気動車の絵



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電車の絵は こちら  蒸気機関車の絵は こちら  ディーゼル機関車の絵は こちら  電気機関車の絵は こちら  貨車の絵 その1は こちら  貨車の絵 その2は こちら  貨車の絵 その3は こちら  貨車の絵 その4は こちら  貨車の絵 その5は こちら  貨車の絵 その6は こちら  貨車の絵 その7は こちら  貨車の絵 その8は こちら  貨車の絵 その9は こちら  貨車の絵 その10は こちら  貨車の絵 その10は こちら  貨車の絵 その11は こちら  貨車の絵 その12は こちら  貨車の絵 その13は こちら  貨車の絵 その14は こちら  貨車の絵 その15は こちら  貨車の絵 その16は こちら  客車の絵は こちら  小形鉄道車両の絵 その1は こちら  小形鉄道車両の絵 その2は こちら

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ジハニ6055形 蒸気動車

ジハニ6055形 蒸気動車 公式側 ジハニ6055形 蒸気動車 電灯化後 公式側

蒸気動車とはガソリンカーが出現する以前に活躍した気動車で、蒸気機関車のエンジンを備えた客車です。蒸汽自動客車とも言います。
主に旅客列車の高頻度反復運転に良しとされ、日本でも明治末期から活躍が始まりました。

国鉄では、明治40年(1907年)の鉄道国有化直前に関西鉄道が発注したガンツ式という蒸気動車2両が最初ですが、これは実用的ではなかったようで、本格的には明治45年(1912年)から導入された汽車会社の工藤式蒸気動車が活躍しました。
工藤式とは言うものの、実態は当時汽車会社の設計掛長であった工藤兵治郎なる人物が、英国のロンドン&ノースウエスタン鉄道の蒸気動車の構造をそっくりそのまま真似たうえ、日本国内で特許を取ってしまったものだそうです。
工藤式の特徴は、車体から蒸気機関部を引き抜いて分離できることと、後部運転室からワイヤー連動で機関部をコントロールできる事です。後部運転室で操作時は、機関助士が前部運転室にいますが、前部運転室での操作はロックされます。

工藤式蒸気動車は、国鉄には明治45年(1912年)にホジ6005形が8両、ホジ6013形が4両、翌年ホジ6060形が6両導入されました。
ホジという形式を使っていたのは短期間のようで、ホジ6005形はジハニ6055形、ホジ6013形はジハ6005形、ホジ6060形はジハ6010形にそれぞれ改められています。
さらに昭和の改番でジハニ6055形はキハニ6450形、ジハ6005形はキハ6400形、ジハ6010形はキハ6410形となりました。

国鉄の蒸気動車は主に関西、九州地区で活躍しました。主な活躍期間はガソリンカーが普及しだす昭和初期までですが、紆余曲折を経て戦後まで生き残ったものもおり、現在 奇跡的にジハ6006号車が保存されています。

絵に描いたのはジハニ6055形で、荷物室付きでセミクロスシートの室内が特徴です。
屋根はシングルルーフで後部運転台からの操縦用ワイヤーが張られています。
室内照明はガス灯で、床下にピンチガスの大きなタンクを抱えています。
ピンチガスは原油を蒸留して作られたガスですが、気体のままなので大きなタンクが必要でした。
ピンチガス灯は油灯よりは明るいのですが、すぐに電灯に取って代わられ、ジハニ6055形も後年蓄電池を積んで電灯化されました。

ジハニ6055形を描いたのは 地元伊勢崎を走った車両だから。
ジハニ6055号車とジハニ6056号車は珍しい事に関東地区 しかも高崎機関庫に配置されて、大正6〜13年(1917〜1924年)まで 両毛線の高崎〜伊勢崎 間の区間列車で活躍しました。前橋駅での写真が残されています。

キハニ5000形 四輪三等荷物ガソリン動車

キハニ5000形 四輪三等荷物ガソリン動車 茶色 公式側 キハニ5000形 四輪三等荷物ガソリン動車 ヒサシ付き 気動車色 公式側キハニ5000形 四輪三等荷物ガソリン動車 気動車色 非公式側

キハニ5000形は、国鉄で最初に開発された内燃気動車です。
日本においてガソリンカーは 車両メーカーの積極的な開発により 大正後期から本格的な普及が始まりましたが、それらは輸入物のエンジンに頼った軽量車で、当時はまだ国鉄にはそんな軽便なコンセプトの車両は必要とされていませんでした。
ただ、次第にその評判を聞くにつれ国鉄も興味を持ち、国鉄流のガソリン動車の設計が昭和2年(1927年)頃から始まりました。
これが昭和4年(1929年)に完成したキハニ5000形で、当時 地方私鉄で多く見られたものとは異なり、国産エンジンと大形車体なのが特徴です。
エンジンは池貝鉄工所製の船舶用48HP機関を改良したものですが、結果として機関出力に対して車体を重くし過ぎて失敗でした。
一応軽量化を考慮して設計したとはされていますが、見てのように無駄に分厚い屋根など、国鉄設計陣の不慣れが見て取れます。
この教訓をもとに、国鉄はキハ41000形で成功を収める事となります。

キハニ5000形は12両が製作され、各地に分散配置されました。
たしかに勾配線区では非力で困ったようですが、平坦線区ではそれなりに運用されてて、現場では初めての内燃機関に戸惑いつつも、徐々に技術力を身に付けていきました。

キハニ5000形は 国鉄では久々の新製旅客用2軸車で、車体は当時の鋼製電車のような仕様です。屋根両端の出っ張りはラジエーターです。
連結器は、のちの気動車が軽量化を意図した簡易連結器や小形密着自動連結器なのに対し、普通の自動連結器で、これも自重増に一役買ってしまっています。
車体塗装は客車と同じくブドウ色で、苗穂の保存車に見られるように登場時は3等席の赤帯を巻いていましたが、キハ36900形の製作に合わせて昭和8年(1933年)に赤帯を廃止したようです。
さらに昭和10年(1935年)からは、濃青色(藍青色)と黄土色(帯黄灰色)の2色塗りになります。
また後年、蓄電池の位置や、手摺や踏段、運転席窓のヒサシなど、1両毎の仕様差異が生まれました。

キハニ5000形は他の気動車と同様に、戦時体制になり燃料事情が厳しくなった昭和14年(1939年)頃には続々と休車されていきましたが、堅牢な構造が功を奏して客車として第二の人生を歩むこととなります。

