車公式側、中期保安対策車公式側、中期保安対策車非公式側。

タキ43000形 43t積 ガソリンタンク車 後期保安対策車 OT 公式側タキ43000形 43t積 ガソリンタンク車 後期保安対策車 OT 非公式側

43600号車からは事故対策をさらに強化し、設計を改めました。
タキ43000系は昭和49年(1974年)製の43599号車以降、保安基準が強化されたため製作が出来なくなっていたのですが、その保安基準を満たしたタキ40000形は40t積で どうしても輸送能力が劣ったため、昭和57年(1982年)に保安基準を緩和して生れたのが、通称 タキ43600番代です。
改良のキモは車端のクラッシャブルゾーンのさらなる拡大で、台枠端からタンク鏡板まで500mm以上確保する決まりとなったため、タンク鏡板を扁平にし、さらにタンク内の空容積を拡大したため タンクが少し太くなっています。
単純に車体を延長しないのは、荷役施設に合わせたため。
従来の台枠は、手ブレーキを巻けば 鎖に負けて たわむような華奢な台枠でしたが、これも合わせて改善されています。
タキ43600番代は45両が製作され、現在は高級油種用に使っているようです。

タキ43000形 43t積 ガソリンタンク車 一般車(前期) 日石輸送 公式側タキ43000形 43t積 ガソリンタンク車 中期保安対策車 OT 公式側

鉄道の石油タンク車は 積荷の品質管理が厳しく、輸送担当者は1両毎に“手駒”を管理して「この車はガソリン、この車は軽油・・・。」と、運用計画を立てています。
油種を変更する場合はタンク内部を洗浄する必要がありますが、これにはお金が掛ります。
重油用のタンク車は、一旦重油を入れてしまうと洗浄してもタンクに色が染みついて取れないので、品質管理上 他の油種用には使いません。

例えば、想定より冬が寒くて 急に灯油の輸送需要が生まれたら、自社のタンク車を洗浄しないで 手っ取り早く他社の灯油用の車を借りたりします。
その際は 接続装置の違う車も来ますが、それ用のアダプタが用意してあるので大丈夫です。
なんにせよ、長期・中期の需要予測が大事です。

それはともかく、平成になってからタキ43000形、タキ44000形共に所有者変更が頻繁に行われております。
はたから見るとタキ43000形どうしを交換するような不思議な所有者変更ですね。でも青いからと言ってOT所有とは限りません。
実はタンク車やコンテナの真の所有者はリース会社(JOT、NRSなど)であることが多く、長期リースの場合は貸出先の塗装・表記がなされています。
で、さらに今までリースで借りていたものを正式に買い取ったりもするので、趣味者から見たら真の所有者は分かりません。
一般的には全般検査の前のタイミングで積荷油種とか車両寿命を考慮して長期リースや買い取りが行われ、その際に塗装・表記も変更されますが、まれに上の絵のようなちぐはぐな車両も登場します。

タキ44000形 43t積 石油類タンク車

タキ44000形 43t積 石油類タンク車 初期車 OT 公式側タキ44000形 43t積 石油類タンク車 一般車(前期) OT 非公式側タキ44000形 43t積 石油類タンク車 一般車(後期) OT 公式側

タキ44000形 43t積 石油類タンク車 保安対策車 日石輸送 公式側

タキ44000形はタキ43000系の石油類版として昭和42年(1967年)から一般形(準保安対策車含む)が155両、昭和57年(1982年)に保安対策車が15両製作されました。
分類はタキ43000形と同じで、絵は上段左から初期車公式側、一般車(前期)非公式側、一般車(後期)公式側。下段が保安対策車公式側です。

タキ64000形 64t積 ガソリンタンク車

タキ64000形 64t積 ガソリンタンク車 日石 公式側タキ64000形 64t積 ガソリンタンク車 日石 非公式側

この車は・・・、試作車なので不明点が多く、ただ失敗作との風評が出回っていますが、ここでは もう少し掘り下げて考えてみようと思います。
昭和49年(1974年)に第一次オイルショックが発生する以前、昭和40年代初めの日本国内での石油消費量は、毎年+10%という底なしを錯覚させる急激な伸びを示していました。
国鉄では前記の石油ターミナルの建設と共に、川崎〜南埼玉 間110kmの線路沿いに石油パイプラインの敷設を計画するなど 積極的に改革を推進していました。
タンク車のさらなる大形化による高効率輸送も模索され、そんな中生まれたのが、国鉄最大のタンク車であるタキ64000形です。
誕生は昭和44年(1969年)で、タキ43000系のノウハウを利用して、2両試作されました。

