貨車の絵 その8
これらの絵は 素材として使う事も考慮して描いているため、使用色数が少なく軽いのが特徴です。トロッコ等は小形鉄道車両のコーナーへ。
改造素材や、ホームページや冊子のネタとして、ご自由にお使いください。※注 絵を単体で商用・営利目的使用する場合を除く。
小さな手直しは頻繁にあり、更新履歴に載せない事も多いいため、古いキャッシュを消去して、利用直前にコピーする事をお勧めします。
ご使用の際は、知らせて頂けるとうれしいです。
なお、絵や解説文の根拠たる参考文献等は ここに記載しきれないので、直接私にメールか掲示板で問い合わせて頂ければ幸いです。また、基本的に解説文は作画当時に書いたものなので、情報が古い場合があります。
このページの絵は特記以外1ドット50mmで描いています。
貨車の絵 その1は こちら 貨車の絵 その2は こちら 貨車の絵 その3は こちら 貨車の絵 その4は こちら 貨車の絵 その5は こちら 貨車の絵 その6は こちら 貨車の絵 その7は こちら 貨車の絵 その9は こちら 貨車の絵 その10は こちら 貨車の絵 その11は こちら 貨車の絵 その12は こちら 貨車の絵 その13は こちら 貨車の絵 その14は こちら 貨車の絵 その15は こちら 貨車の絵 その16は こちら 積荷の絵その1は こちら 積荷の絵その2は こちら 蒸気機関車の絵は こちら ディーゼル機関車の絵は こちら 電気機関車の絵は こちら 小形鉄道車両の絵 その1は こちら 小形鉄道車両の絵 その2は こちら
表紙へ
古典有蓋緩急車達
明治〜大正初期の鉄道は、旅客列車には真空ブレーキをボチボチ採用(明治19年(1886年)から官鉄で試用開始。)していましたが、貨物列車には 列車全体に利くブレーキ(貫通ブレーキ)がありませんでした。
そこで、重量編成の場合は、要所要所に手ブレーキ(手用制動機)を備えた貨車を連結して 機関車の汽笛合図で ブレーキを掛けたり緩めたりして 列車速度をコントロールしていたのですが、これに車掌の乗務設備を設けたものが“緩急車”です。
側ブレーキも多くの貨車に普及していましたが、こちらは留置用で、ブレーキ力も弱いです。急勾配対策で側ブレーキを効かせたまま山を下るという事もあったようですが、運転中に操作はできません。
貨物列車は重たいので、編成の約1割に 手ブレーキ付きの車両を連結する必要があり、列車編成が長くなった大正末期には 貨車全体に占める緩急車の割合も1割以上に達っするようになりました。
ただし、鉄道創業時点での貨物緩急車は脇役だったようで両数も少なく、貨物列車に必ず緩急車が連結されていたという明確な記録が見つかりません。
緩急車は列車最後部に連結され、乗務した車掌により、列車分離や異常時の列車防護に備える役割もありました。
日本の鉄道は創業期、北海道でアメリカ流の自動連結器が ぼちぼち採用されていた以外は、ヨーロッパ式の螺旋・連環連結器を使用していました。
この螺旋・連環連結器は意外に弱く、たびたび列車分離事故も起こしていて、流転しないように列車編成後部でブレーキを掛ける必要もありました。
機関士が気付かぬうちに編成後部が置き去りになるという事例もあり、列車後部標識の表示という役割もあります。
また、緩急車は各駅での小口貨物の積載という役割もあり、その荷扱いのための車掌の乗務設備という風に、時代と共に緩急車の重要性は増していきました。
車掌さんの業務も増えていって役割分担が進み、列車全体の運行・安全をつかさどる“列車長”を筆頭に、手ブレーキの操作に専念する“制動手”、小口貨物を扱う“荷扱い車掌”などか緩急車に乗務しました。
とまあ、時代と共に緩急車や車掌は進化していったのですが、各鉄道で足並みを揃えて進化したわけではなく、明治40年(1907年)の鉄道国有化の際には雑多な緩急車が国鉄に集まりました。
明治後期に製作された緩急車は、全国で仕様の統一が進んでいた汎用有蓋車をベースに、各鉄道毎に異なる車掌設備が備わる感じです。車掌業務の多様化で、時代と共に車掌室は拡幅されていきます。※汎用有蓋車は貨車の絵 その1を参照してください。
なお、列車後部標識の油灯が整備される以前の明治34年(1901年)までは、官鉄の緩急車は、妻面全体を朱色に塗っていたそうです。たぶん日本鉄道の緩急車なんかもそんな感じだったのかもしれません。
明治33年(1900年)からの規定では、通常列車の後部標識は最後部車両 両側面と後部左に標示する決まりで、昼間は赤色円盤、夜間は油灯を使いました。
官設鉄道
まず、官鉄から引き継がれたワフ3788形(官鉄カブ455号車〜)307両と、真空ブレーキシリンダ付きのワフ2756形(官鉄カブ309号車〜)140両、ワフ3978形(官鉄ワブ1号車〜)294両、ワフ4205形(官鉄ワブ201号車〜)197両は車体寸法の同じ同系車で、計938両という圧倒的な勢力の、国鉄主力緩急車です。
官鉄形式のカブとワブの違いは 使用目的のようで、主に小口扱い(通常斤扱い)貨物向けに 車掌室を広くとって貨物室にも油灯を装備し、さらには貨物室と車掌室行き来できるようにしたのがカブのようです。
頻繁に荷を扱う事を想定した造りで、カブは旅客列車併結用だったのかもしれません。カブの記号は、おそらく英語のカーブースから取ったのでしょう。
ワフ3788形とワフ2756形の違いは真空ブレーキシリンダの有無です。
ワブの方は、普通の有蓋車に車掌室をくっ付けた造りで、車掌室の幅もドア1枚分610mm〜686mmしかありません。通常の貨物列車用でしょう。
また、ワフ3978形(官鉄 神戸工場製)もワフ4205形(民間工場製)も、形式図上では魚運車と同じ透かし張りの羽目板となっています。
有蓋緩急車は元々小口扱い貨物用なので、鮮魚の輸送も相当あったのでしょう。でも特に魚運緩急車とは名乗っていません。
また、ワフ4205形の官鉄時代のワブ293号車の新製時と思われる写真では 普通の羽目板なので、量産初期の段階で通風構造は やめたのかもしれません。
ワブもカブも並行増備されたようですが、時代と共に使い方に差異が少なくなり、国有化後の記号はワフに統一されました。
なお、車掌乗務設備の無い 手ブレーキ付きの有蓋車も少なからず存在しましたが、こちらは国有化後の称号では フワと 頭に“フ”の記号を付け、緩急車と区別しました。
ワフ3699形(官鉄カブ198号車〜)97両はワフ3788形の前の世代で、ワフ3788形と比べると車体のサイズは大差無いものの、車軸間距離が短めです。後年、真空ブレーキを装備したようです。
やや背の低いワフ2925形は 官鉄時代はカブ3号車〜で、明治21〜25年(1888〜1892年)製と古く、貨物室に油灯はありませんが 官鉄カブタイプの原形と言えるでしょう。鉄道統合時点で45両の勢力でした。
昭和3年(1928年)の改番の際は37両生き残っていましたが、多くの有蓋緩急車がワフ8000形に統合される中、脚廻りが異端だったのかワフ11500形となりました。
とまあ、明治・大正期の車両形式は複雑で、描いてる私も覚えられません。なのでファイル名を(i-wahu-11500-2925-kabu-3-d1.png)などとして 工夫はしていますが、画面に並べると皆似てて、どれがどれだかわかりにくいと思います。雰囲気だけでも味わって頂ければと・・・。
↑の2例は共に明治24年(1891年)官鉄 新橋工場製の8〜10t車で、所属は官鉄と日本鉄道に分かれましたが、姉妹形式と言えます。
当時はまだ 日本鉄道の運行は官鉄が担っていたので、使用目的も同じで急送の通常斤扱い(小口扱い)貨物を積んで、旅客列車にでも併結されて活躍したのでしょう。生鮮品を考慮してか 両形式とも一部通風構造となっています。
前期車10両が日鉄に渡り 同社の亥形51号車〜になり、国有化後ワフ4707形に。油灯が増えて 車体構造も少し変えた後期車20両は、官鉄カブ92号車〜として働き、国有化でワフ4684形となりました。
その後、自動連結器化を乗り越え、昭和3年(1928年)の改番でそれぞれワフ12000形とワフ11900形になって、昭和初期まで活躍したようです。
日本鉄道
官設鉄道と密接な関係にある日本鉄道の緩急車は、パッと見 官鉄のワブと同じ形態ですが、積極的に真空ブレーキを装備しており、山がちで貨物も多かった線区の特徴が見て取れます。
日本鉄道の有蓋緩急車の形式は“亥(いのししのイ)”です。明治期の鉄道車両の通例で 形態にかかわらず通し番号になってて分かりにくいので、国鉄形式で国有化時点の勢力を解説すると、
小柄のワフ2966形(亥186号車〜 官鉄 新橋工場製)77両と、ワフ3043形(亥282号車〜 オールドベリー製)65両が 同寸法で計142両。