ハニ5000形 宇和島線用 三等荷物客車

ハニ5000形 宇和島線用 三等荷物客車 公式側

愛媛県の宇和島線(のちの予土線の一部。)は、元々軽便鉄道で国鉄が買収したものですが、昭和16年(1941年)に改軌されました。
ただ、当時の宇和島線は陸の孤島で 他の国鉄路線と接続しておらず、車両の搬入が船積だった事もあってか、改軌開業に当たって 客車は2軸車で揃えられました。
2軸客車と言えば明治期の木造マッチ箱以来 国鉄としては新製していませんが、ちょうどそこにキハニ5000形が休車していたので これを転用し、同線の主力客車とする事にしました。
マッチ箱と異なり 大形車体の近代的な鋼製車なので用途にバッチリで、決してキハニ5000形が欠陥品で余って仕方なく客車にしたのではありません。キハニ5000形が休車になっていたのは、あくまで燃料事情です。
キハニ5000形は8両が改造され、宇和島線客車 ハニ5000形となりました。・・・厳密には単に5000形って言うらしいけど、無意味なこだわりなので ここではハニ5000形とします。

ハニ5000形への改造に当たっては、エンジンを降ろし、前位運転室を撤去して側扉を閉鎖して座席を増設、後位運転室は車掌室の一部となりました。
また、エンジンで発電ができないため、電灯用蓄電池をキハニ時代の4倍の容量とし、車軸発電機も装備しました。
種車のキハニ5000形時代からブレーキ装置が前後の車軸で違うのですが、これはそのままです。ただ、蓄電池箱増設の影響で空制機器は移設しています。
窮屈な2軸車で重量バランスの関係もあり、蓄電池箱は中形1個、小形2個が分散配置されました。
宇和島線ではC12形蒸機に牽かれて活躍しました。

エ810形 救援車

エ810形 救援車 エ811号車 公式側

ハニ5000形の項で述べたように、キハニ5000形は稀少な鋼製2軸旅客車なので、事故廃車1両を除く全車の客車化が進み、残っていた3両は救援用職用車 ヤ5010形となりました。
救援用職用車=救援車は、車両が事故を起こした時に 現場まで復旧器材や復旧要員を運ぶ車両です。
ヤ5010形は戦後の昭和28年(1953年)の称号改正で、貨車扱いとなり救援車 エ810形となりました。
ヤ5010形の改造内容はハニ5000形と異なり、ブレーキ装置には手を加えていない模様で、室蘭客貨車区に最後まで配置されていたエ811号車が苗穂工場でキハニ5005号車に復元されています。

キハ41000形 四輪ボギーガソリン動車

キハ41000形 四輪ボギーガソリン動車 青色 公式側キハ41000形 四輪ボギーガソリン動車 茶色 非公式側

キハニ5000形から4年後。昭和8年(1933年)に 国鉄は待望の気動車キハ36900形の開発を完了しました。乗客定員は109人です。
車体設計等は、メーカーが地方私鉄向け気動車用に開発したノウハウを導入しました。
ただ、私鉄が採用した気動車はどれも外国製エンジンを使用したので、国鉄としては国産エンジンにこだわり、やっと100HPの出力を出す国産ガソリン機関のGMF13形を誕生させたのでした。

キハ36900形は36両が製作され、特に問題もなく初期故障を克服して、現場では好評をもって迎えられたため、形式をキハ41000形に変更のうえで早速増備する事となりました。
キハ36900形改めキハ41000形は昭和11年(1936年)までに138両の勢力となり、以降はキハ42000形の製作に移行しました。
キハ41000系としては、同形車体で試作ディーゼル機関搭載のキハ41500形も2両が製作されているので、140両が戦前の陣容です。

床下機器でエンジンとラジエーターに挟まって デンと大きなスペースを取っているのは、温気暖房のための空気温め器です。
この装置で、吸気ダクトから取り込んだ外気と エンジン排気熱を温め器で熱交換して、車内床下に巡らせたダクトで室内均等に温めます。
キハニ5000形は自動車のような温水暖房だったところ、キハ41000形では温気暖房にしたのですが、いずれにしろ、大形の鉄道車両の乏しい動力源(=自動車に比べて小さいエネルギーで走れるという事。)の熱を暖房に使う方式は能力不足でした。
温気暖房装置はメンテナンスも面倒なので のちに撤去してしまった車両もいます。

ラジエーターは自然通風式で、冷却を効率よくするためか、上から見るとハの字状に斜めに配置されています。

キハ41000形 ガソリン動車 シンダガス発生炉搭載車 青色 公式側

と、戦前の華やかな時代を活躍したガソリン動車ですが、次第に戦争の雲行きが悪くなってきたので、国鉄は代用燃料として木炭ガスに着目しました。
これは、気動車のためというより省営バスや民間のバス・トラックへの搭載を目指す国策で研究が進みました。
木炭ガスとは 木炭や薪を不完全燃焼させて得られる一酸化炭素と水素を含む気体で、ガソリン燃料の代替となります。しかし燃焼効率はガソリンに大きく劣ります。
昭和13年(1938年)には鉄道車両用として開発した木炭ガス発生炉をキハ41006号車に搭載して試験しました。

木炭自動車は広く普及しましたが、不完全燃焼ガスを得るには なにも高価な木炭を使用しなくても、国鉄はもっと良い素材に目を付けました。
それは蒸気機関車から得られるシンダという石炭が不完全燃焼した粉で、蒸機の煙室を掃除すれば多量に得られる粉塵ゴミです。
戦局が悪化して、さらにガソリンの入手が困難となってきたため、昭和16年(1941年)からはキハ41000形へのシンダガス発生炉の搭載が本格的に始まりました。

絵の状態がそれですが、1端側の運転席脇にガス発生炉を設置しており、前面両脇には通気管が立ち上がっています。
代燃ガス車は非力なうえメンテナンスが大変でしたが、100両近く改造されて頑張って運用したそうです。
ただ キハ40000形は設置スペースの関係で、キハ42000形は出力の関係で搭載は見送られました。

キハ41200形 天然ガス動車 青色 公式側トキ900形トキ5317号車 ガス輸送車 非公式側

戦後になっても国内の燃料事情は すぐには改善せず、気動車は連結器の強度が低いので客車代用にするにも制約があって、倉庫に使われるなど哀れな日々を過ごしていました。
ただ、戦時・戦後混乱期でも地域によっては比較的入手しやすい燃料がありました。天然ガスです。
日本では天然ガスは千葉や新潟で多く産出します。
天然ガスならガソリンの代用とするのは容易で、昭和16年(1941年)から千葉県の木次線で天然ガス動車の活躍が始まり、戦後になって千葉・新潟・山形地区で本格的にガスカーの運転が始まりました。

ただ、ガソリンの代わりになると言っても、天然ガスは値段が高かったうえ、燃焼効率はガソリンの8割程度で、沢山ガスボンベを積まねばならず、その充填にも時間が掛かり、漏れると爆発の危険もあるなど難点も多いいです。
戦後の当時としては何としても動力車を確保したかったので、12両が天然ガス動車に改造されてキハ41200形に形式変更されました。