計画当初は65t積で計画されたのですが、事故を起こした場合に65tの揮発油がそのまま流出する危険が指摘され、やむなくタンク中央に隔壁を新設、マンホールも安全弁も2両分取り付けたため自重が増えて、容積が減って、完成した時には64t積になってしまいました。
この設計変更がタキ64000形の不運の元で、荷重減少は ともかく、前後2室のマンホール間隔が中途半端で、荷を積む時に片側積んだら小移動しての荷役が必要となってしまいました。
タキ50000形の時代のように、雑多な形式が混ざって運用されていたのなら 苦にならない作業かもしれませんが、重たい車両を 小まめに小移動するのは、かなり骨の折れる作業だと想像できます。
その対策からか、一応両端にも液入口を追加したようですが、これはタキ65000形の設計段階からのモノなのかは分かりません。
同じ大形タンク車の タキ50000系の場合は、1回の荷役で50t積めます。
ただ タキ64000形も 荷降ろしは液出管が2室に連絡しているので、1回で済みます。

車体が長いと既存の荷役施設との整合性も問題となりますが、この頃は まだ新設の石油基地も計画されていましたし、大形車のメリットがあれば これで編成を統一し、それに合わせた施設の改造も視野に入れていた事でしょう。
実現すればJOTなりNRSが所有して OTに長期リースという流れになったと思いますが、上記の通り途中で設計変更されたため旨味が消えてしまい、タキ43000系の増備が続く事になって、タキ64000形は少数派となることが確定してしまいました。
当時は現に石油元売会社は 輸送専門業者に輸送業務を委託して、物流コストを削減する道を選び始めていましたが、日石は遅くまで自社でタンク車を運用していたので、異端車のタキ64000形も引き受けたのだと思います。

タキ64000形は根岸を根城として冬季の波動輸送に使われましたが、荷役の都合か 列車の連結位置は最根岸方が定番だったようです。平成5年(1993年)廃車。

タキ17000形 35t積 石油類タンク車

タキ17000形 35t積 石油類タンク車 日石 公式側 タキ17000形 35t積 石油類タンク車 日石 末期 非公式側

タキ17000形は、タキ11000形の増備として製作された35t積 C重油輸送用 石油類タンク車です。
昭和44年〜46年(1969年〜1971年)に 日車及び川崎で52両が製作されました。
構造的にはタキ11000形にタキ35000形の設計要素を取り入れたもので、タンクがドームレスとなりました。

タキ40000形 40t積 ガソリンタンク車

タキ40000形 40t積 ガソリンタンク車 日石輸送 成田空港航空燃料輸送時 公式側ヨ8000形 車掌車 成田空港航空燃料輸送 機動隊添乗 公式側

タキ40000形 40t積 ガソリンタンク車 日石輸送 公式側 タキ40000形 40t積 ガソリンタンク車 日石輸送 非公式側

タキ40000形は成田空港航空燃料輸送用として昭和51年(1976年)に登場した、幹線用大形ガソリンタンク車です。140両製作。
保安対策強化車を設計している所に たまたま成田空港の燃料輸送の需要が生まれたのか、成田空港燃料輸送のために特別な保安対策強化車が必要になったのか判然としません。
昭和49年(1974年)には 同輸送用と噂されるタキ43000形の日本石油輸送所有車が生まれていますが、これでは不十分と考えられてタキ40000形が開発されたのかもしれません。

成田空港の航空燃料輸送とは、同空港の燃料パイプラインの完成までの数年間 暫定的にジェット燃料を鉄道輸送したものですが、成田空港の開港では反対運動がおこり、そこに目を付けた自分の正義を信じて疑わないテロリストが 反対運動に加勢し、空港建設に対する手段を選ばぬ妨害活動をして 大騒ぎとなりました。
当然、同空港向けの燃料輸送列車も襲撃される公算が高いため、重保安対策車としてタキ40000形が設計されたのです。

もともと石油系タンク車の保安対策は、タキ43000系の新製毎に順次導入されていたのですが、そもそもフレームレス構造自体が事故の時危ないと判断され、タキ40000形は台枠付きに戻りました。
そのせいで荷重がタキ43000形の43tから3t減の40t積となってしまい、なおかつ 全長が270mm長くなりました。
タンク上部踏み板の手スリ下部にはプロテクタも付けられ、形態的には大柄の堂々とした車体で、私の一番好きなタンク車です。

