蒸気機関車の絵



これらの絵は 素材として使う事も考慮して描いているため、使用色数が少なく軽いのが特徴です。鉄道連隊等は小形鉄道車両のコーナーへ。
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なお、絵や解説文の根拠たる参考文献等は ここに記載しきれないので、直接私にメールか掲示板で問い合わせて頂ければ幸いです。また、基本的に解説文は作画当時に書いたものなので、情報が古い場合があります。

このページの絵は特記以外1ドット50mmで描いています。


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陸蒸気(A6形/A7形,160形)

官鉄 2号機関車 原形官鉄 23号機関車 原形

明治5年(1872年)の新橋〜横浜間の鉄道開業に際しては システム一式を英国から導入しましたが、機関車は車軸配置1Bの小形機が5形式10両発注されました。
この時、レールの幅を3ft6in軌間の狭軌としましたが、これは最適な判断で、ここで標準軌を採用していたら、のちの日本の鉄道は今ほど発展しなかったでしょう。
その狭軌でさえ、昭和後期になるまでず〜っと幹線の重軌道化すらままらい地勢なのですから。

開業時の機関車の内訳はシャープスチュアート製(2、3、4、5号機、のちのA6形)が4両、エイヴォンサイド製(6、7号機、のちのA3形)が2両、ダブス製(8、9号機、のちのA5形)が2両、ヴァルカンファクトリー製(1号機、のちのA1形)が1両、ヨークシャーエンジン製(10号機、のちのA2形)が1両となっています。
その中で優秀だったのが絵に描いたシャープスチュアート製で、次点がエイヴォンサイド製。ダブス製やヴァルカンファクトリー製は のちに大規模な改造を余儀なくされ、ヨークシャーエンジン製は性能が劣ったとのことで、発注両数から言ってシャープスチュアート製が本命だったことが うかがい知れます。
だいたい、当初の運転区間からして機関車10両は過剰で、シャープスチュアート製とエイヴォンサイド製以外は、注文流れか試験的に導入されたという説もあります。
鉄道開通初のお召列車牽引には、当然のようにシャープスチュアート製が選べばれ、2号機と5号機が抜擢されています。
明治7年(1874年)には2両(22、23号機)が増備され、シャープスチュアート製は 計6両の勢力となりました。なお、増備機は蒸機溜めが安全弁から分離してスチームドームが追加されています。

この機関車は幸い、メーカーの落成写真や図面が残されており、両数も多く錦絵にもよく登場するので、開業時の姿を再現しやすいです。
塗装は錦絵からボイラーは黒、車体は茶色と分かり、キャブ屋根に真鍮板で装飾が施されています。シリンダ前蓋は金色でしょうか?明るい色です。エンドビームは車体色で、多くの復元模型に見られるような赤ではありません。
車体塗装はおそらく同形式全車が茶色で揃えられていたと推測しますが、青色に塗られた増備機の錦絵もあるので、私の絵では増備機は青色で塗ってみました。

乗務員は3名乗っていますね。右側運転台なので、赤服が機関士、青服が機関助士、黒服が運行責任者っていう感じでしょうか?

なお、屋根の飾りは すぐに緑青を噴いたようで、緑色に描かれている錦絵もあります。
また、この頃の連結器は まだ螺旋連結器は導入されてなく、連環連結器、つまり鎖だけの連結です。

官鉄 A6形 蒸気機関車 官鉄 A6形 蒸気機関車

その後、屋根の飾りは比較的早い段階で撤去され、どう見ても邪魔な 屋根後部の張り出しは 切断されて短くなりました。
明治30年代となると全体塗装を黒にして、エンドビームが赤となりました。
官鉄では明治19年(1886年)から真空ブレーキの試用が始まりましたが、この機関車には最後まで貫通ブレーキは装備されなかったようです。

この機関車に限らず、開業当初から機関車の形式・車号は何度も変転していますが、明治9年(1876年)に東部地区の機関車番号は奇数に揃えられて、2、3、4、5、22、23号機が 13、15、17、19、21、23号機になりました。
さらに、明治31年(1898年)に形式の概念が導入されて、前期形はA6形、後期形はA7形とされました。
そして、国鉄発足後、明治42年(1909年)の称号改正で160形としてまとめられて160〜165号機となりました。
明治44年(1911年)には前期形が島原鉄道へ、後期形は尾西鉄道へそれぞれ譲渡されて、多くは戦後まで残り、後期形の元23号機は、明治村の12号機として 現在も動態保存されています。