車体が長くなったワフ4402形(亥23号車〜 官鉄 新橋工場製)が16両。
車高を高くして官鉄標準車と同寸となったワフ3381形(元日本鉄道 亥81号車〜)が70両、車掌室を拡幅したワフ3331形(元日本鉄道 亥370号車〜)が50両、斜め補強のあるワフ3451形(元日本鉄道 亥156号車〜)が30両という感じです。
後年は空気ブレーキが導入されるまで、全車真空ブレーキシリンダーを装備していました。
日本鉄道は明治16年(1883年)に開業してから 明治25年(1892年)まで、運行管理全般を官鉄に委託していたので、小形のワフ2966形やワフ3043形などは官鉄の お古と思われます。
せっかくなので、官鉄時代を想定して赤く塗ってみました。
開拓使 幌内鉄道/北海道炭礦鉄道
北海道の鉄道は、開拓使という国の機関によって 明治13年(1880年)に開業した幌内鉄道によって始まりますが、英国流の官鉄と異なり 全面的に米国の技術を導入しました。
詳しくは貨車の絵 その1と、貨車の絵 その2の解説を読んで頂くとして、有蓋緩急車は絵のように有蓋車と同じデザインです。
具体的には7トン有蓋車の妻面に乗降扉を設けて、手ブレーキは室内に設置、窓を設けて、内部には椅子、机、煙突を突き出してストーブという感じで、荷重は4トン。
本場米国の 簡素なカブースとそっくりですね。尾灯のランプは側面に掛けるタイプです。
幌内鉄道が民間に払い下げられて 北海道炭礦鉄道になったあとは、か1〜52号車を名乗りました。
さらに、国有化後には増備車の か53〜77号車と共に、コワフ2500形となりました。
北海道鉄道部
幌内鉄道は民間経営の北海道炭礦鉄道になりましたが、さらなる路線延長の体力は無いため、再度公営の北海道庁北海道鉄道部が設立されて 鉄道建設を進める事にしました。ややこしい。
北海道庁北海道鉄道部の車両は、幌内鉄道から流れてきたものもありましたが、新製車は日本式設計となっています。
緩急車もご覧の通り。
ところで、鉄道国営化の際は、北海道炭礦鉄道も北海道鉄道部も合わせて国鉄に編入されましたが、両者とも自動連結器を採用を始めていました。
ただ、まだ貨車の全車が自動連結器という訳ではなく、朝顔カプラーも併用されていて、当地の自動連結器にはナックル部分に切り欠きがあって、ドローバーを介して朝顔カプラーと連結できました。
また、絵だと分かりにくいですが、緩急車や一部有蓋車は内地仕様のバッファー付き螺旋・連環連結器を併設していました。
これはムボ形無蓋車等、内地からの転入組の貨車と連結するためのもので、つまり3種類の連結器に対応してアダプターとしても活躍していたようです。
で、北海道の古典貨車というと アメリカ流の大形ボギー車が連想されますが、明治後期時点では 車体に関しては絵のように内地の貨車とさして変わらぬ姿の車両を増備してました。
絵は北海道鉄道部の子ニ形→国鉄ワフ3296形です。
このグループは後年、車掌室の拡張や貫通扉の設置等の改造を受けています。
山陽鉄道
山陽鉄道は明治21年(1888年)開業ですが、おそらく かなり早い段階で、絵のような変な車を導入しています。15t積で、北海道のボギー有蓋車よりも大柄です。
英国のランカスターシーダブリュー社製のボギー車で、列車監視用に英国式の出窓(張出窓)を備えています。英国式と言っても イギリスは各鉄道が競っていますので、どこの流派かは知りませんが・・・。
また、三角(山形)屋根ですが、これが山陽側からの提案か、メーカーからのおすすめか?は知りません。
このタイプは 背のやや低い初期車2両と合わせて7両ほど いたようです。
真空ブレーキ装備で急送品輸送用でしょうが、荷物車との境界があいまいで、貨車に含めてよいものか疑問ではあります。貫通口や側窓、沢山の油灯カバーからして 旅客列車に併結されて働いていたのでしょう。
国有化の際には貨車に分類されて、初期車がホワフ2600形、増備車がホワフ2602形となりましたが、たった7両の異端車ゆえ、その後の消息は不明です。
まあ、それ以外の山陽鉄道の有蓋緩急車は同社の汎用有蓋車と同じ系統で、三角(山形)屋根のものが多いですね。
何よりの特徴は 列車監視用に出窓(張出窓)を備えている事で、上に描いた輸入品のボギー緩急車に感化されて代々受け継がれたのでしょう。
ただ、この張り出し部分には とても小さな前後窓しかないイギリス流儀で、室内からの常時監視には風雨が防げて良いですが、緊急時に側窓から顔を出した時に 却って張り出し部分が死角を作って邪魔になると思われ、効果のほどは はなはだ、とっても疑問です。
案の定、国有化されたら さっさと撤去されました。左端絵が国有化後です。
山陽緩急車の車掌室は広めとなっており、官鉄のカブと同様、頻繁な小口貨物の扱いに便利なように車掌室と貨物室の往来が可能です。
屋根に油灯覆いが無いのは、時代を先取る山陽鉄道の事なので、蓄電池式電灯でも使っていたのでしょう。ただし、後期に製作したものは国有化を見越したのか 油灯覆いが付いてます。
一部形式は側引戸が車端に寄っていますが、これは右開きにこだわった可能性があります。となると、両側面で扉の開口部の位置がズレますが・・・。謎ですね。
有蓋車の引戸は基本的に右に引くように造られています。これは右利きの人が取り扱う事を前提としているためですが、緩急車で右側に車掌室がある場合は開扉時に支障するので、左開きに設計されるのが普通です。
なお、山陽鉄道=先進的という言葉に惑わされがちですが、山陽鉄道の真空ブレーキ装備車は機関車とボギー客車が主で、これは官鉄と大差ありません。
ただ、一部貨車に真空ブレーキを装備しようという試みはされているのですが、これがまた凝り過ぎのヘンテコな仕様でした。
私は山陽鉄道の歴史について 知りませんが、絵を描いていると 山陽鉄道は発明家気質が強すぎた事を実感させられます。設計者が色々思いついた事を実践するのですが、頭を使い過ぎてて多くが失敗に終わってるんですよね・・・。たぶん、現場が苦労させられるパターンです。
九州鉄道
九州鉄道のワル形はドイツ製で なんとも欧州風な いで立ちが特徴です。同系車に汎用有蓋車のワ形と、それに手ブレーキを付けた構造のワブ形が存在しました。
ワル1〜8号車はワブ形のデッキ側の車室を車掌室にしたもので、ワル9号車以降はデッキが張出窓状に塞がれました。
ワル形の張出窓は山陽のような前後方向の窓はありませんが、側面に乗降扉と窓が開いていて、理にかなった造りになっています。
九州でも、後期に製作された貨車は官鉄の標準車と仕様が揃ってきています。
右絵のカル形もそんな感じですが、石炭ホッパの関係か 油灯カバーを屋根に埋め込んで全高を低くしていたのが九州独自仕様と言えましょうか。
という風に、絵では色々描きいましたが、官鉄と日本鉄道以外の私鉄貨車の資料はとても少なく、作画には相当の推測も交えていますので、ご了承ください。
これら古典緩急車は 国有化当初は細かく形式分けがされていましたが、昭和3年(1928年)の車両形式称号改正の時点では淘汰が進み、生き残っていた標準タイプの有蓋緩急車は ワフ8000形に形式統合されています。
しかし 既に老朽化が進行しており、数年で次々と廃車されました。その際、私鉄や専用鉄道に払い下げられたものは 戦後も活躍しています。
ワフ3300形/ワフ2900形(ワフ5000形/ワフ20500形/ワフ20800形) 有蓋緩急車
貨車の絵 その1で述べたように、国鉄は英国製ワ12746形を範として標準形有蓋車のワ18275形を制作しましたが、これはその緩急車版です。
まず、明治44年(1911年)に荷重9tのワフ5000形前期車が 500両ほど製作されました。
上段絵の左端がそれで、基本的構造はワ18275形に準じて縦羽目板張りです。
速達貨物運用を想定したのか真空ブレーキ装置装備の優秀車で、小口貨物扱いを考慮して貨物室にも室内照明の油灯を装備していました。
屋根上の円筒形が油灯カバーですが、メンテナンスが大変だったのか大正末期頃には撤去されて、代わりに通風器(トルペードベンチレーター)が設置されました。
その後、緩急車の室内灯は携帯式のランプでも使用したのでしょうが、昭和7年(1932年)に蓄電池式携帯電灯(車掌灯)が開発されて全国に普及しました。
翌、明治45年(1912年)にはワフ5000形 後期車が400両強 製作されました。
上段絵の左から2番目がそれで、前期車に比べて車長が178mmほど伸びて、貨物室、車掌室とも若干広くなりました。
元号が変わり大正元年〜大正4年(1912〜1915年)には、ワフ5000形のマイナーチェンジとして、ワフ20500形が300両ちょっと製作されました。
荷重を10tとし、ワフ5000形に比べて車体がまた少し伸びました。