外観の特徴としては床下の温気暖房装置空気温め器を撤去し、放熱器を車端部に移設して、空いたスペースにガスボンベの束を設置しました。
ボンベと言ってもプロパンガスボンベのような液体ではなく、気体の状態なので何本もボンベが必要という訳です。
ちなみに、ご家庭のプロパンガスはマイナス42度もしくは8.5気圧で液化し、カセットコンロのブタンガスはマイナス0.5度もしくは2.1気圧で液化して体積が250分の1になるので、貯蔵・運搬が簡単です。
天然ガスを液化するにはマイナス162度に冷却する必要があり、それさえクリアすれば体積は600分の1になります。

右隣の貨車は、千葉地区で活躍したガス輸送車で、茂原のガス会社から車両基地まで天然ガスを輸送するためのものです。トキ900形無蓋車を改造しました。
絵は写真の残されているトキ5317号車のものですが、用途や運用を考えると何両か改造されたと思われ、また、新潟地区でもトキ900形を改造した別形態の専用車が用意されたそうです。

キハ06形 機械式気動車 赤色 非公式側キハ04形 機械式気動車 青色 非公式側キハ05形 機械式気動車 冷却水装置送風機搭載車 赤色 公式側キハ04形 機械式気動車 冷却水装置送風機搭載車 赤色 非公式側

戦後の荒廃が落ち着きだしたころ、75HPディーゼルエンジンがトレーラーバスに使われ始めました。
このエンジンは元々陸軍の牽引車用に開発されたものの発展型で、DA55形として日野ヂーゼル工業で量産されました。
国鉄はこのエンジンに目を付け、出力はGMF13に劣るものの 性能が安定していて 念願のディーゼル動車が実現できるため、国鉄独自開発のディーゼル機関が実用化されるまでの繋ぎとしてキハ41000形に導入しました。
このDA55形を搭載したキハ41000形は、戦前の試作ディーゼル動車に続いてキハ41500形を名乗り、戦前の2両も改造されて昭和25年(1950年)以降、総数93両が生まれました。
さらに同仕様で昭和26年(1951年)に新製でキハ41600号車〜が50両増備されました。

国鉄としてはガソリンよりも安く、爆発の危険の低い燃料が使えるディーゼル機関を、気動車の本命動力として戦前から開発していました。
DA55形は、確かに入手しやすいエンジンでしたが、やはり出力不足に悩まされ、国鉄正式ディーゼルエンジンの登場が待たれました。
そして、念願の鉄道用国産ディーゼルエンジンは、150HPのDMH17として結実してキハ42000形に搭載されますが、キハ41000形用としてはそれの気筒数を減らした110HPのDMF13が開発されました。
このDMF13は、昭和27年(1952年)から天然ガス動車のキハ41200形を手始めに、一旦DA55を搭載したキハ41500形にも搭載改造されて、キハ41300形36両が生まれました。

とは言うものの、せっかくDA55形化されたばかりなのに、さらに機関を換装するのは無駄です。
ちょうどそのころ、日野がDA55形を改修して出力を75HP→105HPとする手法を生み出したこともあり、昭和30年(1955年)にキハ41500形のうち49両は、そのままDA58形エンジン化されてキハ41400形となりました。
戦後製のキハ41600号車以降は DA55を搭載したままでした。

昭和32年(1957年)には ややこしくなっていた気動車の改番が行われ、DMF13搭載のキハ41300形はキハ04形に、DA58搭載のキハ41400形はキハ05形に、DA55搭載のキハ41600号車以降はキハ06形にそれぞれ整理されました。

その後のキハ04系は幾多の変遷を経て昭和44年(1969年)まで活躍します。
まず目につくのは昭和34年(1959年)からの塗装の変更で、車体が朱色とクリーム色の塗り分け、床下機器は灰色になりました。

キハ04形とキハ05形は、エンジン冷却システムを自然通風から送風機による強制通風に改めました。
この新式のラジエーターを搭載するには 温気暖房用の空気温め器の撤去が必要ですが、もともとこの温気暖房は効きが悪く、撤去されていた車両が多かったそうです。
しかし機関車牽引の客車に比べて暖房が無いのは問題で、国鉄ではドイツで開発されたウェバスト暖房機を導入しました。
このウェバスト暖房機は 言ってみれば家庭の石油ファンヒーターのようなもので、軽油を燃料として床下の四角い箱に収められた円筒形のファンヒーターがダクトに温気を送ります。
これも温気暖房ですが、日本ではライセンス生産したメーカー名を冠して「三国ウェバスト」とか「五光ヒータ」と呼ばれていました。
絵の右端のキハ04形がその仕様で、車内のダクト装置は 旧来のものをそのまま使っているはずです。

キニ05形 荷物ディーゼル動車

キニ05形 荷物ディーゼル動車 非公式側

キニ05形は昭和35年(1960年)にキハ05形50番代を9両を荷物車に改造したもので、大元の種車は戦後製のキハ06形で、荷重は6t。
四国管内で昭和41年(1966年)まで活躍しました。

キクユニ04形 郵便荷物気動制御車

キクユニ04形 郵便荷物気動制御車 非公式側

昭和30年代になると新形の液体式ディーゼルカーが続々増備されて、ローカル線の客車列車を置き換えてゆきました。
そこで当初問題となったのは、郵便・荷物輸送です。
新形気動車は とりあえず旅客用が増備され始めた段階で、まだ郵便荷物車にまで手が回らない状態でした。
しかたないので 各線区では数本の客車列車を残したり、気動車の客室を仕切って臨時の荷物室としたり、線区によっては気動車に郵便荷物客車や緩急車を牽かせて荷物車代用とする所もありました。

そんな中、両毛線ではキユニ16形が配備されるまでの繋ぎとして、キハ04形を改造したキクユニ04形を1両導入しました。
改造ではキハ04 30号車のエンジンを撤去し、車内は6.5tの荷物室と3.5tの郵便室・区分棚を設けました。
単なる被牽引車ではなく、両運転台で液体式気動車用の制御機器や小形密着自動連結器を装備しているので、気動車列車の先頭に立てます。
キクユニ04形は 昭和36年(1961年)〜昭和40年(1965年)の短期間、キハ17系に繋がれて活躍しました。

キハ40000形 四輪ボギーガソリン動車

キハ40000形 四輪ボギーガソリン動車 茶色 公式側キハ40000形 四輪ボギーガソリン動車 青色 非公式側

キハ40000形はキハ41000形の派生形式で、勾配線区や貨車1両牽引を目的として、車体を短くして定員を109人→75人に減じて軽くし、代わりに牽引力を高めようとして開発されました。
製造年は昭和8年(1933年)で、計30両です。
エンジンはキハ41000形と共通ですが、ギア比を大きくして、尚且つ動台車はチェーン連動による2軸駆動が試みられました。また、撒砂装置も装備しています。
この2軸駆動については明確な図面が残されているのですが、なぜか構造的に2軸駆動は嘘というデマが流されています。
資料を読むと、落成時は準備工事はされていて、1年後の昭和9年(1934年)にチェーン(3列)とスプロケットの開発が完了したことがわかります。
もっとも、通常の運用には無理して2軸駆動にする必要もないと思われ、どの程度実際に使われたのか?晩年までちゃんとチェーンを整備して2軸駆動を維持していたのかは疑問です。

