電車の絵



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デハ6310形 三等電動客車 初期形態

デハ6310形 三等電動客車 初期形態 公式側

国鉄の電車は、明治37年(1904年)電化の甲武鉄道の小形車を引く次ぐ形で始まりましたが、10年後には初期の標準車と言える 16メートル級木造車が続々と作られるようになりました。
当時、中央線(万世橋〜中野)と山手線(東京〜赤羽・上野)が600V複架線、新規開業の京浜線(品川〜高島町)が1200Vで電化されましたが、デハ6310形は600V区間、要するに中央・山手線用の電車として大正3年(1914年)から54両が製作されました。
中央・山手線は+と−の架線が併設された複架線なので、集電装置はダブルポール。
電動機は50馬力で、制御機器も600Vをそのまま使う仕様でした。

標準車と言っても まだこの頃は国電黎明期なので電気機器は全部輸入物で、後期車を制作した汽車会社では ドンガラだけ作って国鉄の大井工場で電装工事をしていました。
あれやこれや手探りで改良しながら機器を取付けていたようで、残念ながらこの頃の床下機器の配置の分かる資料が見つかりません。なので私の絵の床下機器配置はテキトウとなっておりますが、ご容赦ください。

ちなみに、国鉄の通勤区間の電車は年代毎に 院線電車→省線電車→省電→国電→E電と呼び名が変わっております。俗な言い方で“ゲタ電”っていうのもありますね。“院電”っていう言い方は戦後以降のようです。
JR後の“E電”は一般には普及しませんでしたが、庶民へのウケは別に関係なく JR部内では1分目ダイヤ区間を現す用語として普通に機能しています。
しかしその呼称も、通勤区間と近郊区間の境界が薄れるとともに 役目を終えています。

デハ6310形 三等電動客車 パンタグラフ・自動連結器化

デハ6310形 三等電動客車 パンタグラフ・自動連結器化 公式側

デハ6310形の大正10年(1921年)以降の姿がこちら。

大正7年(1918年)からは複架線区間を単線カテナリーに変更する工事が始まりました。
複架線とは、水道管等の地中埋設物の電蝕防止のために 集電用と帰電用の2本の架線を併設したものですが、新設の京浜線のように 単架線でも大丈夫な時代になっていました。
いにしえの甲武鉄道から受け継いだ複架線は メンテナンスが大変ですし、ポール集電も高速化に不向きで時代遅れなので パンタグラフ化が進められたわけです。

合わせて大正8年(1919年)からは 螺旋・連環連結器から自動連結器に変更する改造が始まりました。
自動連結器というと大正14年(1925年)の全国一斉取替が有名ですが、実は電車だけ先行していました。
当時の電車は現代のように編成単位の検査ではなく、1車毎に検査していて しかも動力車と付随車で検査周期が違っていたので、頻繁に編成替えが行われていて 螺旋・連環連結器だと面倒くさいのが理由だったそうです。

電車の場合は両数も少なく管理しやすいため、一斉取替ではなく、大正10年(1921年)まで2年間掛けてのんびり交換しました。
これには上記の架線変更工事の進捗が影響していて、車体からはみ出すポールをそのままに自動連結器化すると、連結間隔が縮まってポール同士が接触してしまうので、パンタグラフ化と自動連結器化がセットで行われたわけです。
そんな訳で過渡期には片端ポール+螺旋・連環連結器、もう片方にパンタグラフ+自動連結器なる車両もしばらく活躍しましたが、あるていど編成で管理する事で混用は問題なかったようです。
また、当時の自動連結器のナックル部分には 連環を繋げるように切れ込みが入っていて、車体のバッファー撤去跡にはバッファー受けの木箱を取付けて、相手方の連環連結器とも連結できるようにしていました。

サハ6410形 三等付随客車

サハ6410形 三等付随客車 公式側

関東大震災の年の大正12年(1923年)には 東京〜品川が1200V化されました。
新しめの600V車は、モーターの繋ぎを切り替え出来るようにして1200V区間に入線可能としましたが、デハ6310形は改造が見送られ、当該区間に入線できなくなりました。
さらに大正13年(1924年)に各線が1500Vに昇圧された事で、当時の量産車に比べて出力が劣るデハ6310形は 電装解除 付随車化されて サハ6410形となりました。
また、大形化した他車に合わせて旧型車には扉下に踏み台が付けられました。

サハ6410形は 昭和3年(1928年)の称号改正では サハ6形とサハ19形になりました。
両車の違いは制御電圧の違いで、旧600V車の構造を引き継ぐモハ1形との連結用の制御回路600V車が サハ6形、電動発電機を装備した新しい電動車に連結できるのが 制御回路100Vのサハ19形です。
その後の外観の変化としては、昭和4年度(1930年度)から電車の三等の赤帯は消されました。※客車の赤帯廃止は昭和15年(1940年)。

サハ6形・サハ19形は当時の標準車に比べ小柄ゆえ 転用改造もあり、なかでも24両がワ50000系に改造されました。
※有蓋車に改造後の姿は貨車の絵 その3を参照して下さい。