また屋根も浅くなったので、非常にスマートに感じ、設計が次第に洗練されてきた様子がうかがえます。上段絵の左から3番目がそれ。
後期製作の車両は、妻窓が3枚→2枚に減らされました。形式図からでは判読できませんが、製作年次によって その他の仕様変更もあったことでしょう。
大正2、3年(1913、1914年)には 北海道向けに自動連結器を装備(ただし、取付位置は低い。)したワフ20800形が200両ちょっと製作されました。ストーブを設置した分車掌室が広くなっています。上段絵の右端がそれ。
設計は ワフ20500形の後期車ともどもこれまた変わり 車高が高くなり、車体台枠の構造なども変更されたようです。
中段の絵は室内割りの上面図で ほぼ登場時の仕様ですが、後年、机や区分棚が設置されるようになりました。
こうして比べると、側引き戸が貨物室の真ん中に来るように設計されていることがが分かります。
ちなみに、この側引き戸の部分の空間を“中わた”と言い、貨物を壁に持たせ掛けられないので 積み方に工夫がいる部分です。
なお、上・中段絵は いずれも大正前期の姿で描きましたが、この時代の列車標識はヨーロッパ方式で、前灯・尾灯と側灯の組み合わせ(昼間は色を塗った円盤。)によって臨時列車とか複線区間とかを識別しています。
また、側灯は前方の機関車から後部を確認して 列車分離事故が起きていないかの目印にもなりました。
絵では 各車とも列車最後部緩急車の仕様で描いていますので、側灯も描き加えてあります(夜間仕様の方が見栄えがいいので・・・。)。灯火類は明治期には巨大なランプを使っていましたが、大正時代ともなると電池化されて小形になっています。
ところで、実際にこれら新車が期待されたのは、列車のブレーキ車としての役割です。
大正時代になると列車の長編成化が進みましたが、ネックはやはりブレーキ。
真空ブレーキは列車の前の方が効きが良いので、真空ブレーキ装備車は機関車の次位に何両かまとめて連結されました。
ただ、有蓋緩急車の 貨車としての役割は小口貨物の輸送なのですが、そうゆう貨物は繭玉とかの軽い貨物が多いので、この時代、有蓋緩急車には死重を積んでブレーキの効きをよくする事がもくろまれました。
3tも死重(砂利)を積んだので、これら緩急車の荷重は6tとなってしまいました。
大正時代後期になると、国鉄は真空ブレーキに限界を感じ、空気ブレーキを採用する決断をしました。自動連結器化も大正14年(1925年)に成されています。
空気ブレーキは高性能な貫通ブレーキで、列車を機関士1人で自由にコントロールでき、また、ブレーキ力も強く、長編成にも対応しています。
何かあったら、車掌が非常ブレーキ弁(車掌弁)の紐を引きますが、そうすると制動管の圧縮空気が一気に抜け、各車の制御弁が一斉に動作し、補助空気ダメに貯められた圧縮空気がブレーキシリンダーに供給されて列車は止まります。 ※ 同様に列車分離の時も非常ブレーキが掛ります。
空気ブレーキ化後は これら各形式は死重を降ろし、荷重10tに揃えられました。
そして昭和3年(1928年)には貨車称号改正が行われて、 ワフ5000形とワフ20500形がワフ3300形に。北海道仕様のワフ20800形及びワフ20500形の北海道仕様改造車?がワフ2900形となりました。
下段の絵がそれで、並びは上段絵と同じく左から元ワフ5000形前期車、元ワフ5000形後期車、元ワフ20500形のワフ3300形、元ワフ20800形のワフ2900形です。
バッファ装備から自動連結器に改造された車両は全長が短くなっています。なお、当時の図面では 全長が連結面間距離ではなく、ナックルの厚みを含めた文字通り全長が書かれているので注意が必要です。
ワフ3300系は 戦後、国鉄からは淘汰されましたが、地方鉄道に移籍したものは昭和40年代まで活躍していたようです。
と、まあ分かったようなことを書いてきましたが、この系列の資料はとても少なく、勘違いもあるかと思われますので、お気づきの点がある場合はご教授をお願いします。
関東鉄道 ワフ103形 有蓋緩急車 ワフ105号車/岳南鉄道 ワフ1形 有蓋緩急車 ワフ13号車
右絵の関東鉄道ワフ103形は、大正2年(1913年)と、大正13年(1924年)に計3両が導入されたものらしいです。
スペックは国鉄ワフ20500形の後期車に近いです。
改造で晩年は各車毎に個性がありましたが、絵はワフ105号車。
車掌室窓が1段下がっているのは 他社のワフ3300系でも見られるので、国鉄にも同仕様の車両がいたかもしれません。
岳南鉄道のワフ1形は 寄り合い所帯だったようですが、少なくともワフ12号車と右絵に描いた13号車は、国鉄ワフ3300形と同形態です。
写真を詳細にみると国鉄ワフ5000形前期車に似ていますが、出自は知りません。
昭和40年(1965年)の時点では、ブレーキシリンダーは残されているものの制御弁は撤去されており、車体に+の表記をして社線専用車となっていました。
おそらく、車掌弁(列車に非常ブレーキを掛けられる。)は残されているのでしょうが、短距離地方鉄道ゆえ、制御弁は整備が面倒なので いらないと合理的に判断したのでしょう。
なお、岳南鉄道ワフ1形21号車は国鉄ワフ1形タイプです。
また、記録に残されている国鉄ワフ3300系の私鉄車としては、他に 釧路臨港鉄道のワフ1形や留萌鉄道のワフ3300形、十和田観光電鉄のワフ1形等がありました。
ワフ1形/ワフ600形(ワフ28500形/ワフ28800形) 有蓋緩急車
ワフ20500形などと並行して、明治44年〜大正2年(1911〜1913年)には、荷重8tの小形有蓋緩急車も製作されました。
残された資料が混乱していて実態がよく分かりませんが、ワフ28500形はワフ20800形のように北海道向けだったようで、低い自動連結器とストーブを装備していたようです。
300両ほど製作され、死重積載後の荷重は6t。のちの形式はワフ1形。
後年 空気ブレーキ化により緩急車が余剰となると、ほとんどがワ17000形に改造されたようです。
ワフ28800形はワ19110形の改造との噂もありますが、よく分かりません。車掌室はワフ20500形と同等の広さですが、最大の特徴は車軸に標準軌対応の長軸を採用している事。
どうも死重を積んだ記録が無く、真空ブレーキも装備していなかったと思われます。
1100両ほど製作されて、改番後の形式はワフ600形です。
下段絵 左端のワフ600形は隅に白帯を巻いていますが、空気ブレーキシリンダー装備車を意味しています。
大正14年(1925年)8月〜昭和6年(1931年)2月までの期間限定の仕様で、以降は空気ブレーキを装備している方が標準となったので、逆に空気ブレーキ非装備車に対して“+”のマークが表記されるようになりました。
東武鉄道 ワフ341形 有蓋緩急車/夕張鉄道 ワフ1形 有蓋緩急車
左絵の東武ワフ341形は、同社ワ301形と対となる有蓋緩急車です。
国鉄のワフ1形と違って、貨物引き戸が車体の中央にあります。
屋根にベンチレーターが無いのが少し寂しいですが、昔は付いていたのかもしれません。
ワ301形と共に、昭和40年代初頭まで現役だったようで、その末期の仕様を描きました。
右絵は 夕張鉄道ワフ1形。
やはりこちらも 貨物引き戸が車体の中央にあり、独自設計がうかがえます。
開業に際して昭和元年(1926年)に5両が製作されたとのこと。
国鉄のワフ1系に比べて遅い登場ですが、この頃は国鉄も緩急車の新作の空白域なので、古い設計の流用で製作されたのでしょう。
雪国なので 当然のようにストーブの煙突を装備し、なんか蓄電池積んで貫通扉を備えています。
代用貨物緩急車
これまで書いてきたように、国鉄は列車の長編成化に対応するために 貨物列車の真空ブレーキ化を考えました。
そうして生まれたのが一連の縦羽目板張り標準緩急車で、真空ブレーキを装備してブレーキ車としての役割が重視されました。
そんな緩急車を大量増備はしていたものの まだ必要両数に満たなかったようで、普通の有蓋車に真空ブレーキを装備した“代用貨物緩急車”が登場しました。
これらは普通の緩急車と共に機関車の次位に連結されてブレーキ車として働きました。
そして、ただの有蓋車との識別のため、車体に幅75〜100mmの白帯を巡らせ、車体左端から4分の1の位置に使用線区名や駅名を記入しました。
まあ、大正時代前後の一時の仕様ですが、大正11年(1922年)時点のデータでは元から真空ブレーキを装備していたらしいワ17013形と、真空ブレーキ管を備えていたワ12746形が改造されて代用緩急車となったようで、写真としては関東大震災の被災車両などに残されています。