上段の絵が成田空港 航空燃料輸送時の姿。
成田空港の燃料輸送は、昭和53年(1978年)3月2日〜昭和58年(1983年)8月6日に行われ、その間はジェット燃料(灯油〜軽油の一種)専用に使うため専用種別を「灯油A−1」と表記して、安全性をアピールしていました。
右の緩急車は、航空燃料輸送列車運転開始初期に見られた機動隊員テンコ盛りの状況ですが、その後、実際に機関車の焼き討ちや信号通信施設破壊、進路妨害等 何度もテロに会い、列車は立ち往生しました。

この輸送終了後は下段の絵のように「ガソリン専用」になり、タキ40000形で綺麗に揃った編成を組んだり、タキ43000系に混ざって運用されたりして平和に活躍しました。

タキ38000形 36t積 ガソリンタンク車

タキ38000形 36t積 ガソリンタンク車 日石輸送 公式側タキ38000形 36t積 ガソリンタンク車 日石輸送 米タン 公式側 タキ38000形 36t積 ガソリンタンク車 日石輸送 非公式側

タキ38000形は、亜幹線用のタキ35000形の後継車として誕生した 36t積ガソリンタンク車です。昭和52年(1977年)から140両が誕生しました。
設計的にはタキ40000形を小さくした姉妹車であり、保安対策として台枠付きで 荷重はタキ35000形より1t増の36tとなりましたが、全長は430mm延びました。
ちょっと重装備すぎる気もしますが、一度 重保安対策車を設計してしまうと 仕様の後戻りは難しかったのかもしれません。

末期には波動輸送用となったほか、一部が米タンとして使われました。
東日本大震災の時は 冬期の波動輸送が終了して、1休車掛けるかと留置ヶ所に集積している時にお呼びがかかり、急遽交番検査を施工(なかには2回目の指定取替を施工した車両も・・・。)して36両を掻き集めて、緊急石油迂回輸送に活躍しました。
よく勘違いされるのですが、そこで活躍したのはあくまで波動輸送用のタキ38000形で、米タン用ではありません。

タキ43000形 143000番代 43t積 ガソリンタンク車 タキ143645号車

タキ43000形 143000番代 43t積 ガソリンタンク車 タキ143645号車 日石輸送 公式側

国鉄解体騒動のさなか昭和62年(1987年)に日本車両で突如として1両だけ誕生したのが タキ43000形143000番代です。
見ての通りステンレス製タンク体が特徴で、タキ43000形の最終車 タキ43644号車の続番に100001をプラスしてタキ143645号車として登場しました。これは、配車上タンク車の車号を下3桁で呼称する事が多いためです。
台車は あり合わせの中古品(コキ1000形廃車発生品のTR215)を使用し、あからさまな試作車ですが、タンクを積荷に悪影響を及ばしにくいステンレスにして、軽メンテナンスを狙ったもののようです。

タキ43000形 243000番代 44t積 ガソリンタンク車

タキ43000形 243000番代 44t積 ガソリンタンク車 前期車 日石輸送 公式側タキ43000形 243000番代 44t積 ガソリンタンク車 前期車 日石輸送 公式側タキ43000形 243000番代 44t積 ガソリンタンク車 前期車 日石輸送 非公式側タキ43000形 243000番代 44t積 ガソリンタンク車 前期車 OT 非公式側

タキ43000形 243000番代 44t積 ガソリンタンク車 後期車 日石輸送 公式側タキ43000形 243000番代 44t積 ガソリンタンク車 後期車 日石輸送+エネオス 公式側タキ43000形 243000番代 44t積 ガソリンタンク車 後期車 日石輸送 非公式側

タキ43000形243000番代は143000番代の登場から2年後の平成元年(1989年)にタキ43000形のモデルチェンジ車として登場しました。
従来タイプとの違いは、タンク上部踏板等をアルミ合金製として自重を減らし、荷重を1t増の44tとした事です。微妙にタンクが太くなっています。
車号はタキ143645号車に100001を加え、タキ243646号車から始まっています。
また、識別のため塗装も変更され、当初は台車をグレーにした黒色車体で登場。タキ243666号車からは 従来のしがらみにとらわれないグリーンとグレーのツートーンカラーとなりました。

243000番代はバブル景気の余韻もあって順調に増備されましたが、タキ243756号車からは さらにブレーキ装置を大幅に改良しています。
これは戦前から連綿と続くシステムの変更であり、本来 番代も変えるべき仕様変更です。