上毛電鉄

上毛電鉄は、群馬県県庁所在地の前橋と、絹織物の盛んだった桐生を結ぶ地方私鉄です。

群馬・栃木平野部の いわゆる両毛地域は、江戸時代から養蚕・製糸が盛んになり、付帯して絹織物の産地にもなりました。
それら生糸・織物は、利根川の水運を利用して消費地の江戸に運ばれていましたが、幕末には日本にとって有力な外貨獲得手段となりました。
そのため、明治になり日本に鉄道がもたらされると、いち早く高崎線が開業し、明治22年(1889年)には両毛線(両毛鉄道)が全通。東武鉄道も順次路線網を拡充しました。
両毛線は前橋・伊勢崎・桐生・足利・佐野・栃木・小山と主要都市をノコギリの刃のようにジグザグに結びましたが、大胡は取り残されてしまったため、大胡を中心として前橋、桐生、本庄(伊勢崎経由)に路線を伸ばす目的で計画されたのが上毛電鉄です。
実現したのは桐生〜前橋間のみでしたが、ちょうど両市を短絡するかたちとなり、両毛線電化までは所要時間で優位に立っていました。
その後 ご多分にもれず赤字路線となりましたが、群馬県の全面的バックアップにより 今も元気です。

なお、上毛電鉄車の作画は、「片野正巳の昭和鉄道車輌見聞録2」を全面的に参考にさせていただきました。

上毛電鉄 デハ100形 電動客車 デハ101

上毛電鉄 デハ100形 電動客車 デハ101タキ35000形 35t積 ガソリンタンク車 公式側 日石

北関東の旧形電車として有名な上毛電鉄 デハ101。
黄色い電車といえば相模鉄道の旧塗装を思い浮かべる向きも多いと思いますが、上毛電鉄も昔は黄色く塗られていました。

デハ100形は 上毛電鉄開業の昭和3年(1928年)に4両が揃えられました。
川崎車輌製で、当初は3ドアでしたが、戦後に乗務員扉を追加して客用扉を2ドア化する大工事を行いました。
以来4両とも雑多な制御客車と組んで活躍したのですが、昭和50年代に 西武鉄道からの中古車で旧形車を淘汰して 車種統一をする事になり、デハ102とデハ103は廃車に。
しかし当時貨物輸送をしていた上毛電鉄では 下記のデハ81の老朽代換も必要であったため、101号と104号は貨物列車牽引用に残され、昭和54年(1979年)にブレーキ方式を変更、主力の101号についてはギア比を低速側に振って牽引力を増しています。
デハ101、デハ104は貨物運用の他に 朝のラッシュ時に区間運用を担当していましたが、肝心の貨物輸送が昭和61年(1986年)に終了し、予備車のデハ104は廃車に。
デハ101のみ細々と朝の通勤通学輸送と、ごく稀に保線用貨車を牽いて活躍していました。
しかしその通勤通学輸送も平成9年(1997年)に終了。
ところが、この頃になると歴史的希少価値が生まれ、現在でも上毛電鉄の顔として活躍しているのは ご存じの通り。

絵は 貨物列車牽引用に改造後〜昭和63年(1988年)のATS導入前の姿。
後年は、全般検査のたびに小改造が繰り返されているようです。

上毛電鉄 デハニ50形 電動荷物客車 デハニ51+クハ500形 制御客車 クハ501

上毛電鉄 デハニ50形 電動荷物客車 デハニ51+クハ500形 制御客車 クハ501

上毛電鉄 デハニ50形はデハ100形の姉妹車として昭和3年(1928年)に2両が製作されました。
やはりデハニ50形も 戦後にドア配置等を変更されています。

デハ100形とデハニ50形は 車両の向きがなぜか違っていて、パンタの向きがデハは前橋方、デハニは桐生方です。
戦後の電動車の増設貫通路は前橋方なので、4通りの顔が生れました。
また、デハ100形、デハニ50形とも機器配置は全く同じでしたが、時代によって床下機器がちょこちょこ微妙に変化しています。

相棒のクハ501は、昭和5年(1930年)製の元青梅鉄道モハ500形 503。
青梅鉄道国有化後、戦後に ほとんどの電装を解かれた状態で上毛電鉄へ来ました。

上毛電鉄では当初 両頭制御客車として活躍し、のちに桐生方に貫通路を取り付けてデハやデハニと組みました。
クハ501は 廃車後に大胡構内で倉庫として長らく使われていたので、見た方も多いでしょう。

上毛電鉄 デハ80形 電動客車 デハ81

上毛電鉄 デハ80形 電動客車 デハ81タキ3000形 30t積 ガソリンタンク車 日石タキ9900形 35t積 ガソリンタンク車 公式側 日石東武鉄道 ワラ1形 有蓋車

上毛電鉄 デハ81は、大正14年(1925年)製造の 元東武鉄道デハ2形 デハ10です。
この車は上毛電鉄入線後に 車体を大改造されました。
そして いつの頃からか貨物列車牽引用に専従するようになり、昭和54年(1979年)まで活躍しました。

新潟交通 モワ51 四輪ボギー電動貨車

新潟交通 モワ51 四輪ボギー電動貨車 1980年代 公式側

新潟交通モワ51は、新潟電鉄開業時の昭和8年(1933年)に制作された電動貨車です。
新潟電鉄では 貨物輸送量が機関車を用意するほどではないため、貨車の牽引用を兼ねて製作されたものです。
たった1両ですが、検査の際は他の電動客車で貨物を引きました。
以来、昭和57年(1982年)の貨物営業廃止後も 除雪車推進用として残され、平成11年(1999年)の路線廃止まで活躍しました。
なお、モワと名乗っているものの、車体には「荷物」の表記があります。パンタのある方が燕方です。