キハ40000形は、エンジン冷却系も強化されています。
キハ41000形もキハ40000形もラジエーターの構成部品は共通ですが、キハ41000形の放熱器素という部品は計20個なのに対し、キハ40000形は計24個に増やされています。
キハ40000形の場合は床下が狭いので放熱器は放熱器素6個のものを4ヶ所分散配置とし、温気暖房用の空気温め器も、折りたたまれた窮屈な設計です。

キハ40000形 四輪ボギーガソリン動車 冷却装置改造 青色 公式側

で、実際に勾配区間でテストしたところ オーバーヒートしてしまい、急遽 放熱器素を計32個に増やす検討がなされ、これでは床下に収まらないので屋根上に上げる事としました。
床下では通風が悪いからというより、搭載スペースが限界だったから仕方なく屋根に上げたようです。
この改造では、放熱器素8個の放熱器4台を前灯を挟むように配置する案と、前灯を下げて放熱器素16個の大形放熱器を2台掲げる案があり、後者が採用されたようです。
ただ、戦後の写真から察するに、この改造は全車に及んだわけでは無いようです。
普通の線区で運用する分にはそこまでする必要もなく、貨車1両程度の牽引も問題なかったことでしょう。

キサハ40800形 付随気動車

キサハ40800形 付随気動車 青色 非公式側

キハ40000形は戦時中に15両が標準軌化されて大陸に渡ってしまいました。
大陸に渡った車両は、戦後も末永く活躍していたようです。
その他、戦後まで生き残ったキハ40000形の多くは地方私鉄に譲渡されて、国鉄に残ったのは2両のみ。
国鉄はこれのエンジンを降ろして、付随気動車キサハ40800形が誕生しました。
絵は まだ転用初期の状態で、のちに車軸発電機を装備したりして本格的な付随気動車となり、昭和32年(1957年)の改番ではキサハ04形0番代として昭和41年(1966年)まで活躍しました。

キハ42000形/キハ07形 機械式気動車

キハ42000形 気動車 戦前 公式側 キハ42000形 気動車 公式側キハ42000形 気動車 金太郎塗り 公式側キハ07形 機械式ディーゼル動車 公式側 キハ07形 機械式ディーゼル動車 0番代晩年 公式側キハ07形 200番代 液体式ディーゼル動車 非公式側

キハ42000形気動車は都市圏の通勤輸送に使用するため、キハ41000形を大形化した設計で、昭和10年(1935年)に登場しました。
機関は、キハ41000形のGMF13形ガソリンエンジンの気筒数を増やしたもので 150馬力のGMF17形とし、当時流行の流線形(たまご形)車体となりました。
戦後にDMF17形ディーゼルエンジンに換装(42500番代)されるまでは、さまざまなエンジンや変速機も試され、床下にバラエティーがあります。
戦前に65両製作され、うち10両が外地へ。
戦後は、液体式気動車開発までの繋ぎとして、20両が増備されました(42600番代→キハ07 100番代)。戦後製は埋め込み形ヘッドライトが特徴です。

昭和32年(1957年)にはキハ07形に形式変更され、続いて昭和34年(1959年)には塗装変更が行われ、青3号+黄褐色2号、床下黒の塗り分けが、朱色4号+クリーム4号、床下ネズミ色3号になりました。

機械式気動車の弱点は なんと言っても総括制御が出来ない事。
いわゆる自動車と同じ原理ですので、重連運転する場合は各車に運転士が必要です。運転士の変速タイミングが合わないと 激しい衝撃が起きます。
気動車の総括制御化の研究は 戦前に取り掛りましたが、戦後に液体式変速機が実用化されました。
昭和35年(1960年)からは、戦後製のキハ07 100番代のうち15両を 総括制御化改造する工事が行われ、液体式変速機に載せ換えてキハ07 200番代となっています。連結器も簡易連結器から小形密着自動連結器に交換されました。
この200番代は、他の機械式気動車が昭和41年(1966年)を目処に全廃されたのに対して、昭和45年(1970年)まで生き延びています。

ところで、機械式気動車は、昭和38年(1963年)頃に呼称上の前後を反転しており、エンジンのある方が後位だったのが、エンジンのある方が前位になっています。
機械式気動車の最晩年の変化であり、形式図も戦前のものを使い続けているので、少しややこしいですね。

キユニ07形 機械式 郵便荷物ディーゼル動車

キユニ07形 機械式 郵便荷物ディーゼル動車 公式側

キユニ07形は、四国の客車列車を気動車に置き換える際に 不足した郵便荷物気動車をまかなうために、昭和35年(1960年)にキハ07形から4両が改造されました。
当初は液体式変速機に載せ換える予定がそれは叶わず、主にトレーラーとして気動車列車の最後尾にぶら下がっていたようです。

五日市鉄道 キハ501 ガソリン動車/東野鉄道 キハ501号 機械式気動車/茨城交通 ケハ502号 機械式気動車

五日市鉄道 キハ501 ガソリン動車 公式側

五日市鉄道が昭和11年(1936年)に導入したキハ501、キハ502は、国鉄キハ41000形にキハ42000形の前頭を合体させたデザインです。
前頭以外は国鉄キハ41000形と同一ですが、五日市鉄道は観光にも力を入れていたので、気動車の容姿にも こだわったのでしょう。
昭和15年(1940年)の南武鉄道との合併後も同地で働き、昭和17年(1942年)には代燃炉を搭載したそうです。

東野鉄道 キハ501号 機械式気動車 公式側茨城交通 ケハ502号 機械式気動車 非公式側

昭和19年(1944年)には南武鉄道が国有化されて、キハ501、キハ502も一旦国鉄籍になりました。
そして戦後にキハ501号車が東野鉄道に、キハ502号車が茨城交通に それぞれ嫁ぎ、日野のエンジンでディーゼル化されて活躍しました。
左絵の東野のキハ501号車は、昭和43年(1968年)の同線廃止まで活躍しました。
右絵の茨城ケハ502号車は後年の姿で、昭和46年(1971年)の茨城交通茨城線の廃止まで活躍しました。一時期は「やまばと」の愛称が付いていたそうです。