絵は上段が前期車。下段が後期車。
タキ43000形243000番代は平成5年(1993年)までに合わせて240両が製作されました。また、最近はOTに移籍したものもあらわれています。

タキ1000形 45t積 ガソリンタンク車

タキ1000形 45t積 ガソリンタンク車 初期車 日石輸送 公式側タキ1000形 45t積 ガソリンタンク車 初期車 日石輸送 非公式側タキ1000形 45t積 ガソリンタンク車 前期車 日石輸送+エネオス 公式側タキ1000形 45t積 ガソリンタンク車 前期車 日石輸送 非公式側タキ1000形 45t積 ガソリンタンク車 前期車 OT 公式側タキ1000形 45t積 ガソリンタンク車 前期車 OT 初期塗装 非公式側タキ1000形 45t積 ガソリンタンク車 後期車1 OT 初期塗装 公式側タキ1000形 45t積 ガソリンタンク車 後期車1 OT 非公式側タキ1000形 45t積 ガソリンタンク車 後期車2 日石輸送 公式側タキ1000形 45t積 ガソリンタンク車 後期車2 日石輸送+エネオス 非公式側タキ1000形 45t積 ガソリンタンク車 後期車2 OT 矢羽塗装 公式側タキ1000形 45t積 ガソリンタンク車 後期車2 非公式側 OT 矢羽塗装タキ1000形 45t積 ガソリンタンク車 後期車2 OT 非公式側タキ1000形 45t積 ガソリンタンク車 後期車2 日石輸送 米タン 公式側タキ1000形 45t積 ガソリンタンク車 後期車2 日石輸送 1000号車記念塗装 公式側

タキ1000形は 平成5年(1993年)生まれで 現在量産中の 45t積ガソリンタンク車です。

この車の開発目的は、やはり輸送の効率化ですが、新技術を投入して高速化と荷重増を同時に成し遂げています。
まず 荷重増は、タキ243000形でも あと1tくらい軸重の余裕があったのですが、全長を伸ばすのは荷役設備と整合せず 好ましくありません。
そこで、タンクを太くする方法を用いました。
太いタンクと車輪とのクリアランスを確保するため、従来の直径860mm(使用限度774mm)の標準サイズの車輪をやめて、直径810mm(使用限度730mm)の小径車輪を使いました。

高速化の方は、コキ100系で開発したFT1台車をタンク車向けに改良した FT21台車を使用し、車輪踏面形状も高速仕様に。
ブレーキ装置もコキ100系の流れを汲むタキ243000形後期車と同じものとして、最高速度を従来の75km/hから一気に95km/hに向上しています。
本来 小径車輪は高速走行には色々と向かないのですが、この程度の小形化なら大丈夫と見極めができたのでしょう。

さて、高速化されると何が起きるかというと、車両の回転率が向上します。
例えば、従来1運用で3編成必要だったのが、タキ1000形で揃えれば日帰りの1編成で賄えるようになったりします。
つまり、所有者は 車両を無駄に抱え込む必要が無くなります。
車両が少なくなり、設計もコンテナ車の派生とあらば、検修も合理化できます。
また、高速化は列車ダイヤが組みやすくなるというメリットもあります。

また、この頃になると もう重油用のタンク車は 完全に作られなくなりました。
それは重油の消費、なかでもC重油の消費が減ったためで、これは産業構造の変化や、オイルショックの影響、電化やガス燃料化など 複合的な要因が考えられます。
そもそも鉄道による石油輸送が 次々と内航船やタンクローリーに転換され、残されたのは製油所→八王子・長野・群馬・栃木・郡山・盛岡・札幌の内陸拠点油槽所への輸送のみ。

現在もタキ44000形が少々残っていますが もう脇役で、上記の拠点間輸送はタキ1000形とタキ43000形が担っています。
という事は どの車も長さが同じですから、発基地の積み込み施設と着基地の荷降ろし施設を 編成のまま荷役できるような規格にすれば、入換機関車が行ったり来たりの入換作業が省略できます。
入換作業が単純となれば 返空の折り返し時間が短縮でき、ここでも車両運用が効率化されます。
のみならず、各編成の検査期限をすべて揃えて、各運用共通の予備編成を1本用意しておけば、検査車両を1両毎に抜き取る入換作業も不要となります。
編成の油種の組み合わせは 長期計画を立てて仕立てておけば良く、冬季の需要には波動用車両を使った別仕立ての編成で 予定臨時列車を増発すればよいのです。
以上の話はあくまで理論上のもので、一定の予備車両が必須ですが、これら合理化は 何らかの形で実現するかもしれません。
ちなみに最近の一般的編成の油種の割合は、大雑把に言って半分がガソリンで、そのうち9割がレギュラーガソリン。編成の4分の1が灯油。同じく4分の1が軽油。他にA重油が編成に1〜2車。ってな感じのようです。冬は暖房用の灯油とA重油(ビニールハウスの暖房等に使用。)が増え、夏は車のエアコンでガソリンが増えます。また、地域によっては重油の需要が多いいです。