モワ51は、幸いなことに モハ11・キ116と共に 月潟駅跡に保存されています。
※除雪車推進時の姿は貨車の絵 その8を参照して下さい。

モハ42形 制御電動客車 原形

モハ42形 制御電動客車 原形

モハ42形 制御電動客車 四ドア

モハ42形 制御電動客車 四ドア整備 モハ42形 制御電動客車 四ドア戦時満員

戦時中、鉄道は軍需輸送一色になり、長距離旅客列車は次々に廃止されたわけですが、軍需工場向けの通勤輸送は重要性が増してきました。
しかし、職員の徴兵、施設の老朽化、資材難、電力難、頻発する事故、空襲等から、車両の増備も、列車本数の増加もままならず、通勤列車は常にスシ詰め。
そこでさらに 超スシ詰めにするため、かつて横須賀線や関西急電で快速を誇っていた2扉クロスシート車のモハ42系列も、まず、クロスシートのロングシート化。さらに それすらも 半分撤去 さらには全座席撤去が行われ、乗降時間短縮のため 側扉の増設等が行われました(同時に通勤形用台車への変更も行われています。)。
ただ、簡単に4扉化と言っても、車体強度的にムリがあるのですが、そこは目をつむるわけです。そして、車体強度の低下した車両にスシ詰めするという事で、更に事故が多発すると言う悪循環です。
また、スシ詰めなので ガラスはすぐに割れてしまい、でもガラスは手に入らないから板で塞ぎ、人手不足でその作業すらも とどこおり、スシ詰めなので側扉は脱落し・・・。
戦後は、今度は買い出し列車、復員列車で、鉄道の状況は戦時よりむしろ悪化し、この状況が どうにか改善されてきたのは 昭和23年頃からです。

クモハ32 制御電動客車

クモハ32 制御電動客車

モハ42形 4扉車は、徐々に整備され、最後はクモハ32形として活躍しました。

サモハ63形 制御電動客車(付随車代用)

サモハ63形 制御電動客車(付随車代用)

63系電車は、第二次大戦末期、切迫した都市圏の通勤輸送に応えるため 製作された四扉車です。
特徴として各部構造の 超簡略化(天井化粧板が無かったり、電気配管が木製棚・樋だったりする。)、スシ詰めによる 換気不足に対応するため 屋上通風器にグローブベンチレーターの採用、換気対策 及びガラス不足に対処するため 三段窓(中段は固定)の採用、座席の半減・・・等があげられます。
ニスの香りのする新製車の この電車がホームに入ってきた時、あまりのボロさに 乗客は乗るのを ためらったそうです。

戦時中に 電動制御客車モハ63が14輌、付随客車サハ78が8輌、及び木造車改造で、制御客車クハ79が8輌完成しました。
もっとも、電動制御客車モハ63は、当時の状勢から 電装品など手配できるはずも無く、無電装の制御客車・付随客車 代用の「サモハ」としてとりあえず完成させたのです。

さて、超簡略化設計の63系ですが、使ってみると その限界設計でも 何とか走れると言う事が解かり、今までの電車は無駄に 丈夫だったという事がわかって、戦後の車輌設計に多大な影響を与えていたりします。

モハ63形 制御電動客車

モハ63形 制御電動客車 モハ63形 制御電動客車 ガラス不足

戦争が終わり、経済活動の停止と共に 今まで主力の貨物輸送は ほとんど無くなりました。代わって今度は 復員輸送と、買出し輸送が始まりました。
しかし鉄道は 全ての面において疲弊しきっており、動く車両も全然足りません(整備出来ないので休車、放置)。
電動車一両あたり4個のモーターを 2個で我慢したり、ついには 電車を客車代わりに機関車で牽引すると言う 非常手段も取られたり、戦時中よりも大変な事態に陥りました。
そこで緊急に戦時設計の63系が、大量生産される事になったのです。

右絵はガラス不足から 窓枠を増やして小版ガラスを使えるようにした姿です。
とにかく車両が足りないので、無電装=サモハも引き続き大量に 工場から送り出されています。

また、国鉄よりも私鉄、更に 私鉄の中でも 地方私鉄が深刻な車両不足に陥っており、その対策として、大手私鉄向けに63系を製作し、大手私鉄の中小形車両を 玉突きで地方私鉄に振り向けるという施策がとられました。
これにより、私鉄としては大形車の63系を受け入れるため、大手私鉄は プラットホームを削ったりして、建築・車両限界を改め、63系の導入の成功により、以後の私鉄車両の大形化に貢献しています。
また、63系戦後生産分からは、戦後解体の危機にさらされた ベアリング業界を救済するために 車軸にコロ軸受けの台車を採用しました(今までは平軸受け)。

モハ63形 制御電動客車 ジュラ電

モハ63形 制御電動客車 ジュラ電

有名なジュラ電こと、ジュラルミン電車です。
余剰となった航空機用資材を使ったもので、無塗装ピカピカの電車は、どん底の世相にあって 明るい話題としてニュースになったほどです。
室内灯には蛍光灯が試用されています。モハ63が3両、サハ78が3両製作されました。
ところが、調子づいて無塗装で仕上げのはいいものの、骨組みは鉄骨であり、その材質も相まって電位差による腐食がはなはだしく、他車と同様に塗装してみても かんばしくなく、結局、車体を載せ換える羽目になりました。
ちなみに、この車体載せ換えは、全金属製車体の試作の意味合いもあります。