絵は左がワ12746形、右がワ17013形の代用緩急車です。※両形式について個別の解説は、貨車の絵 その1を参照して下さい。
ところで、有蓋車なら貨物を積まなきゃ勿体ない。
と言っても運用区間・列車が限定されている貨車なので、1車扱いの貨物は積めず、必然的に緩急車と同じように小口扱貨物が積まれました。
小口扱貨物とは貨車1車に満たない貨物を 貨車に積み合わせて、荷扱い車掌が管理して各駅で荷役する貨物ですね。
小口扱貨物が増えると緩急車の代用としての代用貨物緩急車の連結が増え、転じて、いつの間にやら 小口扱貨物を運ぶ普通の有蓋車を“代用車”と呼ぶようになったそうです。
ワフ12100形(ワフ21500形)/ワフ5500形/ワフ5400形(ワフ8000形)/ワフ5340形(ワフ8000形) 有蓋緩急車
大正期、各鉄道由来の6〜7t積 標準有蓋車が増トンされて10t車となる中、車体サイズを変えずに緩急車に改造したものもありました。
汎用有蓋車の大形化も大事ですが、この頃は列車編成が長くなって緩急車も たくさん必要だったのです。
有蓋緩急車の貨物は 小口扱い貨物なので 貨物室容積を統一する必然性は低く、少数派の異端車を改造するにも理に適っています。
正確な改造開始時期は不明ですが、国鉄は大正2年(1913年)から手ブレーキ付き有蓋車のフワ30000形の製作を開始しているので、その頃だと思われます。
これら緩急車は種車や構造の違いで4形式に分かれて増備されましたが、すべて私鉄引継ぎ車です。
日本鉄道、阪鶴鉄道、岩越鉄道、総武鉄道の汎用有蓋車からワフ12100形が約146両、九州鉄道、阪鶴鉄道、七尾鉄道からワフ5500形が約62両、七尾鉄道、関西鉄道、九州鉄道からワフ5400形が約81両、山陽鉄道、九州鉄道、関西鉄道からワフ5340形が約58両、それぞれ改造されました。
どの種車も 比較的 官鉄標準車に近いものが選ばれたと思われますが、ワフ5400形とワフ5340形は小柄で車軸間距離が少し短く、ワフ5340形はさらに山形屋根でもあります。
車体構造としては、ワフ20800形に引き続き 縦板張り(側面のみ)の車掌室を備えましたが、貨物室には手は加えられていません。
昭和3年(1928年)の改番時点で残っていたワフ12100形はワフ21500形に、ワフ5400形やワフ5340形は雑形有蓋緩急車としてワフ8000形に まとめられました。
ワフ5500形は、官鉄標準車に仕様が近いので 増トンして汎用有蓋車化されたと推測します。
その後、順次空気ブレーキ使用列車が増えていったため 廃車や改造で急速に淘汰が進みました。
ワフ6500形 有蓋緩急車
ワフ6500形は、空気ブレーキの採用で余剰となるフワ30000形を 9t積有蓋緩急車に改造したものです。というか、フワ30000形がよっぽど不評だったのか、まともな緩急車にしたのが真相のようです。
当初の形式はワフ21650形で、大正13年(1924年)から418両ほどが改造されました。
改造内容はフワ30000形の側ブレーキを撤去して、制動手室部分の空間を車掌室に改造した程度で、車掌室の側面は仕様の過渡期だったので、縦板張りと横板張りのものがあります(妻面は どちらも横羽目板。)。
また、来たる昭和5年(1930年)には列車の空気ブレーキ本実施が見込まれていたため、真空ブレーキは装備されなかったようで、順次空気ブレーキ装置を装備していきました。
ただ、有蓋緩急車という形式自体、空気ブレーキ化が達成すれば余剰となる形式なので、昭和7年(1932年)には豚積車の改造種車として選ばれ、百数十両がウ100形とウ200形に再改造されました。
なお、ワフ6500形の写真は少なく、上記述や絵は、ウ100形とウ200形の写真から推測も交えています。
また、ワフ21650形の形式図には 室内の一部に謎の仕切りが描かれています。
これは、ワフ21650形の登場時点ではまだ、有蓋緩急車にブレーキの効きをよくするための死重積載が行われていたため、死重の砂袋の上に棚(上げ底床)を作って貨物を載せやすくしたものらしいです。
死重の搭載終了と共に 棚も撤去されたことでしょう。
※フワ30000形は、貨車の絵 その1を、ウ100形、ウ200形は、貨車の絵 その10を参照して下さい。
ワフ7500形 有蓋緩急車/小坂鉄道 ワフ300形 有蓋緩急車
他の有蓋緩急車の項で触れていますが、空気ブレーキ化以前のブレーキ車として期待された緩急車は、真空ブレーキを装備したものと、していないものに分類され、どちらも死重の砂袋を積んで空荷でもブレーキ力を確保できるようにされていました。
ワフ7500形も その役目のために作られた形式で、大正13年(1924年)から各鉄道由来の6〜7t積 標準有蓋車を改造しました。
荷重は6t(死重撤去後は8t)で、車体サイズは有蓋車時代と変わりありません。
昭和3年(1928年)の改番前の形式は ワフ28200形(83両)とワフ28770形(14両)で、両者はスペックも形式図も同じで、何で形式を分けたかは不明です。
左絵が形式図を元に描いたワフ7500形で、ご覧のように貨物引戸を車端に寄せる改造をしています。
これは死重の砂袋をバランスよく車体中央に載せたためらしく、ワフ6500形(ワフ21650形)と同じく その上は上げ底構造となっていたようです。形式図にもその棚のラインが記入されています。
なお、絵の時代は昭和6年以降で、まだ空気ブレーキを付けて貰っていない姿。
制動力は重い貨車の方が効果が得られるので、緩急車と言えどブレーキシリンダ装備の優先順位は高くなかったのかもしれません。緩急車としては車掌弁(非常弁)があれば充分です。
右の絵は小坂鉄道のワフ300号車で、国鉄のワフ7500形を昭和28年(1953年)に購入したものだそうです。
で、ワフ7500形の形式図と見比べてみると 貨物引戸の位置や車掌室の感じが違っており、元のワフ7500形にバリエーションがあった事が伺い知れます。
ヨ1形 車掌車/ヨ1500形 車掌車
先に記したように、緩急車はもともと有蓋車や無蓋車の中で手用制動機を備えたものでしたが、当然貨物優先で車掌室は狭く、乗務環境は厳しいものでした。
また、空気ブレーキが採用されて緩急車の連結数が減ると、車掌の乗る場所も減ります。
編成が長大化され小口扱貨物が発展すると、貨物を荷捌きする荷扱い車掌も乗務する必要があります。
そこで、大正15年(昭和元年 1926年)に誕生したのが事業用貨車である車掌車です。
ただ、誕生とは言うものの 非営業の車を新製した訳ではなく、ちょうど余っていた2軸古典客車を改造して済ませました。
大まかに片側デッキ式に改造したものをヨフ6000形、元から両側デッキ付きだったものをヨフ7000形に形式を分け、昭和3年(1928年)の称号改正で それぞれヨ1形、ヨ1500形となりました。
種車は さすが古典車両だけあり、各鉄道から引き継いだ それこそ1両毎に異なる代物。ヨフ6000形が603両、ヨフ7000形が64両改造されました。
2軸客車・・・通称マッチ箱は、当時ですらオンボロ車両でしたが、元が客車なのでバネは柔らかく、乗り心地はワフよりも良かった事でしょう。
ヨ1形もヨ1500形も デッキの数以外は車体の大小にかかわらず 室内レイアウトは全く同じであり、区分机の椅子は2名分ですが3名位の乗務を想定しているようで、他に2m弱のロングシートが2ヶ設置されています。
手ブレーキは車内にあります。
トイレも新設したようで、ヨフ6000、ヨフ7000形全タイプの形式図に それらしきものが描かれています。長距離貨物列車に専用で運用することを想定したのではないでしょうか?
たしかに、ヨフ7061号車の形式写真に、古典客車に特有の 軌道内側に曲がったトイレの流し管のようなものが写っていますし、ヨフ6000・ヨフ7000形用の手洗いタンク用部品の図面というのも残されています。
しかし、実際に全車に新設されたかは不明で、また、後年に撤去されたものと思われます。
絵は、右からヨ1形とヨ1500形のそれぞれ多数派のタイプ。図面を元に、かなり想像で描いています。右端は写真の残されているヨフ7061号車、の改番後。こんな車が昭和20年代末期まで走っていました。
写真が ほとんど残されていないので なんとも言えませんが、窓ガラスは、時代を経るにつれ 多くが板で塞がれたのではないかと考えています。
名古屋鉄道 ワフ70形 有蓋緩急車
名鉄ワフ70形は、愛知電気鉄道のワフ330〜332号車が出自の昭和3年(1928年)製の10t積有蓋緩急車です。
名鉄の東部地区で活躍し、緩急車としてはめずらしく 国鉄乗り入れ車でした。
名鉄の貨物列車は支線区では緩急車省略が多いので、ワフは緩急扱い用というより 小口扱い貨物輸送用に活躍したのでしょうか?