開拓使 幌内鉄道 1〜6号 蒸気機関車

開拓使 幌内鉄道 1号機 義経 原形

この機関車は明治13年(1880年)の開拓使幌内鉄道開業用に アメリカのポーター社から輸入されたものです。
明治18年(1885年)までに6両、幌内鉄道が北海道炭礦鉄道へ買収された明治22年(1889年)に2両が増備され、総勢8両となりました。
幌内鉄道時代の6両には、歴史上の有名人や北海道ゆかりの人物の名前が愛称として付けられ、1号機は「義経」を名乗りました。

この北海道鉄道開業時の機関車ですが、見てのようにカウキャッチャー(牛弾き装置)やダイヤモンドスタック(火の粉止め)を装備した、俗に言う西部劇スタイルとなっています。
しかしサイズはとても小さく、まるで3ftナローゲージの機関車の様です。
また、1,2号機は当時最新鋭の空気ブレーキを装備して落成しましたが、客車の方は対応していなかったと思われ、のちに撤去されたようです。3号機以降は普通の蒸気ブレーキに改められています。

北海道の鉄道は開業時から自動連結器を採用していましたが、取り付け高さは低いです。
また、貨車の方は基本的に朝顔カプラーなので、ナックル部分の切り欠きにドローバーを繋げられるようになっていました。

北海道炭礦鉄道 A形(イ形) 蒸気機関車

北海道炭礦鉄道 A形(イ形) 蒸気機関車

幌内鉄道は経営が立ち行かなくなり、明治22年(1889年)に民間の北海道炭礦鉄道へ譲渡されました。
この時に形式が付けられて1〜8号機はA形(後にイ形)とされました。
この時代には煙室の延長改造により火の粉の危険が軽減されて、菱形煙突は撤去されています。また、テンダーの愛称表記もやめました。

なお、幌内鉄道(北海道炭礦鉄道)は循環整備方式を執っていて、A形の予備部品も多く抱えていたようです。
明治28年(1895年)にはそれらを活用して、A形のほぼ同形機が自社製作されてH形(ト形)30号機となりました。
30号機は当時の日清戦争勝利を記念として「大勝号」とも呼ばれています。

国鉄 7100形 蒸気機関車

国鉄 7100形 蒸気機関車

北炭のイ形8両は、明治39年(1906年)の鉄道国有化後に7100形と改められました。ちなみに旧大勝号(ト形)は7150形となっています。
もうこの頃は裏方で地味に働いていたようです。
大正13年(1924年)までに自動連結器高さを内地と同じ876mmに嵩上げしました。

帝国車輛 7105号機 蒸気機関車

帝国車輛 7105号機 蒸気機関車

7100形は、作りが良かったのか意外に長生きで、大正末まで国鉄で活躍し、一部は民間に払い下げられました。
絵の7105号機は車両メーカーの入換機としてタンク機化されて戦後まで活躍し、のちに「義経」として新製時を再現されました。

日本鉄道 Pbt2/4形/東武鉄道 B1形 蒸気機関車

日本鉄道 Pbt2/4形 蒸気機関車 原形日本鉄道 Pbt2/4形 蒸気機関車 運転室側扉 開日本鉄道 Pbt2/4形 蒸気機関車 後期車東武鉄道 B1形 蒸気機関車 原形

日本鉄道 Pbt2/4形は、明治27年(1894年)〜明治31年(1898年)に英国のベイヤーピーコック社から輸入された飽和式2Bテンダー機です。
この形式は まず、明治26年(1893年)に官鉄向けの6両が輸入されて 鉄道作業局 D6形となり、翌年から日本鉄道用に60両が輸入されました。
東武鉄道も明治31年(1898年)と明治40年(1907年)に計12両を輸入し、B1形としました。
日本鉄道の形式のPbt2/4は、P=ベイヤーピーコック社製の、b=ボギー2軸先台車付き、t=テンダー機、動軸数2、全軸数4を意味するそうです。
他メーカーに発注した同形機としては、ニールソン社製 Nbt2/4形、シャープスチュアート社製 SSbt2/4形もいました。

こののちにも英国製2Bテンダー機は多数輸入されますが、大き目な動輪と車軸配置が示すように旅客用として活躍しました。
日本鉄道のものは、防寒のためか すぐに運転室と炭水車の間に側扉が装備されました。
この側扉は、左から2番目の絵のように 開けたまま運転する事が多かったようで、裏面には手書きで機関車番号が書かれていました。

左から3番目の絵は砂箱を大きくした後期車(12両)ですが、日本鉄道の機関車は緑色だったという話があるので緑で塗ってみました。※側扉を閉じた状態を描いています。
英国製の機関車は 本国同様にカラフルなものも多かったようですが、具体的な塗装の記録が残されていないのが残念です。
ただ、黒い機関車でも明治・大正期の機関車は 端梁を赤く塗っていたことは分かっており、スチームドームをペカペカに磨き上げていた事も 写真からうかがえます。
あと、古典機特有の装備として、各車のランボード上に 脱線復旧用のジャッキが搭載されています。