クモハ73形 制御電動客車

クモハ73形 制御電動客車

さて、とりあえず車両数を充足させるため、超簡略設計で大量生産された63系ですが、案の定 頻繁に事故を起こします。絶縁不足で よく火がつきました。
そんな中、昭和26年(1951年)4月24日、有名な桜木町事故(各自検索のこと。)がおきます。
緊急対策として、各部絶縁強化、各回路の改良、耐火塗料の塗布、貫通路・貫通幌の取り付け、ドアコックの位置と 取扱方法の明示が行なわれました。
つづいて本格的改良として、一部電動制御客車の中間電動客車化(モハ72)、構造材の取替えによる 耐火性・絶縁の抜本的改良、各回路の抜本的改良、今まで内開き扉だった貫通路の拡張・引戸化、三段窓全段を可動化、非常用通報スイッチの取り付け、改良ドアコックの設置、等を実施して、形式も73系となり、安心して乗れる電車になりました。

クモヤ22形 コンテナ輸送用制御電動車/配給制御電動車

クモヤ22形 コンテナ輸送用制御電動車 クモヤ22000号車 公式側

この車両に関しては、新幹線貨物のための試作電車という認識のみが広まっていますが、当時の文献を読むと、「開発中の新幹線の貨物列車の参考か宣伝になるかもね。」程度のニュアンスで、主目的が違います。

まず、クモヤ22形の製作目的ですが、昭和25年(1950年)に登場した湘南電車や昭和35年(1960年)に登場した「こだま号」の成功から、国鉄技術屋の某幹部には 旅客ばかりでなく貨物も動力分散化=電車化の可能性があるのではないか?という考えが生まれました。
で、貨物を電車化するには どんな需要があるのか部下達が考えたところ、昭和34年(1959年)に走り始めた「たから号」のコンテナフィーダー輸送になら使えるんじゃないかという事になりました。
当時はまだコンテナ列車は 拠点間の汐留〜梅田間で走り始めたばかりで、配達範囲が限られており、これを「たから号」からコンテナ電車に中継することで、具体的には汐留から宇都宮、前橋、高崎、取手、千葉、八王子に、梅田から姫路辺りまでをコンテナ輸送圏に組み込める事を当て込みました。
さらに、新幹線貨物列車の方は当初から電車列車による構想でしたから、これの参考にもなるという名目で昭和35年(1960年)にクモハ11形を改造して、クモヤ22形は2両誕生しました。キワ90形気動車の絵 その6を参照。)と同い年ですね。
ただ、新幹線のコンテナは、積み方が現在線と異なり横積みで、荷役もコンテナ移載機を使用する方針でしたから技術的には関連なさそうで、宣伝目的がメインだったようです。

クモハ11形(元モハ31形)からの改造に当たっては、総重量6t(当時)のコンテナを3個積で荷重18tとしたのですが、コンテナは接地面積が小さいため 従来の台枠から上を全て取り払い、そこにもう1枚台枠を貼りつける方法を取りました。
そして前後に運転室を新設し、苦労してパンタや避雷器を艤装しました。まるで最初から転用を見越していたかのように、偶然にも配給電車に似ていますね。
また、クモヤ22形は前面をゼブラ塗装にしているのですが、これは当時米国の機関車で流行っていたため、ついでにクモヤ22形で効果を検証したもので、試験終了後に消されてしまいました。

目的より先に手段として生まれたクモヤ22形ですが、ともあれ実際に1年間、「貨物電車とは何か?」という試験が行われ、密着連結器装備の電車の仕訳線への入換、コンテナの荷役方法や輸送手続き等に貴重な知見を得る事が出来たと思います。
積載したコンテナは亀甲プレスの東急製5000形5100番代が宛てられ、同数制作の富士重工製5000形5500番代が載せられた写真が無い所を見ると、写真映えを重視した事が強く感じられます。
当初 国鉄コンテナは利用が伸び悩んでいたので、クモヤ22形は「国鉄コンテナ」という新商品を世間に宣伝する役目を果たしました。
なお、コンテナのフィーダー輸送については後に それ用のチラ1形が製作されました。

クモヤ22形 配給制御電動車 クモヤ22001号車 非公式側

クモヤ22形は試験終了後、クモヤ22000号車は大船電車区で大船工場の入換用など雑任務に活躍。
クモヤ22001号車はその性能を生かして 側板を取り付けて高槻電車区に配置されて配給電車として活躍しましたが、クモルへ形式変更はされませんでした。
なお、クモヤ22形としては のちに牽引電車の番代が生まれていますが、特にこの基本番代とは関連ありません。

※ 新幹線貨物列車の計画について。

新幹線の貨物列車の計画ですが、これも昨今は「借金をするためのフェイク。」という陰謀論が まかり通っているのは残念な事です(どの分野にも言える事ですが、当時の当事者の思い出話は、残念ながら都合の良いように脚色されている事が多いので、証拠とはなりません。)。
当時の動力分散推進派がクモヤ22を作っちゃうくらい、新幹線で貨物輸送をする事は当たり前の要素でした。
新幹線開業時の資料を読むと、新幹線の試運転が始まった頃から思ったより保線が大変な事が分かって、当初計画の夜間帯の列車設定はムリとなって、じゃあ貨物列車はどうするか?と考えたら、0系電車並みの高速走行で旅客電車を逃げるにしても、その性能を出すには技術的に1両にコンテナ3〜4個くらいしか積めないやってなって、そのほかにも新幹線の山陽延伸の現実味、現在線との輸送分担等 検討事項が増えていって、とりあえず先延ばしにしたら新幹線の旅客需要が急伸したので、もはや誰も手が出せなくなったが正解です。
新幹線自体、開業してから数年間は想像以上の手探り状態で そっちの解決に奔走していて、混乱しているさなかに新たな要素の追加など無理だったのです。