なお、ある運用をタキ1000形式の新製車で一気に置き換える事もしばしばありますが、その場合は編成の車両の向きが揃っていて美しいです。
美しいと言えば、日本石油輸送所有車のセンスの良い塗り分け塗装。
これはタキ243000形からの採用ですが、この緑色、絵では描き分けていませんが平成12年(2000年)から濃いものに変更されています。
また、エネオス向けに運用している車は エネオスマークが貼られています。

OT所有車両も当初は着飾っていて、絵のような帯を巻いていました。
また、平成18年(2006年)製のものはOT創設40周年記念として“矢羽塗装”と通称されるカラフルなステッカーを貼って登場しました。
これらは 今では青一色です。

タキ1000形は続々と増備されていますが、絵を見て頂くと分かるように、塗装以外にも色々とバリエーションがあります。
趣味的にも楽しいですね。1000号車は記念にJOT・JR貨物・OTの混色記念塗装で登場しました。

なお、平成23年(2011年)の東日本大震災の津波では、仙台臨海鉄道内で46両のタキ1000形が大損害(延焼18両、流出25両、他3両)を受け廃車となってしまいました。

クキ1000形 石油ピギーバック専用 車運車

タンクローリーピギーバック輸送は、国鉄末期の昭和60年(1985年)に名古屋臨海鉄道で研究が始まりました。
これは、製油所から油槽所の無い地域のガソリンスタンド向けに長距離運用されているタンクローリーを、鉄道に誘致しようというもので、石油会社や国鉄、鉄道車両メーカーとの共同研究に発展しました。
たいてい製油所から遠距離の地域には 立派な油槽所があるのですから、微妙な位置の地域への 数車単位のニッチな小ロット輸送を想定していたと思われます。それでも臨海鉄道の収入にはなります。
その後、試作車のクキ900形を制作したり、消防法を変更してもらったりして、技術的課題はクリアしていきました。
ただ、当時は新専貨列車方式(昔のヤード方式を廃止した代わりに、臨海鉄道が車扱い貨車を中継し、ヤードの機能を請け負って収入源とするとともに、小規模車扱い輸送を存続させる。)にしても縮小するのがJRの方針だったので、名古屋臨海鉄道の計画は立ち消えとなりました。

ちょうどそのころ、世の中はバブル景気(昭和61〜平成3年(1986〜1991年)の間と言われる。)に突入しており、首都圏の交通渋滞は深刻化しており、東京湾岸の製油所から東京外延部へのガソリン輸送に時間が掛かるようになりました。
そこで、JRと石油会社はタンクローリーピギーバック方式に目を付け、横浜の製油所から新座・越谷への短距離バイパス輸送に採用する事となりました。

そして製作されたのがクキ1000形です。

クキ1000形 石油ピギーバック専用 車運車 公式側 TST1612形タンクロゥリィ積クキ1000形 石油ピギーバック専用 車運車 非公式側 TST1612形タンクロゥリィ積

クキ1000形は20キロリットルセミトレーラータンクローリーを2台積載し、荷重はローリーの自重も含めて44.4t。設計上は 14klセミトレーラーの3台積や 20klと14klの混載、または1台積も可能となっています。
最新式の足廻りで 最高速度は95km/hとし、平成3、4年(1991、1992年)に 20両が製作されました。

クキ1000形の所有は日本石油輸送で、日本石油のローリーを 横浜本牧駅で積載し、新座タ・越谷タへ運用しました。昔 名古屋臨海鉄道が想定したような新専貨列車では無く、完全な専用列車です。
日本石油の根岸の製油所には専用線があり、そこでローリーをクキ1000形に積載したまま車上荷役して 直に発送すれば良いように思われるかもしれませんが、ガソリンスタンド行きタンクローリーは 多品種の油種を積み、行先に応じてもその組み合わせが変わるので無理があります。
この輸送用に用意されたTST1612形タンクローリーのタンクは 7室に仕切られています。これに個々に各種白油を ガソリンスタンドからのオーダーに合わせて積むのです。
クキ1000形の運用当時の写真を見ると 台車上にアルファベットの表示がされていますが、NA〜NJが新座タ、KA〜KHが越谷タの連結順序番号のようです。これで個々のローリーの積載位置を明確化していたのでしょう。