ワフ70形は晩年に一部が瀬戸線に移籍し、昭和53年(1978年)まで活躍しました。
絵は手摺やステップが黄色に塗られる前の昭和30年代の姿。
南海電気鉄道 ワブ501形/ワブ551形 有蓋緩急車
南海電鉄ワブ501形は、昭和5年(1930年)に38両が製造された8t積有蓋緩急車です。当初はワブ1形を名乗っていましたが、戦後に改番されました。
ワフでは無くてワブなのは南海の伝統です。
国鉄緩急車に先んじて鋼製で作られ、屋根まで鋼板張りなのが特徴です。晩年まで窓枠の美しいニス仕上げが目立ちました。
当初は空気ブレーキを持っていませんでしたが のちに装備し、未装備のものはワブ551形に区分されたようです。
昭和40年代に入ると 有蓋緩急車の積荷である小口扱貨物も少なくなり、貨物室側に入換添乗用のデッキを設置し、電灯用車軸発電機も装備して なかば車掌車化されました。
荷重は1tに減じられ、一応貨物は積めますが、側引戸は全開できなくなりました。
絵は左からワブ551形、ワブ501形、ワブ501形デッキ増設改造後。
南海ワブ501形は、何両かが他私鉄に譲渡されており、現在も富士急行に残存しているようです。
ワフ21000形/ワフ121000形 有蓋緩急車
ワフ21000形は、古典緩急車の置き換え用に 昭和8年(1932年)から昭和14年(1939年)にかけ、775両が登場しました。
ワフ21000は 近代的で隙間風の少ない鋼製車体となり、車掌室は2名用で広く取り 乗務環境は大きく改善されました。
車掌車並みの設備で、書類整理の区分棚も装備され、机も広くなり、ロッカーも備えていて、まるで走るオフィスです。
逆に貨物室は2トンと小さくなっていますが、これは小口扱貨物の中でも貴重品や鮮魚等 特殊な貨物を積むのに使いました。
貨物室の床は鮮魚の水気対策なのか 荷摺木を敷いています。
車掌室が主で貨物室が従になったので、積車時のバランスを考慮して車軸間距離を長くしたうえで貨物室側に片寄らせた設計とし、また、空車時の連結器高さも前後で変えてあります。
この設計は、以降の緩急車にも反映されています。
戦後は まずストーブが設置され、そのためのベンチレーター状の煙突が屋根に付きました。
昭和42年(1967年)には 自転車のライトの発電機のような簡易発電機が開発されて 順次装備されましたが、発電機は車輪の裏側に隠れ、小さなバッテリーは車内ですので 外からは変化がありません。
昭和43年(1968年)の貨物列車75km/h化に際しては、本車は最高速度65km/hであったため 足廻りを改造する事になりました。
しかし全車は改造されず、一部は最高速度65km/hのまま北海道に封じ込められる事になり、形式をワフ121000形に変更しました。
絵は左から戦前 公式側。足廻り改造の晩年 非公式側。北海道のワフ121000形 非公式側。
北海道の車両のストーブ煙突は 火力を増すためか高いのが特徴で、絵はT字煙突に換装されたタイプです。
ヨ2000形 車掌車
ヨ2000形は昭和12・13年(1937・1938年)にかけ 100両が作られた 初の新製車掌車です。
車掌3名用で、基本構造はワフ21000形に準じますが、こちらは車掌専用なので足廻りに柔らかいバネを使い、乗り心地を良くしています。
そのため、当初から最高速度75km/hでしたが、昭和42年(1967年)には さらに足廻りを改造(2段リンク化)して 最高速度85km/hとしています。
絵は左が鉄道省時代。右が電灯・暖房設備完備、信号炎管設置の晩年の姿。
なお、緩急車側面の信号炎管ですが 写真を確認すると、昭和45年(1970年)以降順次 取付が開始されているようです。
手ブレーキ側デッキのステップと手スリの白塗装は昭和46年(1971年)から正式化しましたが、四国配置のものは一時期 前後デッキとも手スリ&ステップを塗っていました。
ワフ25000形 有蓋緩急車
ワフ25000形は 昭和13年〜昭和17年(1938〜1942年)に775両が製作された有蓋緩急車です。
先に登場したワフ21000形は 旧形車掌車の置き換えも視野に入れて車掌定員2名で設計されたのですが、ワフ25000形は旧形有蓋緩急車の更新用のため 車掌定員1名です。
なお、他の形式でも言える事ですが、車掌定員1名といっても それは車掌がデスクワークするための机等の設備の数であり、ワフ25000の車掌室は タタミ2枚以上の広さがあるので便乗者も乗せられます。
荷重は8トンで、デザイン的には明治・大正期の有蓋緩急車と同じですが、車体はワム23000形に準じた構造です。
さて、このワフ25000形。戦後には多くがワフ35000形に改造されましたが、その他にも改造種車として好適だったようで、ここに2例紹介いたします。
まずは高松琴平電気鉄道 11000形 制御客車。
戦後の車両不足には どこの鉄道も困っていたのですが、琴電は国鉄からワフ25000形を6両譲り受けて、昭和23年(1948年)に制御客車としてデビューさせました。
改造内容は輪軸を標準軌とし、元の車掌室に制御機器を置き、貨物引戸を旅客用に改造して ついでに客室に窓を開けています。
標準軌となったので車体の安定性は良くなったかも知れませんが、のちに一部の車は乗り心地を改善すべく2軸電車の単台車に振り替えており、さらに異様な姿になりました。
当時からゲテモノとして有名だったようで、写真も多く残されているのですが、1110号車の1枚以外 どの写真も制輪子さんは行方不明です。
運用は電動車の前後に付けてのTMT編成との事ですが、電動車の制動力だけで充分との判断かもしれません。
屋根にはヘッドライトとホイッスル。なお、車両間のジャンパー線等は どのようなものだったか不明。
塗装は 写真を見ると どれも明るく見え、私の絵は当時流行の 軍放出 航空機塗料っぽく仕上げてみました。
お次は、簡易暖房車こと ヌ100形。
くわしくは客車の絵を参照してください。
形式はヨ7000形→ヌ1000形→ヌ100形と変化しています。
名古屋鉄道 ワフ50形 有蓋緩急車
名古屋鉄道ワフ50形は、名鉄の一般貨物列車の末期の昭和55年(1980年)まで活躍した有蓋緩急車です。
この車は、もともと名古屋電気鉄道が小口扱い貨物の路面輸送を考えて大正元年(1912年)に35両製作した デワ1形電動貨車が種車のようです。
ところが、この名古屋市内の貨物輸送は認可されず、デワ1形はせっかく作ったのに余剰化してしまったため、大正7年(1918年)に12両が有蓋車に改造されました。
その後、数度の大改造を経て、このように国鉄ワフ6500形のような外見となりました。
ワフ50形は当初は名古屋本線の西部線で活躍しましたが、他の小形緩急車が廃車される中、順次他線に進出して晩年の名鉄貨物輸送のしんがりを務めました。
ワフ28000形 有蓋緩急車
ワフ28000形は、ワフ25000形の戦時設計版で昭和19、20年(1944、1945年)に250両が誕生しました。
ワム23000形を木体化してワム50000形が誕生したのと同じ経緯で、塗料が用意できない場合は無理に塗装しなくても良い事になっていました。
塗装省略と言ってもメーカーでは なるべく塗装に努力したようです。
なお、木部未塗装車体の車体表記部分の色がちょっと違うのは、ニス等で下地塗装をしたためと思われます。
通風装置は、古い車両から外したトルペート形2個装備が元設計ですが、戦後の換装か はたまた製作時からのものなのか、ガーランド形1個のものも多く見られます。
ワフ28000形はちょっと更新改造には不向きで、昭和30年代末には淘汰されています。
ヨ2500形 車掌車
時は昭和22年(1947年)。
相次ぐ列車事故に業を煮やした進駐軍は、「すべての貨物列車の最後尾に必ず緩急車を連結せよ。」という命令を出しました。
当時は、地方線区などに緩急車を連結しない貨物列車も多数あったようです。
ところが 急にそんなこと言われても車掌車が不足するため、古典貨車のワ1形有蓋車を改造して まかなう事にしました。
実は すでに戦時中の昭和19年(1944年)に、ワ1形を改造した車掌車の図面が引かれており、その仕様を参考にしたようです。※↑の左端絵が当初案。
改造内容は、側引戸を乗降扉に改造し、窓を側妻面に開け、中にイスや机、車掌弁(非常弁)を設置するもので、どこの廃車体から外してきたのか、古典的なトルペート形ベンチレイターを屋根に乗せていました。
現車では側ブレーキが残されているため、手ブレーキは省略された可能性がありますが、少なくとも先述の原形仕様では 室内に手ブレーキを装備しています。
ヨ2500形は700両が改造されましたが、元々のワ1形の仕様が雑多に富み、また工場によっても改造内容に個性が見られ、ヨ2500形の形態は千差万別です。
そして、ただでさえ古い貨車です。写真を見るとヨの記号の隣に“H”が書かれているものがありますが、これは 昭和19年(1944年)からワ1形やワ17000形の状態不良車の運用制限の記号で、ヨ2500形にも引き継がれました。
有蓋車用の最悪の乗り心地の足廻りと、隙間風だらけのオンボロの車体に乗務員は泣きました。ひどい車輌は 窓ガラスも無かったそうです。
そんなヨ2500形も徐々に整備はされましたが、昭和34年(1959年)までに全廃されました。
ワフ22000形/ワフ122000形 有蓋緩急車
古典緩急車は戦後も相当数残っており、その更新用として新製再開したのがワフ22000形です。
昭和22、23年(1947、1948年)に975両が製作されました。
基本的にはワフ21000形と同じですが、資材の節約なのか車軸の短いものを使っています。
その後の経緯もワフ21000形と同じです。
絵は左からストーブ設置前 非公式側。足廻り改造の晩年 公式側。北海道のワフ122000形 公式側。
もともと 緩急車は全国共通運用が基本でしたが、色々用途や設備に差が生まれると、配置区が決められるものが多くなりました。
そんな緩急車には 大きな管理局名標記が見られましたが、これは昭和47年(1972年)から客車同様の小さな標記(管理局名+配置区略名)に変更になっています。
ヨ3500形 車掌車
ヨ3500形は、戦前のヨ2000形を改良して製作再開した形式で、最初からストーブを設置し、量産途中から電灯設備も標準装備となりました。
昭和24〜33年(1949〜1958年)に1345両が作られています。
絵は左が初期車の電装後でヨ2000形類似の車体。右が中期車の晩年の姿。
電灯設備は装備時期によって仕様が違い、改造で取り付けられたものは大形の蓄電池が目立ちます。
ところで側面に書かれているCの字は 何でしょう?