東野鉄道 キハ20形 ガソリン動車

東野鉄道 キハ20形 ガソリン動車 公式側

東野鉄道(とーやてつどう)は東北本線西那須野から黒羽(戦前は那須小川まで。)を結んでいた路線で、大正7年(1918年)に開業しました。
開業当時から ごく普通に蒸気機関車が働いていましたが、昭和になると日本車両が各地方鉄道にガソリン動車の売り込みを行い、ここ東野鉄道でも 昭和4年(1929年)にキハ10形2両が活躍を始めました。
キハ20形は その増備として昭和11年(1936年)に1両購入されたもので、同系車に鹿島参宮鉄道のキハ100形や 東武鉄道のキハ204形が存在します。
エンジンは56HPのウォーケシャー6-MSで、当時のガソリン動車では一般的なもの。なお、空気ブレーキは装備していません。
キハ20形は、最晩年にはエンジンを降ろして客車のハ31号車になり、昭和43年(1968年)の路線廃止を迎えました。

キハ03形 レールバス

キハ03形 機械式 ディーゼル動車 非公式側キハ03形 機械式 ディーゼル動車 前灯増設 夏姿 公式側

レールバスとは通常の気動車を投入するのにはもったいない閑散路線向けとして、バスの構造を模して、且つ自動車部品を積極的に活用して造られた安価な気動車です。
この手の気動車は当時 西ドイツでシーネンオムニバスとして成功しており、国鉄の偉い人はこれに目を付けました。
ただ国鉄の閑散線区でもラッシュ時には混雑する事があり、定員にまったく余裕のないこの手の車両には当初から懐疑的な意見も多く、説得材料として普通の気動車よりも安上がりを謳い文句としたため、日本国鉄のレールバスは 設計寿命を削ってでも極力安価にすることが求められました。

国鉄のレールバスは、まずキハ10000形1次車としてキハ10000〜10003号車が昭和29年(1954年)に日の目を見ました。
1次車は試作車の意味合いが強く、これを閑散路線の多い北海道への投入を見込んで改良されたのが昭和30年(1955年)製の2次車キハ10004〜10011号車です。
続けて2次車の運用実績を基に車内のレイアウト等を変えたのが3次車で、キハ10012〜10022号車が寒地向け、キハ10023〜10028号車が暖地向けとして登場しました。

さらに、耐寒性能を強化した北海道向けの完成版として昭和31年(1956年)に登場したのが4次車で、ここで形式が変わりキハ10200形10200〜10219号車が生まれました。
最初から厳重に防寒性能持たせとけば・・・とも思いますが、最初の要求が「安価に。」だったので、足りない分を仕方なく順次追加して解決していった感じです。
昭和32年(1957年)の気動車改番では、1次車4両がキハ01形に、2次車8両がキハ01形50番代に、3次車17両がキハ02形に、4次車20両がキハ03形になりました。

国鉄レールバスの共通仕様として、2軸車で、エンジンは国鉄でも使ってた日野のブルーリボンバス用。変速は機械式。ブレーキは自動車と同じドラムブレーキです。
車体色は特急と同じもので、軽快な感じです。

絵は北海道で活躍したキハ03形で、左が床下カバーやスノープロウを付けた冬仕様。右は床下カバーを外した夏仕様で、さらに前灯を増設した形態です。
床下カバーを外すのはメンテナンスの都合というより、自重をなるべく軽くしてエンジンの負荷を減らしたかったから かもしれません。
これらレールバスも 上に描いたキハ07形と同じく、新製時 動力台車側が後位だったのが、後年 同側が前位となりましたので、形式図等を参照する場合は注意が必要です。

という訳で国鉄のレールバスは、非力さ、寒さ、乗り心地の悪さ、やはり時々積み残しを発生させてしまうなど いくつか問題を残しながらも、全国で活躍したのですが、モデルチェンジを繰り返すバスの部品の供給の問題や、使い勝手の悪さから昭和38〜43年(1963〜1968年)にかけて順次廃車されました。
大体10年程度の生涯で、設計寿命よりも短いと思います。

同様のレールバスは私鉄でも活躍しましたが、特に南部縦貫鉄道は うまく運用し、同線の廃線まで活躍をつづけました。
また、昭和57年(1982年)には富士重工で新世代のレールバス「LE-Car」が開発され、国鉄末期の第三セクター鉄道の需要をうまく取り込み量産されましたが、使ってみると やはり鉄道車両として物足りず、増備は普通の気動車となりました。

キハ52形 100番代 一般形ディーゼル動車

キハ52形 100番代 一般形ディーゼル動車 一般色 公式側キハ52形 100番代 一般形ディーゼル動車 一般色 非公式側

キハ52形 100番代 一般形ディーゼル動車 首都圏色 公式側キハ52形 100番代 一般形ディーゼル動車 首都圏色 非公式側

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

キハ52形一般形気動車は、キハ20系列の勾配線区用2エンジン車として、昭和33年(1958年)に登場しました。
エンジンの仕様により0番代と100番代があり、合計112両が製作されました。

エンジンを2基収めるため、車体は他の20系列より600mm長くなっています。
キハ52は2機関で力がある事が幸いして、他の20系が続々と廃車される中、JR化以降も長い事各地で活躍しています。

絵は左から公式側、非公式側。


ところでキハ52と言えば貨車の牽引ですね。ちょっと宇田さんの作品を 加工させて頂きました。
2エンジンのキハ52は馬力があるので、貨車の牽引には うってつけです。

キハ52形 100番代+越後交通 ワラ1形 有蓋車

キハ20系が登場した当時は まだ支線にも貨物取扱駅が多く、それらの線区では週に数回しか貨車の来ない所もありました。
これでは貨物列車を走らす需要がないので、あらかじめ混合列車を設定しておきます。
で、蒸気機関車が気動車化されると、当然気動車が貨車を牽く事になります。

時代が下ってキハ45系列が登場する頃になると、もう支線の貨物取扱駅はどんどん削減されたので、気動車+貨車はキハ10、20系列が似合いますね。

ちなみに、気動車で客貨車を牽引する場合は、気動車に使用している密着式小形自動連結器の強度の関係で、換算両数5.0。客車で現車1両、貨車で現車2両までです。
勾配25パーミル以上の線区では さらに制限され、また、エンジン1台の場合は牽引力の関係で15パーミル以下の平坦線で換算両数2.5。貨車現車1両しか牽けません。
つまり、キハ20形1両なら貨車1両までのところ、キハ52なら貨車2両を牽けます。でも気動車が何重連になろうとも、連結器強度の関係でやっぱり貨車は2両までです。
では、たまたま駅に発送貨車が3両あったらどうするのかというと、・・・翌日の便に連結すれば良いのです。そんな、おおらかな時代の はなし。

※ 連結器の強度について。
連結器には色々な種類がありますが、国鉄で使用した連結器(新品)の破断荷重は以下の通り。
高速貨車用密着自動連結器 約200t、自動連結器 強化形 180t以上、新幹線用密着連結器 161.5t、自動連結器 並形 約150t、密着連結器 138t、客車用密着自動連結器 135t、気動車用密着式小形自動連結器 81t。
つまり、気動車用の連結器は軽量化のため肉を削いでて、並形自動連結器の半分の強度しかありません。
機械式気動車に使われた簡易連結器は、もっと弱いです。