115系 0番代 近郊形電車

115系 0番代 近郊形電車 湘南色 山側 クモハ115 0+モハ114 0+クハ115 0 冷房改造・電動方向幕装備・民営化後の晩年の姿

115系 0番代 近郊形電車 湘南色 海側 クハ115 0+モハ114 0+クモハ115 0 冷房改造・電動方向幕装備・民営化後の晩年の姿

115系 1000番代 近郊形電車

115系 1000番代 近郊形電車 湘南色 山側 クモハ115 1000+モハ114 1000+クハ115 1000

115系 1000番代 近郊形電車 湘南色 海側 クハ115 1000+モハ114 1000+クモハ115 1000

115系 1000番代 近郊形電車 横須賀線色 山側 クモハ115 1000+モハ114 1000+クハ115 1000

115系 1000番代 近郊形電車 横須賀線色 海側 クハ115 1000+モハ114 1000+クモハ115 1000

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

昭和38年(1963年)から製造開始の115系近郊形電車は 111系近郊形電車の出力を増強した平坦線用の113系の姉妹車両にあたり、山岳路線用に抑速ブレーキを装備したものです。
抑速ブレーキとは 発電ブレーキの一種で、長い下り勾配で電動機を発電機代わりとして車輪の転がりを抑制し、発電された電力は抵抗器で熱に変換して捨てるものです。
これを使用する事により、通常のブレーキを頻繁に使って制輪子を消耗したり、輪軸を痛める事を防げます。

115系は 上信越、中央、山陽地区に投入され、昭和52年(1977年)からは耐寒・耐雪構造を強化した1000番代が登場しました。
湘南色のものが基本ですが中央東線はスカ色で活躍し、転配時には混色編成も見られました。

475系 急行形電車

475系 急行形電車 標準色 山側 クモハ475+モハ474+クハ455 冷房搭載・国鉄末期の姿

475系 急行形電車 標準色 海側 クハ455+モハ474+クモハ475 冷房搭載・国鉄末期の姿

サハ455形 普通付随客車

サハ455形 普通付随客車 標準色 公式側(山側) サハ455形 普通付随客車 標準色 非公式側(海側)

サロ455形 グリーン付随客車

サロ455形 グリーン付随客車 前期形 標準色 公式側(山側) サロ455形 グリーン付随客車 前期形 標準色 非公式側(海側)

サロ455形 グリーン付随客車 後期形 標準色 公式側(山側) サロ455形 グリーン付随客車 後期形 標準色 非公式側(海側)

サハシ455形 普通・ビュッフェ合造付随客車

サハシ455形 普通・ビュッフェ合造付随客車 標準色 公式側(山側) サハシ455形 普通・ビュッフェ合造付随客車 標準色 非公式側(海側)

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

475系は 交流区間に投入された急行形電車群の一員で、昭和40年(1965年)から製作されました。
交流区間用と言っても大都市圏は直流電化ですから、地方⇔都会間の輸送使命を持つ急行形として 交直流仕様となっています。
ただ、この交流電化が曲者で、東日本の50Hz(50c/s)、西日本の60Hz(60c/s)と周波数が分かれているだけでなく、当時は技術開発と平行しての車両増備となってしまったため、細部がちょっとづつ違う車が 各系列で続々と誕生してしまう結果となりました。

交直流急行形電車では、まず153系直流急行形電車をベースとして電動機出力100kWの50c/s線区用の451系、60c/s線区用の471系が昭和37年(1962年)に登場。
電動車ユニットはクモハ+モハで、付随車(クハ、サロ、サハ、サハシ)は451系・471系共通で 451形。

次に電動機出力を120kWにしたグループが50c/s線区用の453系として昭和38年(1963年)に、60c/s線区用の473系として昭和40年(1965年)としてそれぞれ登場。
電動車だけの仕様変更なので、付随車は相変わらず 451形。
453系は 451系からわずか1年後の仕様変更で、473系に至ってはクモハ+モハのわずか1ユニットの製作です。
なお、直流用でも同様に153系の出力増強版の163系というのが計画されていますが、こちらは無駄に形式を増やすのは得策ではないと悟って、サロだけ作って165系に一本化。計画中止となっています。

昭和40年(1965年)には 出力120kWで、勾配線区向けに抑速ブレーキを備えた50c/s線区用の455系、60c/s線区用の475系が登場。直流区間用の165系の兄弟にあたります。
付随車は制御回路が増えたので455形に変更。ただ、抑速ブレーキを使わなければ451系・471系・453系・473系と併結可能です。

そして最後に登場したのが 455系と475系を統合し、直流、交流50c/s・60c/sの3電源対応とした457系で、昭和44年(1969年)に電動車19ユニットを製作。
3電源対応と言ったら日本海縦貫用かと思われますが、そんな長距離運用は存在せず、なぜか九州にも配置されたりと、3電源対応はあまり意味が無かったようです。

これら交直両用急行形電車は、車体は基本的に153系、165系と同じで、地方の低いホームを考慮して出入口にステップが付いています。
国鉄時代の塗装は交直両用電車の指定色=あずき色(赤13号)とクリーム色4号の組み合わせですが、近郊形が あずき色メインで暗い感じなのに対し、急行形はクリームの面積が増えて いかにも国鉄急行形という感じです。
都会の駅でこの色を見て 故郷に思いを馳せる人も多かったのではないでしょうか?