戦後、緩急車の装備の違いによって配置区が決められていったのですが、ヨ3500形のようなストーブや電灯を備えた緩急車は、バッテリーや燃料の管理上 運用が指定されるようになりました。
当時はまだ 充電が出来る貨車区も限られていたのです(ちなみに昭和30年代中頃には、バッテリーの充電のために緩急車の運用が制限されているとして、小形ディーゼル発電機の搭載が研究されています。)。
ストーブや電灯を備えた近代的緩急車は特殊貨物緩急車と呼ばれ 運用方も決められました。
まず、最高速度85km/hの特急貨物、急行小口貨物用緩急車は、側面の運用票板に 運用行路が書かれました。
運用行路とは、車両が自区を出てから列車を渡り歩いて、また自区に帰って来るまでを表にしたものです。
該当車両はワムフ100形、ヨ5000形、ヨ6000形です。
次に、もっと大まかな管理で、全国をABCの3つの線区に分けて その線区内に かこった緩急車を自由に運用するものとして、最高速度75km/hで電灯・ストーブ装備のヨ2000形、ヨ3500形、ワフ29500形等が選ばれました。
側面の運用票板にはA・B・Cの全国幹線区線区別指定運用の記号が書かれました。
鳥栖〜長岡操車場間(東海道・中央・上信越周り)がA線区。米原〜青森間(日本海縦貫線周り)がB線区。田端操車場〜青森間がC線区です。
この標記は、写真を見ると おおむね昭和40年代を通して書かれているようで、昭和50年代には消されています。
私が確認した配置区との関連は、Aが新・高・東・静・大・門・南で、Cが仙・東・水です。B表記は金とか新とかがあるはずだけど、写真が見つかりませんでした。。。
緩急車は、蒸気機関車の写真と良く写っているので、よく観察してみましょう。
最後にストーブのみ設置の車は、幹線区共通運用車は白線一条。支線区運用のものは指定運用の標記です。
これらの細かい運用の管理も、全部の緩急車に電灯が装備されると必要が無くなりました。
ワフ29000形 有蓋緩急車(原形)
ワフ29000形はワフ25000形の戦後版で、荷重は7トン。最高速度65km/h。
戦後の1950年代の緩急車は主に、車掌車のヨ3500形が作られていたのですが、編成の短い支線区では 貨物の積める有蓋緩急車が求められました。
ワフ22000形では荷重が少なすぎるので、新規設計とし、昭和29年(1954年)に100両が製作されました。
後年、ワフ29500形に準じた改造が施されて、まったく別の姿になっています。
ワフ29500形/ワフ35000形/ワフ29000形(更新) 有蓋緩急車
ワフ29500形はワフ29000形の改良形として昭和30〜36年(1955〜1961年)に650両が作られました。最高速度75km/h。
ワフ29000形は車掌室が2人乗務には狭く、またデッキが無いので 入換作業時のブレーキ操作に不向きでした。
そこでワフ29500形は 荷重を5tに減らして車掌室を広げ、デッキも設置して、なおかつ当初から電灯設備を有する近代的緩急車となりました。
この設計変更は成功で、続けてワフ25000形を改造してワフ35000形に、ワフ29000形は全数がワフ29500形と同様の仕様に改造されました。
絵は上からワフ29500形、ワフ35000形、ワフ29000形。 ワフ29500形の公式側は ブラインドを半分下げた状態。
各車 外見的には見分けがつきませんね。 ワフ35000の屋上通風器の位置は 何パターンかあるようです。
ところで、有蓋緩急車の積荷ですが、これは小口扱貨物が主体です。
小口扱貨物とは、貨車1両を借り切る車扱には及ばない小量の貨物を運ぶものです。
多くの場合 他の荷主の貨物と混載となり、車掌が荷扱します。
支線区では 混載しても なお貨車1両に満たない事が多いので、有蓋緩急車がちょうど良いのです。
この小口扱貨物は、当初より旅客車で運ぶ小荷物輸送と境界が曖昧であり、昭和49年(1974年)10月に小口扱貨物は廃止されて 小荷物に統合されています。
それ以降、一部は郵便荷物車代用や事業便とかの特殊用途に活躍したかもしれませんが、ワフの貨物室はカラの事が多くなったようです。
有蓋緩急車は 車掌車と同じ使われ方をされましたが、バネは固くて乗り心地は悪くても、車室が狭い分 冬季の暖房の効きが良く、乗員から好まれたようです。
ヨ5000形 車掌車
国鉄の車掌車と言えば これ。
ヨ5000形は高速小口扱列車や、コンテナ列車の緩急車として、ヨ3500形を最高速度85km/hの仕様とし、電灯を整備したものです。
昭和34(1959年)からヨ3500形改造し、また、昭和37(1962年)には新製車も登場して、総数1178両となりました。
ヨ5000形の一部は昭和34(1959年)にデビューした「コンテナ特急 たから号」用に コンテナと同じ淡緑3号(のちに黄緑6号)+赤3号の塗装で活躍しました。
絵は上段がヨ3500の改造車。下段は新製車。たから号塗装は新旧2種を描きました。
ヨ5000形 5800番代 車掌車
ヨ5000形 5800番代は、国鉄末期の昭和52年(1977年)に、九州の石炭緩急車セフ1形を置き換えるために改造されたタイプです。
九州の石炭列車に運用するとなると ネックとなるのが石炭積み込み施設のホッパーの低さです。
石炭列車は基本的に編成ごとホッパーに押し込まれるので、低屋根化改造が必要でした。
29両が改造されましたが、石炭列車は年々削減され、緩急車の連結も廃止されて 活躍期間は短いものでした。
ヨ6000形 車掌車
ヨ6000形は昭和37〜44年(1962〜1969年)に905両が製作された車掌車です。
従来の車掌車は3名乗務対応でしたが、この頃には荷扱い車掌も乗らなくなったので 定員を2名とし、車体長を短くしています。
車体長を短くして軽くなった分 場合によっては1両多くの貨車が列車に連結できるわけです。
また、昭和43年(1968年)製の車から ストーブが石炭燃料のダルマストーブから石油ストーブに変更され、従来他形式の緩急車も 順次石油ストーブに換装されました。
その識別のため、石油ストーブ車は デッキ妻板に横白線を引いています。
石油ストーブは従来のだるまストーブよりも効きが良く、乗務員から喜ばれたようですが、わざわざ遠くから見えるように標記までしたのは、運用前の燃料準備の関係だと思われます。
ヨ9000形 車掌車
ヨ9000形は10000系貨車の列車に連結すべく、最高速度100km/hの車掌車を試作したものです。
10000系貨車にはコキフやレムフがありますが、合造車は運用効率が悪く、2軸車での高速緩急車を目指したものです。
昭和42年(1967年)に2両が試作されましたが、高速走行はどうしてもうまくゆかず、失敗しました。
ただ、走行試験終了後も そのまま廃車される事なく、九州地区の石炭列車用に有効利用しています。
その際、75km/hでの走行も不安な特殊台車のため、最高速度65km/hとなり黄帯を巻きました。
車体の方はヨ6000形がベースですがトイレを設置しており、1人乗務用なのでのちのヨ8000形の試作車的側面もあります。
ヨ8000形 車掌車
従来より緩急車は慢性的な車両不足にあり、老朽緩急車も置き替えなければならなかったのですが、その解決策として昭和49〜54年(1974〜1979年)に1173両が投入されたのがヨ8000形です。
昭和44年(1969年)から 貨物列車の緩急車には車掌の代わりに 車掌業務と検査業務を兼務する“列車係”が乗務する事になりました。
どんどん合理化がすすめられ、それを受け ヨ8000形の車掌定員はついに1名になりましたが、走行安定のためには むやみに車長を短くできません。
そこで車掌室だけを小さくした凸形車になりました。室内が狭いので暖房の効きも良くなります。
また トイレも完備し、その設計はコキフ50000形コンテナ緩急車と ほぼ同じ物となっていますが、良く見ると製造当初から個体により細部にバリエーションがあります。
ただ、残念な事に登場時期が遅すぎました。
国鉄は貨物縮小の真っただ中にあり、昭和60年(1985年)には貨物列車の緩急車連結の廃止。
機関車に列車係を乗務させ、それも全国に列車防護無線が採用されると 貨物列車は運転士1人乗務となりました。
昭和62年(1987年)のJR移行時までには ほとんどの緩急車が廃車され、ヨ8000の活躍は短かなものでした。
ヨ8000形は 現在も特大貨物や甲種貨物に連結される事がありますが、乗っているのは車掌ではなく検修社員です。
なお、ヨ8000形の屋根色は黒色で、通風器のみFRP成型色の灰色が正規でしたが、のちにマスキングを省略して全部黒になりました。
東武鉄道 トフ951形/トフ1001形
東武では従来、貨物列車の車掌乗務車両として 有蓋緩急車や無蓋緩急車を使用していましたが、狭くて振動の激しい乗り心地の悪い車両であり、そのくせ乗務区間も長いため、戦後も落ち着くと車掌の労働環境改善が求められました。
そこで作られたのが本形式。トフ951形と、トフ1001形です。
どちらも古い貨車の下廻りを生かした改造車で、写真を見るにトフ951形は大正前期の短軸を使用した貨車が種車で、トフ1001形は大正後期の貨車が種車のようです。
改造では まずバネを柔らかいものに変更し、車体中央に大き目の車掌室をでんと載せ、補助ブレーキを手ブレーキとしました。
余った車室前後のスペースは、煽り戸の低い無蓋貨物積載スペースとしましたが、あまり積めそうにありません。
しかし、東武では砂利輸送の専用列車も走っていたので、当初は普通に砂利を積んでいたかもしれません。