キワ90形 貨物ディーゼル動車

キワ90形 貨物ディーゼル動車 1号車 公式側キワ90形 貨物ディーゼル動車 2号車 非公式側

国鉄の動力近代化が進展し、各地のローカル線に気動車列車が増発されるようになった昭和30年代初頭、問題となったのが閑散線区の貨物輸送でした。
蒸気機関車牽引の混合列車を気動車化した場合は 上項のように気動車に貨車を牽かせましたが、最大現車2両まで。
1日にそれ以上の貨物があったとしても、何本も気動車混合列車を設定するわけにもいかず、普通の貨物列車を運転する事となりますが、たった数両の貨車のために貨物列車を運転していてはコストが嵩みます。
また、混合列車は貨車の入換をしている間、無意味な長時間停車を乗客に強要する事となるため、もはや時代にそぐいません。

普通ならここで、「小さなディーゼル機関車を開発すれば・・・。」となりますが、いざ機関車となると、必ず汎用性を持たせようと欲が出て、高価なものになる事は目に見えています。
そこで当時の動力分散化マニアの技師長を中心に考え出されたのが、「貨車に動力を付けたものを開発してみてはどうか?」で、「試しに作ってみよう。」という事になりました。開発はコンテナ電車電車の絵 その6を参照。)と同時信仰でした。
貨物は小口扱貨物を積む事として、有蓋ディーゼル動車 キワ90形誕生と相成りました。
仮に こいつが実用にならなくても、いざとなれば車両メーカーの吊るしの小形ディーゼル機関車を 適当に正式化して導入すれば済みます。

小口扱貨物とは貨車1車に満たない貨物を運ぶシステムで 小荷物と似ていますが、貨物の量を比べると 小荷物がダンボール1箱とかを国鉄窓口に預けるのに対して、小口扱貨物はダンボール100箱とか預ける感じです。
どちらの積荷も列車を乗り継いで目的地まで中継され、車掌が荷扱いをします。
小口扱貨物は 宅扱とか急行便とかの列車で拠点間輸送されますが、末端のローカル線では有蓋緩急車に積み替えられて旅をします。
荷の少ない地方ローカル線では貨物の量も減るので、1両の有蓋緩急車に手小荷物や郵便物と混載する事も行われていました。
この有蓋緩急車と機関車を融合したのがキワ90形です。

開発に当たっては 小形機関車より高価になっては意味がありませんから、安価に仕上げる事が大前提で、昭和35年(1960年)に2両が完成しました。
荷重は7tで、当時量産中のワフ29500形有蓋緩急車が5t積ですから、必要充分な容量ですね。
最高速度65km/h。自車7t満載状態であってもワム積車2両(50t)を牽引して10パーミル勾配で35km/h、15パーミル勾配で21km/hの均衡速度で走れる設計とし、平坦線ではさらに数両の連結が可能です。
エンジンは 当時の気動車用を1台積んでるのですが、普通の気動車より遥かに車体が軽いですし、連結器も普通の自動連結器ですから、2両以上引っ張れるという訳です。

計画当初は関東及び中部支社で試用するつもりが、実際は南延岡機関区に配置されて各種試験に従事し、改良後に宮崎機関区に転属して妻線で長期試運用が行われました。
妻線(佐土原〜杉安 19.3km)では貨車現車4〜5両牽引して1日3往復の貨物を・・・3往復!?

調べてみると妻線は1960年代を通して年10万トン前後の貨物がありました。
終点の杉安駅の専用側線からの木材やチップですね。
単純に365で割ると1日当たり273t、17t積みトラが1日16車です。普通に機関車牽引の貨物列車を1往復運転したほうが良いに決まっています。

キワ90形を導入するのは 1日貨車2両程度あるかないか、あっても数両の線区を想定していたはずです。
貨物が沢山あるのに、こんな非力な“機関車”を押し付けられた現場は 当惑したと思われます。現場は戦車を望んでいたのに、ヘッツァーが来るよりもひどいかもしれません。
現場としては何とか物にしようと努力しますので、結果としてキワ90形は性能の数倍の仕事をさせられました。

一部にある「キワ90形は使い物にならなかった。」という話は、ここから来ています。使用方法が間違っているのですから、それをもってキワ90形は欠陥品と言うのは誤りです。
だとしたら、他に適当な実験線区は無かったのでしょうか?
その後の周辺事情を書きますと・・・。

昭和43年(1968年)。国鉄諮問委員会が提出した赤字83線に妻線の名が刻まれる。
昭和44年(1969年)。日本国有鉄道財政再建促進特別措置法により、全国2868駅あった貨物取扱駅を1000駅に集約する・・・要するに1日数百トン程度の貨物駅は廃止という方針が示される。キワ90 2号車をキヤ90形に改造。
昭和46年(1971年)。キワ90 1号車廃車。
昭和47年(1972年)。杉安駅の貨物を高鍋駅までトラック輸送する事として、妻線全線の貨物営業を廃止。
昭和49年(1974年)。小口扱貨物の制度が廃止されて、小荷物に一本化される。
昭和55年(1980年)。日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(旅客輸送密度1日4千人未満 且つ貨物輸送密度が1日4千トン未満の線区の廃線の方針。)で、妻線が第1次特定地方交通線(営業キロが30km以下の盲腸線で、旅客輸送密度が1日2千人未満の線区が該当。)となる。
昭和59年(1984年)。ヤード集結輸送の全廃。妻線廃止。

そう。肝心のローカル貨物列車が次々と廃止されては、どう足掻いてもキワ90形の実用化は不可能でした。
この事態は、キワ90形を構想した当時には 誰にも予測しようが無かったと事だと思われます。
ただ、キワ90 2号車は手頃な仕様が幸いして、職用車キヤ90形(のちにヤ390形)に改造されて房総線の電化工事でしばらく働きました。

キハ58形 400番代 急行形ディーゼル動車

キハ58形 400番代 急行形ディーゼル動車 公式側キハ58形 400番代 急行形ディーゼル動車 非公式側

キハ28形 300番代 急行形ディーゼル動車

キハ28形 300番代 急行形ディーゼル動車 公式側キハ28形 300番代 急行形ディーゼル動車 非公式側

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

誰もが知っているキハ58系気動車は 昭和36年(1961年)から製造の急行形気動車です。
キハ58形が2エンジン車。キハ28形・キロ28形が1エンジン車です。
その中で昭和38年(1963年)から製造のキハ58 400番代、キハ28 300番代、キロ28形100番代は、長編成対応のため電磁自動空気ブレーキ化等の対策を行った車両群で、中期形に相当します。
この改良により、従来最大11両もしくはエンジン17機に制限されていた連結両数が、最大15両もしくはエンジン23機まで制御する事が可能となりました。
ちなみに初期車も のちに同様の改造が行われています。