国鉄 5500形 蒸気機関車

国鉄 5500形 蒸気機関車 自動連結器・空気ブレーキ装備 昭和10年代

明治39年(1906年)に鉄道国有化が行われると、日本鉄道 Pbt2/4形と官鉄 D6形は、国鉄形式 5500形になりました。
5500形の両数は、東武鉄道から総武鉄道に渡った6両を加えて、計72両です。

大正14年(1925年)には自動連結器化、昭和5年(1930年)には空気ブレーキの本使用が実施されましたが、この頃には もう幹線の主力機ではなく、ローカル線や入換用として活躍しました。
5500形は右側運転台なので、後進運転が主流の入換用機関車として適していた事でしょう。
ところで、撒砂用の砂箱は 原形は動輪のカバー(スプラッシャー)と一体のもので、後期車は大形化されました。しかし当初は第1動輪の前に1本しか砂管が無く、後進時には効きませんでした。
これでは不便で、特に入換機に転用するにあたって 後進用の砂管は必須なので、国鉄機ではキャブ内(絵に描いた仕様)やスプラッシャー後部(5540号 青梅保存機等)に砂箱を増設し、東武機はスチームドーム後方に砂ドームを増設して対処しました。
また、戦後まで活躍したものは発電機が装備されました。

5500形は よほど性能が良かったのか、後発の英米2Bテンダー機よりも長く昭和30年代初めまで活躍し、「ピーテン」や「ピーコック」の愛称で親しまれました。

東武鉄道 B1形 蒸気機関車 晩年

東武鉄道 B1形 蒸気機関車 6号機 晩年 東武鉄道 B1形 蒸気機関車 54号機 晩年

東武鉄道のB1形も、長〜いこと活躍しました。
東武の場合は、旅客がすぐに電車化されたため、蒸機はもっぱら貨物用として働いていました。
旅客機で動輪が大きいと言っても、実は国鉄近代貨物機よりも直径は小さく、貨物用としても特に問題は無かったのでしょう。

東武B1形は、先に書いたように12両が輸入され、すぐに6両が総武鉄道に転籍しています。しかし大正14年(1925年)以降、国鉄から5500形が5両移籍してきて、戦後時点で計11両が在籍していました。
国鉄からの転入時期は ちょうど国鉄が空制化を進めている時期でもあり、東武には空気ブレーキ化未施工で転入してきたと思われます。
B1形は戦後までには 空制化工事を完了し、昭和20年代には炭水車の増量改造が行われ、砂箱をボイラー上に移設するとともに、撒砂管を増設しました。

東武鉄道では終戦時点でB1形の他にも、ベイヤーピーコック社製B2形2両、B3形6両、B7形1両、シャープスチュアート社製B4形6両、ニールソン社製B5形10両、B6形5両、ボールドウィン社製D1形6両の計47両もの古典2Bテンダー機が活躍していました。
電化鉄道の割には 遅くまで多数の蒸機を運用していたのは、駅構内の側線や専用線が電化されていなかったためと言われています。
かといって後継蒸機を導入する事もなく、東武鉄道は戦後になっても古典2Bテンダー機を愛用し、蒸機が全廃されたのは昭和41年(1966年)の事でした。
特にピーコックは、後発機のネルソンよりも長生きでした。

三井埠頭 1号 蒸気機関車

三井埠頭 1号 蒸気機関車

国鉄5500形蒸機のうち 10両は、昭和4、5年(1929、1930年)に2B1タンク機関車に改造され、B10形となりました。
この手の古典2Bテンダー機の改造は 他形式でも積極的に行われており、いずれもローカル線に転用するための改造でした。
ただ、国鉄近代タンク機の充足により、これら古典機改造タンク機関車のローカル線での活躍は短く、多くが私鉄や専用鉄道に譲渡されました。

絵の三井埠頭(扇町駅専用線)1号機(元B10 6号機)は、その中で一番最後まで活躍していた機関車です。
小入換には不要な 貫通ブレーキは失われていましたが、昭和40年(1965年)頃まで現役だったとの事。
なお、小湊鉄道の五井には元B10 4号機が保存されています。小湊のものは従輪にもブレーキが掛かるように後天的改造がなされたようです。

8550形 蒸気機関車

九州鉄道 154形 蒸気機関車 原形 九州鉄道 8トン炭車(手用制動機付)

8550形蒸気機関車は、九州鉄道が明治32年(1899年)から導入した客貨両用機関車です。
メーカーはアメリカのスケネクタディ(→アメリカン・ロコモティブ)で、明治39年(1906年)までに61両も輸入されています。
両数からも分かる通り、性能の良い機関車で、他に同形機が樺太に5両、台湾に2両導入されています。