宇田さんの一般型客車資料室には 475系の各種編成やJR九州色などが公開されております。やはり編成を組むと わくわくしますね。

なお、サロ455のうち上段の1〜41号車は 455・475系用の前期形でAU12S形クーラーを装備。下段の42〜45号車は 457系と一緒に製作されたもので AU13E形クーラーを装備してデッキの通風器を省略する等のマイナーチェンジを行ったものだそうです。
下降式窓は美しいですが、構造上 腰板内部がポケットとなっているため、雨水による腐食が発生しやすい欠点があり、車体寿命を短くする結果となりました。

クハ455形 600番代 制御客車

クハ455形 600番代 602〜 制御客車 標準色 公式側(海側) クハ455形 600番代 602〜 制御客車 標準色 非公式側(山側)

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

クハ455形 600番代は国鉄末期の普通列車増発に伴う急行形車両の格下げ運用で 不足する先頭車を捻出するため、余剰のグリーン車を改造したものです。
サロ455形及びサロ165形から改造されましたが、客室部分のグリーン車のクロスシートは そのまま利用されました。
絵は サロ455-42〜45を改造した クハ455-602〜605です。

485系 特急形電車
国鉄485系とは、昭和39年(1964年)〜昭和54年(1979年)に掛けて一族が たくさん製作された、汎用形特急電車です。

当時は国鉄の近代化も最終段階となり、安く電化を進めるため地方幹線は 変電所を減らせる交流電化で進める事になりました。
ここで困るのが長距離旅客列車で、従来の客車列車ならばセクションで機関車を付け替えれば済む話ですが、国鉄としては非効率で時代遅れの機関車牽引列車など眼中になく、
また、出力の劣る気動車特急列車は非電化区間用なので、すでに直流区間で活躍していた181(151,161)系をベースに新たに交直両用特急形電車を開発するのは自然の流れでした。

構造は簡単で、181系に変圧器を積んだ感じです。
ただ、ごく初期は西日本60c/s用の481系と、東日本50c/s用の483系に分けて製作され、昭和43年(1968年)に機器の完成なって、直流1500V、交流2万V50c/s・60c/sの3電源対応の485系が生まれました。
この時、付随車は481系のままとし、さらに後年の複雑な番代区分の発生により、形式が混沌としてしまいました。

ともかく、この485系列電車は その後多量に増備され、全国くまなく走るようになり、新幹線と共に特急を庶民の気軽な移動手段にしました。

485系 特急形電車 クハ481形 100番代 制御客車

クハ481形 100番代 制御客車 公式側 クハ481形 100番代 制御客車 非公式側

クハ481形100番代は 電動発電機の大容量小形化に伴い 同機器をボンネット内部から床下に移設したタイプ。
ボンネット内はコンプレッサーだけになりましたが、デザインの優れる「こだま形」の顔を守っています。
他に前灯のシールドビーム化や ボンネット下部に通風口設置、タイフォンの移設など。

485系 特急形電車 クハ481形 200番代 制御客車

クハ481形 200番代 制御客車 公式側 クハ481形 200番代 制御客車 非公式側

クハ481形200番代は 将来の分割併合運転を見越して従来のボンネット構造をやめ 581系と同構造の前面貫通路を設置したタイプ。
コンプレッサーも床下設置として全長は短くなりましたが、逆に客室定員を増やす事ができました。また、クーラーも 台形の新形になっています。このタイプの先頭車は、「電気釜」の愛称で親しまれました。
※ 国鉄時代は結局、前面貫通路を使用した運用はありませんでした。

485系 特急形電車 クハ481形 300番代 制御客車

クハ481形 300番代 制御客車 公式側 クハ481形 300番代 制御客車 非公式側

クハ481形300番代は 200番代から前面貫通路を廃止したタイプ。運転室が少し広くなっています。

485系 特急形電車 モハ484形 0番代+モハ485形 1〜96 電動客車

モハ484-485形 0番代 電動客車ユニット 山側

モハ484-485形 0番代 電動客車ユニット 海側

485系の初期電動車ユニットです。

485系 特急形電車 モハ484形 200番代+モハ485形 97〜255 電動客車

モハ484-485形 200番代 電動客車ユニット 山側

モハ484-485形 200番代 電動客車ユニット 海側

モハ484形 200番代+モハ485形 97〜255はクーラー形式を変更したタイプです。
パンタ付きのモハ484形は集中クーラー化のうえ 床置きクーラーを撤去して 客室が広くなりました。