キロ28形 100番代 急行形ディーゼル動車(グリーン車)

キロ28形 100番代(グリーン車) 急行形ディーゼル動車 公式側キロ28形 100番代 急行形ディーゼル動車(グリーン車) 非公式側

キロ28形 100番代 139〜195 急行形ディーゼル動車(グリーン車)浅屋根車

キロ28形 100番代 139〜195 急行形ディーゼル動車(グリーン車)浅屋根車 公式側キロ28形 100番代 139〜195 急行形ディーゼル動車(グリーン車)浅屋根車 非公式側

キロ28形2300番代 2301〜2308 急行形ディーゼル動車(グリーン車)

キロ28形 2300番代 2301〜2308 急行形ディーゼル動車(グリーン車) 公式側キロ28形 2300番代 2301〜2308 急行形ディーゼル動車(グリーン車) 非公式側

キロ28形 2300番代 2301〜2308 急行形ディーゼル動車(グリーン車) ユニットサッシ化改造車

キロ28形 2300番代 2301〜2308 急行形ディーゼル動車(グリーン車) ユニットサッシ化改造車 公式側キロ28形 2300番代 2301〜2308 急行形ディーゼル動車(グリーン車) ユニットサッシ化改造車 非公式側

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

キハ58系気動車のグリーン車であるキロ28形は、冷房装置の関係で系列の中でもバラエティーが多いいです。
まず、100番代は長編成対応のキハ58系中期形に相当し、139号車からは冷房装置設置を考慮して 屋根が浅いタイプになっています。
300番代はキハ58系列の後期車のうち暖地向けにあたり、他車に冷房用電源を供給できるようにして2300番代に。
500番代・2500番代は、同様に寒地向け。
2300番代の2309号車、2500番代の2508号車からはキハ65形と同じ車体断面に。
末期は番代を問わず、下降式窓の腐食のためユニットサッシ化改造等がされています。

キハ45系 近郊形ディーゼル動車

キハ45形 近郊形ディーゼル動車 一般色 公式側キハ45形 近郊形ディーゼル動車 一般色 非公式側

キハ23形 近郊形ディーゼル動車 一般色 公式側キハ23形 近郊形ディーゼル動車 一般色 非公式側

キハ53形 近郊形ディーゼル動車 一般色 公式側キハ53形 近郊形ディーゼル動車 一般色 非公式側

キハ53形 近郊形ディーゼル動車 首都圏色 公式側キハ53形 近郊形ディーゼル動車 首都圏色 非公式側

キハ23形 近郊形ディーゼル動車 JR西日本広島支社色 公式側キハ23形 近郊形ディーゼル動車 JR西日本広島支社色 非公式側

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

キハ45系気動車は昭和41年(1966年)から製造の近郊形気動車です。
一般形キハ20系列と通勤形キハ35系列の中間の輸送力を狙って製造されました。
ただ、国鉄の動力近代化の最終仕上げの時期の作品で 必要数が元々少なく、また、大都市の近郊電車並みに座席間隔を狭まめてしまったため、キハ20系より乗り心地が悪くて嫌われ、意外と早く姿を消しています。
キハ45形は片運転台の1エンジン車、キハ53形は両運転台の2エンジン車、キハ23形は両運転台の1エンジン車です。

絵は上段からキハ45一般色、キハ53一般色、キハ23一般色、キハ23JR西日本広島支社色。

キハ181系 特急形ディーゼル動車

キハ181形 特急形ディーゼル動車 公式側キハ181形 特急形ディーゼル動車 非公式側

キハ180形 特急形ディーゼル動車 公式側キハ181形 特急形ディーゼル動車 公式側

キロ180形 特急形ディーゼル動車(グリーン車) 公式側キロ180形 特急形ディーゼル動車(グリーン車) 非公式側

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

キハ181系特急形気動車は、キハ82系特急形気動車の出力増強版として昭和43年(1968年)に登場しました。
キハ82系は各地で好評をもって大活躍していましたが、いかんせんエンジンが非力で、そのままでは急勾配山岳線区に投入する事は難しく、エンジン2機搭載のため効率も悪かったので、大出力エンジン1基搭載の本系列が開発されました。
キハ181系は 基本的には試作車のキハ91系の足廻りに、キハ82系の客室を乗せたもので、中間車の自然通風式屋上ラジエーターが特徴です。最高速度120km/h。
ただ、昭和43年(1968年)10月のダイヤ改正・・・いわゆるヨンサントウに無理やり間に合わせるため まだ試験途中のキハ91系をベースにしてしまったため、初期トラブルが多発してしまいました。
特に、外観上カッコイイ屋上ラジエーターが鬼門でした。
そもそも屋上は エンジン排気やクーラーの放熱もあるので 冷却には不向きです。しかもキハ181系は、急勾配線区=トンネルが多い区間での運用のために開発されたので、エンヤコラ低速で走行中 トンネル内で熱がこもり、オーバーヒートしてしまうのです。
屋上ラジエーターは、エンジン出力の節約と騒音防止のため導入されたようですが、無駄に重く、結局失敗したため、泥縄式に床下に強制通風式ラジエーターを追加して、さらに自重が増加しています。
結局、キハ181系は当初見込まれた山岳線区での充分な活躍は出来ず、それらの線区が電化されると、キハ82系の増備という形で山陰や四国に移り、平穏に活躍しています。
絵は、トラブルを解消し、性能も安定した頃の姿。
JR西日本 特急はまかぜの雄姿は こちら

キハ65形 急行形ディーゼル動車

キハ65形 急行形ディーゼル動車 公式側キハ65形 急行形ディーゼル動車 非公式側

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

キハ65形は昭和44年(1969年)に登場の急行形気動車です。

当時、国鉄の気動車急行列車はキハ58系が使われていましたが、当初非冷房であったキハ58系も 時代の要求でグリーン車から順次冷房改造されていきました。
冷房用電源は 主力のキハ58は床下が狭くて発電機を搭載できないので、1エンジン車のキハ28、キロ28に搭載し、1台で3両分の発電能力を持たせました。
ところが、勾配線区や幹線では1エンジン車の比率が高まると編成出力が確保できず、のろのろ運転となってしまいます。

そこで求められたのが大出力エンジンを搭載し、なおかつ冷房用発電機を搭載したキハ65形でした。
エンジンはキハ58が180ps×2なのに対し、500ps×1となっております。
車体デザインは同時期の12系客車と同等のものとなっています。

キハ65系は以上のような誕生経緯から 当初よりキハ58系列の増結用前提で考えられており、系列中にグリーン車等は作られず 孤高な存在で、中央本線以西にバラ撒かれて配置されました。
キハ58系列の後継車両としては キハ66系が考えられたようですが、こちらは挫折しています。