クキ1000形へのタンクローリーの積載方法は、当時登場したばかりの海上コンテナ用荷役機械であるリーチスタッカに、タンクローリーを掴むための特殊なアタッチメントを付けて、鷲掴みで行くと事としました。
この荷役機械が開発されていなければ、タンクローリーピギーバックは クレーンで荷役する他なかったと思われます。

トップリフタがフォークリフトからの派生であるのに対し、リーチスタッカはクレーン車から派生した荷役機械です。
リーチスタッカもトップリフタも どちらも海上コンテナ荷役用の機械ですが、リーチスタッカは狭い場所での海上コンテナの取り廻しに適した機械で、トップリフタの上位互換機種と言えます。
トップリフタがコンテナを上下に動すのに対して、リーチスタッカはコンテナを上下のほか、水平回転や遠方に置くこともできるなど、はるかに自由度が高い操作ができます。

ただ、トップリフタがフォークリフトの免許で運転できるのに対して、リーチスタッカは、当時は移動式クレーン 現在はシャベルローダーの免許が必要です。
貨物駅ではフォークリフトオペレーターがトップリフタの操縦を兼務しているので リーチスタッカの導入には無駄がありますが、港湾ではリーチスタッカの方が普及してきました。
リーチスタッカは かなり高価な機械ですが、横浜本牧に2台。新座タ、越谷タに1台づつの計4台が導入されたようです。
また、荷役位置の微調整のためにタンクローリーを仮受する 大型のハンドリフト機も配備しました。


タンクローリーピギーバックは、平成4年(1992年)3月に横浜本牧〜新座タで華々しくデビューしました。輸送開始の名目は輸送時間の短縮でしたが、どちらかというと環境にやさしい事を最大の売り文句にしていました。
6月からは越谷タ行きも増結され、9月に18両のフル編成になりました。
そして、4年後。平成8年(1996年)3月に廃止されました・・・。全車、その年のうちに さっさと解体されてしまいました。

失敗の原因は、まずバブル景気の崩壊が大きいです。走り出したその年に崩壊してしまいました。
加えて首都高湾岸線の開通で道路事情も良くなり、高コストが目立つようになりました。
ピギーバックは環境に良いという謳い文句もありましたが、不景気になればそんなこと言ってられません。そもそも本当に環境に良いのかも怪しいです。
輸送開始の翌年には、業界誌に当事者のちょっと消極的なインタビュー記事が掲載されており、輸送が始まったその時には もう先は見えていたものと思われます。

ここでちょっと、タンクローリーピギーバックの荷役時間について、当時の資料から考察してみましょう。
輸送開始時点で1台のトレーラーを発駅で積んで〜着駅で降ろすのに計20分掛かっていました。
頑張って 3か月後には14分で荷役できるようになりました。なお、当時は5両編成で、各駅の荷役要員は3名要しました。
計画の18両編成にするためには、これを10分で行うことが必須となっていました。また要員もリーチスタッカ運転手1名で できることを見込んでいました。

この荷役人工の問題が解決したのかは不明です。
仮に解決できていなかったとして、18両編成の荷役時間は、36台×14分で8時間24分ですね。
10分でできるようになったとしても、36台×10分で6時間00分ですね。発駅にリーチスタッカを2台配備したので半分で割って3時間ですが、巨額な投資をして、果たして道路渋滞分の時間は稼げたのでしょうか?
そもそもこの方式は、内陸の石油備蓄基地のように輸送力を調整する機能が無く、ガソリンスタンドから直に来る輸送オーダーなので、物凄く時間にシビアなはずです。
バブルがどうこう言う以前に、システムとして欠陥があったような気がします。

なお、一部書籍で石油ピギー終焉で不要となったリーチスタッカをトップリフタに改造したと記述されていますが、それは誤りです。構造が全く違います。
リーチスタッカは、アタッチメントを外してそのままトップリフタの代用として利用されましたが、前記のようにフォークの免許では運転できず、輸入品でメンテナンスも大変で、とっても持て余まされていました。


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