485系 特急形電車 モハ484形 1000番代+モハ485形 1000番代 電動客車

モハ484-485形 1000番代 電動客車ユニット 山側

モハ484-485形 1000番代 電動客車ユニット 海側

モハ484形+モハ485形1000番代は耐寒耐雪性能を強化したものです。

485系 特急形電車 サハ481形 付随客車 基本番代後期

サハ481形 付随客車 基本番代後期 公式側 サハ481形 付随客車 基本番代後期 非公式側

サハ481は編成数調整のための付随客車で系列中少数派。絵は基本番代後期のもの。

485系 特急形電車 サロ481-52〜 グリーン付随客車

サロ481形 52〜 グリーン付随客車 公式側 サロ481形 52〜 グリーン付随客車 非公式側

サロ481形はグレーン車。絵の52号車〜はクーラーの形式を変更しています。

485系 特急形電車 サシ481-40〜 付随食堂車

サシ481-40〜 付随食堂車 公式側 サシ481-40〜 付随食堂車 非公式側

サシ481形は当時 長距離列車に必要不可欠であった食堂車。絵は後期形。

485系 特急形電車 クモハ485-1〜15+モハ484-600 制御電動客車ユニット

クモハ485-1〜15+モハ484-600 制御電動客車ユニット 山側

クモハ485-1〜15+モハ484-600 制御電動客車ユニット 海側

クモハ485-1〜15は、短編成化に伴いモハ485形に運転台を取り付け、合わせてコンプレッサーと電動発電機を設置したタイプ。モハ484-600は車掌室を装備。※クモハ485-1〜15は宇田さんの好みで本州スタイルとのこと。
・・・う〜ん。485系は色んなタイプが入り乱れて よく分かんない(笑)。
これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

485系 特急形電車 特急「たざわ」風 編成

485系 特急形電車 特急「たざわ」風 編成 山側 485系 特急形電車 特急「たざわ」風 編成 海側

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。
こちらはクロハ481-300+モハ484-1000+クモハ485-1000の改造編成。
クロハ481-300は厳密には特急「北近畿」用の車両(301、302号車)ですが、絵的に見栄えが良いので こちらを選んだとのこと。
短編成化改造と言っても、今 考えると、国鉄時代の改造は徹底していましたね。

581系 寝台特急形電車 クハネ581形 制御寝台客車

581系 寝台特急形電車 クハネ581形 制御寝台客車 公式側 581系 寝台特急形電車 クハネ581形 制御寝台客車 非公式側

583系 寝台特急形電車 クハネ583形 制御寝台客車

583系 寝台特急形電車 クハネ583形 制御寝台客車 公式側 583系 寝台特急形電車 クハネ583形 制御寝台客車 非公式側

583系 寝台特急形電車 モハネ582形+モハネ583形 電動寝台客車

583系 寝台特急形電車 モハネ582形+モハネ583形 電動寝台客車ユニット 山側

583系 寝台特急形電車 モハネ582形+モハネ583形 電動寝台客車ユニット 海側

583系 特急形電車 サハネ581形 付随寝台客車

583系 特急形電車 サハネ581形 付随寝台客車 公式側 583系 特急形電車 サハネ581形 付随寝台客車 非公式側

583系 特急形電車 サロ581形 グリーン付随客車

583系 特急形電車 サロ581形 グリーン付随客車 公式側 583系 特急形電車 サロ581形 グリーン付随客車 非公式側

583系 特急形電車 サロネ581形 グリーン付随寝台客車

583系 特急形電車 サロネ581形 グリーン付随寝台客車 公式側 583系 特急形電車 サロネ581形 グリーン付随寝台客車 非公式側

583系 特急形電車 サシ581形 付随食堂車

583系 特急形電車 サシ581形 付随食堂車 公式側 583系 特急形電車 サシ581形 付随食堂車 非公式側

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

名車の誉れも高い583系 寝台特急形電車です。
583系は動力近代化の一環で客車夜行列車を電車に置き換えるために開発されたものですが、電車は客車より製作費が高いために 昼行特急にも使用する事となりました。

設計は485系列をベースとし、まず、昭和42年(1967年)に60c/s用の581系を登場させ、昭和43年(1968年)にDC1500V、AC20000V50c/s・60c/sの3電源方式の583系を作りました。
3段寝台を確保するため 座席・寝台は複雑な構成となりましたが 見事に実用化しています。 座席は4人向かい合わせ式です。
さらに翌年 昭和44年(1969年)には 補器類の小形化にも成功したため、クハネ581形より客室定員を増やし 耐寒大雪装備を施したクハネ583形に 先頭車の増備が移行しています。
昼は座席特急、夜は寝台特急として高効率運用ができるのが売りですが、新幹線の延伸と共に その特殊構造が災いし、昭和50年代には早くも余剰化しはじめてしまいました。
国鉄末期には近郊形電車の419系・715系に多数が改造されましたが、一部編成はそのまま残り、今でも現役なのは驚くべき事です。
なお、サロネ581形は国鉄末期に急行「きたぐに」用にサハネ581形を改造して生れた形式です。

419系 交直流近郊形電車

419系 交直流近郊形電車(クハ419形 組込編成) 旧塗装 山側 419系 交直流近郊形電車(クハ419形 組込編成) 旧塗装 海側

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

国鉄末期には、地方都市での鉄道利便性向上のため、普通列車の増発が図られました。
これは、特急の新幹線への転移や 貨物列車の削減で生れたダイヤの余裕を活用したものですが、増発には列車そのものの速達化も必要です。
具体的には鈍行客車列車や気動車列車を電車化し、短編成化して高頻度運転する事になりました。

電車化に際して 従来は車両の新製による玉突き投入が行われていましたが、当時の国鉄は財政難で新車は難しく、改造車で済ませる事にしました。
改造は足廻りを利用して車体を新製する大掛かりな物もありましたが、長編成の電車編成を分割して 中間車に運転台を付ける方法も多用されました。