キハ40形 500番代 一般形ディーゼル動車

キハ40形 500番代 521〜553号車 一般形ディーゼル動車 公式側キハ40形 500番代 521〜553号車 一般形ディーゼル動車 非公式側

キハ40形 500番代 554〜594号車 一般形ディーゼル動車 公式側キハ40形 500番代 554〜594号車 一般形ディーゼル動車 非公式側

キハ40形 2000番代 一般形ディーゼル動車

キハ40形 2000番代 一般形ディーゼル動車 公式側キハ40形 2000番代 一般形ディーゼル動車 非公式側

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

キハ40系は、キハ10系やキハ20系の老朽更新のため、昭和52年(1977年)から製作された一般形気動車です。
基本的には従来の一般形気動車のコンセプトを継承し、そこに当時の国鉄の設計流儀を織り込んだものとなっています。つまり、いろいろな装置・設備を盛り込んで製作しました。
お客さんや現場には好評をもって迎えられたものの、運転感覚が従来の気動車と少し違い、一部運転士には好かれなかったようです。
全体的に頑丈なつくりなので、JR化後にエンジンを換装したりして 今でも現役です。

キハ40系は投入線区により細かく番代区分されています。
キハ40形は両運転台で、100番代は北海道向け、500番代は寒地向け、2000番代は暖地向けです。
北海道向けや寒地向けは 台車バネが凍りつくのを防ぐため、空気バネ台車となっています。
その他にも縦トイの処理の仕方等、いろいろなバリエーションがあります。

キハ48形 0番代 一般形ディーゼル動車

キハ48形 0番代 一般形ディーゼル動車 公式側キハ48形 0番代 一般形ディーゼル動車 非公式側

キハ48形 1000番代 一般形ディーゼル動車

キハ48形 0番代 一般形ディーゼル動車 公式側キハ48形 0番代 一般形ディーゼル動車 非公式側

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。
キハ48形はキハ40系の片運転台車で、0番代は暖地向け、300番代は北海道向け、500番代は寒地向けで、トイレ無しは番代に1000がプラスされます。
キハ48形の0・300・1000・1300番代は両数が少なく希少車両ですが、編成に彩りを与えてくれる存在ですね。

キハ47形 近郊形ディーゼル動車

キハ47形 0番代 近郊形ディーゼル動車 公式側キハ47形 1000番代 近郊形ディーゼル動車 非公式側

キハ47形 1000番代 近郊形ディーゼル動車 公式側キハ47形 0番代 近郊形ディーゼル動車 非公式側

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

キハ47形はキハ40系の近郊形片運転台車に当たります。
キハ40形はいかにもローカル線用という感じでしたが、こちらは都市近郊用です。
絵は上段が公式側、下段が非公式側で、屋根上タンク(トイレ)のあるのが0番代、無いのが1000番代です。

キハ40形 2000番代 一般形ディーゼル動車 JR西日本エンジン換装車

キハ40形 2000番代 一般形ディーゼル動車 JR西日本エンジン換装車 公式側キハ40形 2000番代 一般形ディーゼル動車 JR西日本エンジン換装車 非公式側

キハ40 2000番代 一般形ディーゼル動車 JR西日本エンジン換装車 広島支社色 公式側

キハ40形 2000番代 一般形ディーゼル動車 JR西日本延命工事車

キハ40形 2000番代 一般形ディーゼル動車 JR西日本延命工事車 公式側キハ40形 2000番代 一般形ディーゼル動車 JR西日本延命工事車 非公式側

キハ40 2000番代 一般形ディーゼル動車 JR西日本延命工事車 広島支社色 公式側

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

当初、車体規模に対して出力が小さいのが悩みのキハ40系でしたが、ここにJR西日本のキハ40形更新車の例を示します。
JR西日本のエンジン換装車は、コマツディーゼルのSA6D125H-1Hを装備。出力が220PS→330PSになりました。

そしてJR西日本は、元々丈夫な国鉄形車両に対し 寿命を延伸するための大規模な更新修繕を施す事としました。
延命工事車とか体質改善工事車と呼ばれるそれらは 徹底的な腐食対策(雨水が溜まりやすい袋状の部分を無くし、ステンレス鋼を多用。)が施され、のっぺりとした外観が特徴です。
車体構体以外にもアコモデーションの更新などで 何十年も使い続け、新車の投入経費を抑えようというコンセプトです。
絵は左から公式側、非公式側。

キハ47形 近郊形ディーゼル動車 JR西日本ワンマン仕様更新車

キハ47形 0番代 近郊形ディーゼル動車 JR西日本ワンマン仕様更新車 公式側キハ47形 1000番代 近郊形ディーゼル動車 JR西日本ワンマン仕様更新車 非公式側

キハ47形 1000番代 近郊形ディーゼル動車 JR西日本ワンマン仕様更新車 公式側キハ47形 0番代 近郊形ディーゼル動車 JR西日本ワンマン仕様更新車 非公式側

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

キハ47形も、ベンチレータ撤去・戸袋窓埋め・窓サッシ交換などの外観上の変化で、さらに洗練された姿に。単色塗装が似合います。
絵は上段が公式側、下段が非公式側で、屋根上タンク(トイレ)のあるのが0番代、無いのが1000番代です。

キハ40形 8000番代 一般形ディーゼル動車 JR九州エンジン換装車

キハ40形 8000番代 一般形ディーゼル動車 JR九州エンジン換装車 公式側キハ40形 8000番代 一般形ディーゼル動車 JR九州延命工事車 公式側

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

これはJR九州のエンジン換装車の例で、JR西日本の車と同じくSA6D125HE-1形エンジンを装備した姿。
JR九州の場合は番代が変更され、キハ40形 2000番代→8000番代に。

絵は左右とも公式側で、右は屋根上の機器を撤去した体質改善車。
雨漏りの大敵である屋上通風器は 車輛の使用環境によっては必ずしも必要ではなく、また屋上にあった水タンクは、トイレの節水機能の進化で小形化して 床下に収まりました。


電車の絵は こちら  蒸気機関車の絵は こちら  ディーゼル機関車の絵は こちら  電気機関車の絵は こちら  貨車の絵 その1は こちら  貨車の絵 その2は こちら  貨車の絵 その3は こちら  貨車の絵 その4は こちら  貨車の絵 その5は こちら  貨車の絵 その6は こちら  貨車の絵 その7は こちら  貨車の絵 その8は こちら  貨車の絵 その9は こちら  貨車の絵 その10は こちら  貨車の絵 その11は こちら  貨車の絵 その12は こちら  貨車の絵 その13は こちら  貨車の絵 その14は こちら  貨車の絵 その15は こちら  貨車の絵 その16は こちら  客車の絵は こちら  小形鉄道車両の絵 その1は こちら  小形鉄道車両の絵 その2は こちら

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