煽り戸は1人でも開閉できるサイズなので、事業便輸送でも活躍したでしょう。
この貨車が、次の東武の車掌車へと発展してゆく事になります。末期には淡緑色の車両もいました。
東武の車掌車 ヨ101形/ヨ201形/ヨ251形
東武鉄道の車掌車といえばコレ。
もともと東武鉄道の緩急車はトフかワフが使われていましたが、居住性の改善を目的に昭和40年代に作られたのが ヨ101形(42両)、ヨ201形(20両)、ヨ251形(13両)です。
東武鉄道は私鉄の中でも貨物輸送の規模が大きく、合わせて75両もの車掌車が自社工場で作られました。
作られたと言っても、いずれも古い無蓋車などの改造で、3形式で下廻りが違います。どうやらヨ101形>ヨ201形>ヨ251形の順で種車が古いらしく、ヨ251形は短軸です。
車体に対して小さな車室の凸形という点では国鉄のヨ8000形に似ていますが、東武の車掌車は無蓋緩急車から独自発展したものです。
ヨ101形は出入口デッキ部に大きな屋根が出ていますが、ヨ201形、ヨ251形はヒサシで済ましています。また、各形式とも1位側のデッキには出入り出来ず、手スリというより立入禁止の柵が巡らせてあります。
ヨ101形やヨ201形の中には 葛生の大叶線用に、推進運転用の警笛を備えたものもいました。
そのほか、デッキ上の腰部箱の数など 両数が多いだけに色々形態にバリエーションがあったようです。
塗装も変わってて、独特な灰緑色。これは東武車籍の住友セメント私有貨車ホキ101形に合わせたようで、セメントの汚れが目立たない色らしいです。デッキ端面は黄色と黒のトラ塗りです。
また、窓から見える遮光用のカーテンがおしゃれでした。
国鉄が緩急車の連結をやめても、東武鉄道では貨物の末期まで車掌車が連結されていました。最後に残されたヨ101形は、昭和61年(1986年)から茶色塗装となっていました。
西武鉄道 ワフ1形 有蓋緩急車
西武鉄道ワフ1形は、老朽化した木造有蓋緩急車を置き換えるため、ト31形無蓋車(貨車の絵 その2を参照。)の改造で 昭和41年(1966年)から9両が製作されました。
といっても、近代化したのは車体だけで 足廻りは何とも古典的です。当然、改造は自社の所沢工場です。
大きな曲線の屋根の小粒な車体で、青色塗装の なんとも私鉄らしい造作です。
一般貨物列車のしんがりを務めていましたが、のちに黒色になってしまいました。
西武鉄道 ワフ101形 有蓋緩急車
西武鉄道ワフ101形は、西武秩父線開通に伴うセメント列車に使用するために 鉄側有蓋車のスム101形(貨車の絵 その12を参照。)の新製車を改造した有蓋緩急車です。
昭和44年(1969年)に7両が 西武所沢工場で改造されました。
この車の特徴は、国鉄乗り入れ車だった事で、西武秩父線 横瀬から、鮮やかな青色の私鉄緩急車がセメントタキ編成の前後に連結されて 国鉄 隅田川駅まで乗り入れていました。
のちに 国鉄に合わせて信号炎管を車体側面に装備し、塗装も黒色になってしまいました。
有蓋緩急車を名乗っているものの 荷重は1トンで、国鉄の車掌車と同じ柔らかいバネを履いています。
屋根に至る手すりなど、造形に電車的要素が感じられますね。
小湊鉄道 ワフ1形 有蓋緩急車/秩父鉄道 ワフ40形 有蓋緩急車
左絵の小湊鉄道ワフ1形は、小湊鉄道開業用として大正13年(1924年)に2両が新製されました。
構造は、国鉄ワム1形の一端に車掌室を設けた感じです。なお、小湊鉄道ではワム1形も3両新製しています。
同社の貨物営業廃止後も残存し 長寿を誇りました。絵は晩年の姿。
一方、右絵の秩父鉄道ワフ40形は、国鉄ワム3500形の譲渡車を種車に 有蓋緩急車に改造したもののようです。
ワフ41〜43号車まで存在し、荷重は9t。一応、昭和50年代末期まで在籍していたようです。
秩父鉄道 ワフ50形 有蓋緩急車
秩父鉄道ワフ50形は、老朽緩急車の置き換えのため スム4000形を昭和54年(1979年)から9両改造したものです。
改造内容は大胆かつ近代的で、ストーブや車軸発電機・蓄電池を装備しています。
従来の側引戸を封鎖して車掌室にしているので、ワフを名乗っているものの実質 車掌車です。荷重表記もありません。
ただし、3分の2程度は貨物室を残しているので、小荷物をデッキ〜車掌室経由で積むことはできます。
昭和62年(1987年)の秩父鉄道緩急車連結終了時まで活躍しました。
秩父鉄道 ヨ10形 車掌車
秩父鉄道ヨ10形は、老朽化した大正14年(1925年)製のヲキ1形鉱石車を改造して 緩急車に仕立てたもので、昭和43年(1968年)に10両が製作されました。
おそらく、老朽有蓋緩急車の置き換えを意図したものと思われます。 車掌車としては少し贅沢な ボギー車なのが特徴です。
車掌車への改造は 種車のホッパーを撤去して、フレームはそのままに 車掌室を載っけて、台車の枕バネを1列 抜いています。
ちなみに、ヲキ1系の鉱石緩急車 ヲキフ10形は、ホキ10形バラスト散布ホッパ車に改造されています。
伊豆急行 ワフ20形 有蓋緩急車
昭和36年(1961年)に開業した伊豆急行ですが、もともと国鉄の計画路線でもあり、当初から貨物需要がありました。
特に特産のミカン輸送が旺盛で、緩急車は東武の中古ワフ2両をワフ10形として使っていましたが、老朽化により新たに用意されたのがこのワフ20形です。
ワフ20形は昭和46年(1971年)に秩父鉄道のスム150形を改造したもので、同鉄道の貨物列車廃止翌年の昭和56年(1981年)に廃車になりました。
近畿日本鉄道 ワフ9861形 有蓋緩急車
近鉄の有蓋緩急車は、合併を繰り返して誕生した会社のせいか 1形式1両が多く、しかも かたちも さまざまです。
おとなしい姿の近鉄ワフも多くありますが、ここでは一番目立った存在のワフ9861形を目測で描きました。これも1両のみの存在。
見てのように丸屋根で、明治時代の2軸客車を ほうふつとさせますが、経歴不明です。
側引戸の構造が大阪鉄道タイプなので、古くから緩急車として南大阪線で活躍していたことでしょう。
荷重は8tで、写真撮影時期により デッキ廻りの造作に差異があります。
南大阪線所属ですが、南大阪線の貨車は吉野線にも乗り入れており、この車は「吉野口駅構内乗入れ承認車」。つまり吉野口駅の国鉄構内までは自由に入れます。
キ100形 単線ラッセル雪掻車
キ100形は、昭和3年(1928年)から製作された単線用ラッセル除雪車です。
基本的な構造はキ1形に準じていますが、鋼製となり、キ1形で試行錯誤された装備を最初から備えたため、車体は大型化されました。
特に 翼等の動力源として空気ブレーキ用の圧縮空気を流用しており、当然ながら最初から空気ブレーキを装備して登場しています。
途中、昭和18,19年(1943,1944年)製造の単線用ラッセル車は、戦時設計で木造車体のキ400形が19両製作されましたが、戦後に鋼体化改造がなされてキ100形に編入されました。
キ100形は、昭和31年(1956年)まで毎年ちょっとづつ増備され、194両の所帯となりました。
キ100形の先頭部の形状は、キ1形に引き続き米国の輸入車を参考にした延鋤形と言われる形状で登場しました。
上段絵のものがそれにあたり、キ100〜キ143号車が該当するようです。
昭和11年(1936年)から製作のものは、中段絵のように札幌鉄道管理局で開発された流線形という形となりました。
しかしこの形状は、北海道のサラサラ雪には適していましたが、新潟地区の湿った重い雪では 雪がこびり付いてしまって思うように除雪できず、新潟では独自に次の直線形を開発しました。ちなみに北米では今でも延鋤形を使っています。
直線形は昭和14年(1939年)に新潟鉄道管理局で改造した2両が最初です。
湿った雪に効果的だったため翌年以降、増備されました。
この形状は北海道の雪質にも効果があり、工作も簡単で、特にフランジャ装置の設置も容易になることが分かったため、従来の延鋤形や流線形、キ400形の鋼体化改造車も順次直線形に改造されました。
中段絵の右端が 流線形の直線形改造タイプです。
初期の直線形は ラッセル天板の形状が流線形のものと同一でしたが、下段絵のごとく途中で設計変更が行われ、直線形の完成形となりました。
残された写真で確認したところ、209号車までは流線形で、213号車はこの形状です。
操縦席の形状は ごく初期は完全な平妻3枚窓でしたが、3枚窓の左右を後傾させた台形を経て、最終的には鋭利な楔形4枚窓となりました。
この窓の改良は、いずれも雪の付着をなんとか防ぐための工夫あり、中段真ん中の絵のように前面見通しを確保するために大型のフードを設置したりもされました。
それでも雪が付着するため、結局は側窓から顔を出して前方注視したようです。
戦後になると船舶用の旋回窓の効果が確認され、旋回窓付き2枚窓に改造されました。
なお、前灯や作業灯、汽笛にも着雪防止用フードを被せたものが多いいです。
汽笛は前方の他にも後方にも備わり、後を押す機関車に 汽笛で速度指示をしていました。
室内にはダルマストーブが備わり、煙突が操縦席屋上に伸びています。改造で蒸気暖房管を備えた車両もいました。
前頭部で跳ね飛ばされた雪は、車体中間の翼に当たり さらに遠方に飛ばされます。
翼は最大全幅4.5mまで開扉でき、上中下の3段階150mmの範囲で上下動します。翼を一番下げると、レール面上10mmとなります。
翼に斜めに張り付いた菱形は雪案内と呼ばれ、これによって雪の飛び方が変わるため、配置や角度に試行錯誤が繰り返されました。