419系 交直流近郊形電車は、北陸地区用に余剰の583系 寝台電車を格下げ短編成化したもので、昭和59年(1984年)に3両編成45本が改造されました。
同時期には九州・東北地区用に 交流版の715系も生れています。
改造工事は多岐に渡り、寝台電車を無理やり2扉セミクロスの近郊形に改造しています。足りない先頭車は モハネ583形とサハネ581形に運転台を取り付け、それぞれクモハ419形とクハ418形になりました。
詳しくは他のサイトを見てください。

絵のものは登場時の塗装で、一端にクハネ581形改造のクハ419形が付いた編成。直江津方からクモハ419+モハ418+クハ419。
多数派の編成は両端切妻 食パン顔の、クモハ419+モハ418+クハ418の組み合わせです。

この、いかにもラッシュ時の乗降に手間取りそうな419系ですが、平成23年(2011年)までの長寿をまっとうしたのでした。

100系 新幹線電車 グランドひかり編成

100系 新幹線電車 V編成 121-3000形+126-3000形(1、2号車) 海側 100系 新幹線電車 V編成 125-3000形+126-3000形(3、4号車) 海側 100系 新幹線電車 V編成 125-3800形+126-3000形(5、6号車) 海側 100系 新幹線電車 V編成 179-3000形+168-3000形(7、8号車) 海側 100系 新幹線電車 V編成 179-3100形+178-3000形(9、10号車) 海側 100系 新幹線電車 V編成 125-3700形+126-3000形(11、12号車) 海側 100系 新幹線電車 V編成 125-3000形+126-3000形(13、14号車) 海側 100系 新幹線電車 V編成 125-3000形+122-3000形(15、16号車) 海側

これらの絵は一般型客車資料室の宇田惣郷さんの作品のおすそ分けです。私の絵と同様に非営利目的に限り利用・改変自由の許可をいただいております。

みんな大好き100系新幹線電車は、国鉄末期の昭和60年(1985年)に登場しました。

従来、東海道山陽新幹線は0系新幹線電車が改良に改良を重ねて量産されていました。
これは 東海道新幹線は日本で初めての超高速鉄道であるため、需要を模索しながら編成の組み換えが頻繁に行われていたため、共通仕様である必要があった事。
また、同様に 未知の故障を防ぐため、信頼のおける なるべく枯れた技術を組み合わせる方針でいたためです。
もちろん、その間も新技術の開発は行われておりましたが、財政難の国鉄で 技術開発に使える予算は ごくわずかなもので、思うように研究が進みませんでした。

そんな時代も、国鉄末期に ようやく終わりを告げ、JRに生まれ変わる直前、バブル景気の足音が聞こえ初めた頃に 100系新幹線電車は生れました。
外見は従来の0系、200系の流れをくむものですが、先頭形状を若干スマートに。
動力・制御機器関係も時流に合わせて変更し、0系では全電動車方式だったのが16両中4両を付随車に。
なんと言っても目立つのは2階建て車両で、当初 16両編成に2両 グリーン車と食堂車として組み込まれました。グリーン車1階は個室となっています。
新幹線の車両限界は 将来の貨物列車を想定して 屋根肩部分が角ばった独特な形状なのですが、ここでその大柄な車両限界を有効活用する事ができました。
また、当初はユニット毎にパンタグラフを装備していたのですが、のちに き電方式の改良によってパンタグラフの使用数を減らしています(一部撤去)。

こうして100系新幹線電車は、JR化後もJR東海とJR西日本によって引き続き量産されました。
なかでも平成元年(1989年)にJR西日本が世に送り出したグランドひかり編成は、4連のダブルデッカー車が存在感抜群で、1階普通車指定席は4列シートにして座席を拡幅し、食堂車売店も広くなり人気を集めました。
その関係で 従来編成で先頭車と2階建て車が付随車だったのを、2階建て車が4両となったため 先頭車を電動車としました。
また、この編成では 将来の山陽新幹線内 最高速度270km/h運転を見越して小改良が施され、230km/h運転で営業されました。ただ、走行試験してみると高速域での騒音がひどかったため、270km/h運転は実現しませんでした。
騒音といえば 100系新幹線電車も後年の改造でパンタグラフカバーが付けられました。
絵は、グランドひかり編成が いちばん脂の乗っていた時代で、左上から博多寄り海側1号車から右下東京寄り16号車までのフル編成です。
K・P編成の新塗装は、宇田さんの一般型客車資料室で。


気動車の絵は こちら  蒸気機関車の絵は こちら  ディーゼル機関車の絵は こちら  電気機関車の絵は こちら  貨車の絵 その1は こちら  貨車の絵 その2は こちら  貨車の絵 その3は こちら  貨車の絵 その4は こちら  貨車の絵 その5は こちら  貨車の絵 その6は こちら  貨車の絵 その7は こちら  貨車の絵 その8は こちら  貨車の絵 その9は こちら  貨車の絵 その10は こちら  貨車の絵 その11は こちら  貨車の絵 その12は こちら  貨車の絵 その13は こちら  貨車の絵 その14は こちら  貨車の絵 その15は こちら  貨車の絵 その16は こちら  客車の絵は こちら  小形鉄道車両の絵 その1は こちら  小形鉄道車両の絵 その2は こちら

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