翼のヒンジは初期車は4段ありましたが、扉の開閉に却って抵抗となるため、後年 ほとんどの車両は2段に改良されています。
ラッセルの最先端には レール内側の雪を除雪するフランジャ装置が付いており、これはレール面下50mmまで上下動できます。
その他 似たような装置として、前位台車前にレール内側の氷を削り取る 砕氷器 が備わっています。こちらはレール面下35mmまで下げられます。
これら装置は 分岐器や踏切踏板等の障害物があると引っかかってしまうので、除雪車には線路を熟知した保線区員が乗り込んで、翼と共に操作を担当します。
絵では下段右から2つ目に、各装置が動作している状態を描きました。
翼やフランジャ等の動力源は圧縮空気が用いられ、そのためのタンクが屋根上に並んでいます。
エアの供給は機関車から空気ブレーキ管を通して行われますが、タンクが大容量なため 込めるのに時間が掛かり、場合によってはブレーキ操作にも支障する恐れもあるため、元空気ダメ管から供給できるように改造された車もあります。
ラッセル雪掻車の台車は特殊で、特に前位台車は軸距が短く バネの無い台車を採用しています。バネがない事で レール面上の正確な高さを除雪できるわけです。
そんなだから制限速度は65km/hで、ヨンサントウ以降は速度制限の黄帯を巻きました。
なお、戦前製の台車は 形式の無い菱枠台車、戦後製は前位がTR42系、後位がTR41系です。
その他の改造では、北海道で手ブレーキを車外操作式に改造するなど地域毎の特徴があり、さらに最新の研究成果をもとに毎年のように改造が繰り返され、1両として同じ姿の車両はいません。
絵は一応車号を特定して描いてはいますが、リサーチには限度がありますので ご承知おきください。
弘南鉄道 キ104、キ105/新潟交通 キ116/津軽鉄道 キ101/小坂鉄道 キ115
キ100形の仲間には 私鉄発注車もあるほか、 若番車の何両かが私鉄に譲渡されました。
弘南鉄道には2両のキ100形が働いています。
まず、弘南線に配置のキ104号車は、元国鉄キ104号車で昭和43年(1968年)に入線しました。
昭和4年(1929年)製の最初期車で、翼とかがリベットでごつごつしてます。
しかし前頭形状は、直線形新製車と同等のものに すげ替えられています。
キ104号車は、ED33 3号機に押されて活躍します。
大鰐線のキ105号車は 元国鉄キ157号車で、昭和50年(1975年)に入線しました。
こちらは元流線形です。ED22 1号機に押されて活躍します。
キ104号車ともども、後妻に発電機が出っ張っているのが特徴です。
また、機関車との間に空気ホースやジャンパー線が増設されていますが、除雪車で運転操作はできないようです。
※ED33 3号機及びED22 1号機 電気機関車については、電気機関車の絵を参照して下さい。
新潟交通キ116号車は 昭和43年(1968年)に国鉄から譲り受けたもので、車号から分かるようにキ100形延鋤形の直線形化改造車です。
前任の木造車キ1号車(元国鉄キ36)の代わりに入線しました。前頭は燕方を向いています。
新潟交通の除雪車の特徴は、電車に推進させるため制御車化されている事で、運転台を備えています。絵のようにモワ51に押されて活躍しました。
そのせいか、後年116号車は中央列のエアタンクを撤去しています。タンク容量が大きいと電車のコンプレッサでは込めるのに時間が掛かるますからね。
新潟交通キ116号車は 路線廃止後も幸いなことに月潟駅跡に保存されています。
※モワ51は、電車の絵を参照して下さい。
津軽鉄道にはキ120号車が譲渡され、キ101号車となりました。現役です。
やはり入線は昭和43年(1968年)で、ヨンサントウ絡みで放出されたのでしょう。これにより各私鉄の木造ラッセル車が淘汰されました。
キ101号車は元延鋤形で、小坂鉄道キ115、新潟交通キ116と同じデザイン。
事故でもあったのか左右で翼の形が違うのが特徴です。
また雪案内も他のキ100形にはあまりない角度・配置で、国鉄時代に試行錯誤していた名残でしょう。
小坂鉄道のキ115号車は、昭和44年(1969年)に入線しました。元国鉄キ134号車です。
延鋤形改造車の一般的な形状をしておりますが、何と言っても鮮やかな緑色が特徴です。
また、前部連結器が格納式となっています。
路線廃止後、幸いにも動態保存されているようです。
キ273 パラボラ形ラッセル車
国鉄では、安定輸送・経費削減の観点から いつの時代も常に最先端の雪害対策技術の研究がなされていました。
このパラボラ形ラッセル車は、雪を流体として捉えて、ラッセル車前頭部を流線形にして除雪時の排雪抵抗を減じようという構想のもと、国鉄の昭和36年度重要技術課題として昭和36年(1961年)にキ100形キ273号車が改造されたものです。
研究結果から、雪の抵抗を逸らすためにラッセル部をθ角60度のパラボラ(放物線)形状とし、なおかつ浮き上がり防止のため6度後傾させて ひとまず完成しました。
写真だとよく判りませんが、図面を真上から見るとただの円弧ではなく ちゃんと放物線形状していて、意外と尖っています。
ただ、雪の抵抗を逸らすという事は、除雪の際に雪を遠くに跳ね飛ばせない事が当初より懸念されており、翼の位置を後方に移動して翼で雪を掬い上げるように二次改造する予定でした。
その後 数年間、除雪試験が繰り返され、確かに驚くほど排雪抵抗を減ずる事に成功したそうです。
ただ、やはり雪を遠くに投げ飛ばすには不利な形状だという事が分かり、二次改造がされる事はありませんでした。
で、ここでお役御免となったかというと そんな事もなく ヨンサントウを生き残り、試験初期に比べると前灯の大形化、旋回窓や標識灯掛けが増設されているなど実用的改造がなされており、使用されてなかったわけではないようです。
パラボラ形の除雪の特性からいうと、ラッセルが利かない際の最後の切り札として向いており。もしかしたらキマロキ列車の露払い除雪用にでも 効果的に使っていたのかもしれません。
その後、昭和46年(1971年)には、旭川鉄道管理局で気動車用のパラボラ形スノープラウが研究されました。
パラボラ形ラッセル車もパラボラ形スノープラウも、結局試作のみで終わりましたが、この形状。機関車の前頭形状として採用していれば、雪に強い機関車が実現したかもしれません。
なお、パラボラ形ラッセル車と同時期開発の0系新幹線のスカートも 同じ原理によっています。
キ550形 複線ラッセル雪掻車
キ550形は、当初 キ250形として昭和7年(1932年)から製作が開始された 複線用ラッセル除雪車です。昭和16年(1941年)にキ550形に形式変更されました。
基本的にはキ100形に複線用ラッセルを装着した形状で、途中、戦時設計車のキ1500形を鋼体化改造するなどして ちまちま増備されました。
ところが 昭和30年代後半に、ヤードの除雪では 今まで使っていた幅広式(ジョルダン式)雪掻車よりも 複線式ラッセル車の方が使いやすい事が注目され、複線路線も増えた事もあってキ100の改造でキ550形が増やされ、昭和43年(1968年)までに70両が製作されました。
ただし、複線形をもっと増備しようかというところで、DD15形等の除雪ディーゼル機関車が開発されたので、以降 除雪貨車は漸減していきました。
なお、複線ラッセル車の前部連結器は、除雪時に邪魔になるので格納式となっています。
サ200形 工作車
工作車とは軍艦で言うところの工作艦と同じような性格のくるまです。
従来、辺境の鉄道施設建設の際は 工事拠点として建設作業員の生活する“街”が形成されたりしたものですが、米国では古くから工事列車の制度があり、戦後 わが国でもこれを導入しました。
工事列車は建設機動列車ともよばれ、建設作業員が寝るための寝台車や食堂車と共に 万能木工機などを積んだ工作車が連結されました。
また、工作車は鉄道建設用途だけではなく、現地作業小屋として単独で使用されたり、資材運搬にも使われました。
サ200形は昭和25年(1950年)にワ1形から12両が改造されました。なお、当初は客車に分類されて ヤ520形を名乗っていました。
改造内容は、片妻面に貫通幌を付けて隣の宿泊車と連絡できるようにし、もう片妻面に観音開きの扉を設置して、ここからニョキッとホイストが突き出します。
また、工作機械の動力源は外部給電なので、外の電柱から電線を引き込む配線を設けました。
工作車は一時期客車に分類されていたことや、宿泊車と編成を組むことが多いからか、車体表記の仕方が客車方式のものが多かったようです。
この手の車輌は道路網の整備等の周辺環境の変化により、今では見られません。サ200形は昭和41年(1966年)まで活躍しました。
貨車の絵 その1は こちら 貨車の絵 その2は こちら 貨車の絵 その3は こちら 貨車の絵 その4は こちら 貨車の絵 その5は こちら 貨車の絵 その6は こちら 貨車の絵 その7は こちら 貨車の絵 その9は こちら 貨車の絵 その10は こちら 貨車の絵 その11は こちら 貨車の絵 その12は こちら 貨車の絵 その13は こちら 貨車の絵 その14は こちら 貨車の絵 その15は こちら 貨車の絵 その16は こちら 積荷の絵その1は こちら 積荷の絵その2は こちら 蒸気機関車の絵は こちら ディーゼル機関車の絵は こちら 電気機関車の絵は こちら 小形鉄道車両の絵 その1は こちら 小形鉄道車両の絵 その2は こちら
表紙へ