九州鉄道時代は154形を名乗り、国有化後、8550形になりました。
また、のちに加熱式ボイラーに改造されたものは8500形になりました。

使い勝手が良かったのか、国有化後は九州以外にも関西や、遠く仙台の地まで活動範囲を広げ、全国で活躍しました。
形式消滅は 戦後の昭和25年(1950年)です。

最初の絵は九州鉄道 154形 原形。8トン炭車を牽かせるのに もってこいの姿。
新製配置時?の九州鉄道162号機の写真を見ると、ボイラー外皮は無塗装で、非常に艶のあるロシアンブルーという酸化皮膜処理を施した鉄板を使用しており、これは、この時期の米国蒸気機関車の流行です。

このロシアンブルーの色合いについては意見の分かれるところと思いますが、模型で鉄素材に黒染液を使った事のある方なら ピンと来るものがあろうかと思います。
この絵の動画は落ち穂拾い。へ。

8550形 蒸気機関車 真空ブレーキ装備

中段の絵は 国有化後で真空ブレーキを装備した姿。
当初は真空ブレーキを装備していなかったようですが、国有化頃までには改造された事でしょう。
そののち、空気ブレーキ化改造。

これだけ両数があると、新製時から仕様に違いがあったでしょうが、資料がないので良く分かりません。

多数の中の希少な写真資料というものは考証上大変危険で、写真に写されたものがその代表的な姿であると勘違いしてしまいます。
現代と違い、時代をさかのぼる程 写真1枚を写すにも金銭的決断を要し、ならばと多数な中の変わり種(試作機、特別仕様 他)を記録に残す傾向があります。
これは現代の博物館での展示も同じで、どうしてもトップナンバーが貴重であるという風潮です。

貴重な資料を残してくれた先達に感謝しつつ、資料考証は慎重に致しましょう。

ところで、側面からみると動輪がすべて同じ形をしていますが、このタイプはウェイトの厚みを変える事でバランスを調整しています。
弁装置はアメリカン・スチーブンソン式。

8550形 蒸気機関車 空気ブレーキ装備 晩年

最後は空気ブレーキ化改造後の姿です。


昭和時代に入ると、8550形は 入換機関車として働くようになりました。

ところで、日本の鉄道は 基本的に左側に信号・標識類を建植するので、運転装置も左側配置です。
しかし、蒸気機関車を入換運転に使う時は、短いテンダー側に貨車を繋げてのバック運転が基本となります。
そこで、入換専用に使う蒸気機関車には わざわざ右側に運転装置を移設改造したものがあります。
8550形は元から 九州鉄道規格の右側運転装置ですから、入換機関車にもってこいです。

また、この機関車のオリジナルの空転防止用砂撒装置は、第一動輪の前方に砂を撒くようになっています。
こうする事により、前進の際に全ての動輪が砂を踏みしめる事が出来るので、効率的です。
逆に、これでは後進の際に砂を撒いても効果ありませんが、当時の多くの本線用主力テンダ機は 後進用の砂撒装置を持っていませんでした。

本線運用ならこれでも良いのですが、後進定位のような使い方をする入換運用には適しません。
そこで、後年 多くの古典機関車は 砂撒装置の改良を行っています。

改良には、砂撒管の位置を動輪の間に変更して妥協する方法もありますが、
元の砂箱に 後進用砂撒管を増設する方法か、後進用砂箱自体を増設する方法かの どちらかが主流だと思います。
絵に描いたのは 砂箱を増設したタイプです。

ただ、運用状況によっては、必ずしも砂撒きが必要なわけではないので、最後まで改造されない機関車もいた事でしょう。
この絵のgif動画は落ち穂拾い。へ。

9600形 蒸気機関車

9600形 蒸気機関車 9658〜19682号機 原形 公式側 9600形 蒸気機関車 19683〜29637、29653〜49601号機 原形 非公式側

9600形蒸気機関車は、東海道本線の勾配線用補助機関車として、大正2年(1913年)に登場しました。
生まれは川崎造船で、大正元年(1912年)製の9550形飽和式蒸気機関車を、過熱式に設計変更した初代9600形(大正2年(1913年)製造→すぐに9580形に改番。)を、矢継ぎ早に設計変更して ボーラー高さを上げて火室を広くする改良を施したものとなっております。
で、使ってみると思いのほか性能が良く、幹線の標準貨物機として続々増備され、旅客用の8620形、ローカル用の6760形と共に 大正時代の代表的蒸気機関車となりました。

絵は左が大正4年(1915年)から製作の9658〜19682号機、右が大正7年(1918年)から製作の19683〜29637、29653〜49601号機。9600形本格量産機の原形の姿です。
北海道に配備されたものは自動連結器を装備しました。

この時代の特徴としては、煙室非公式側に蒸気の過熱具合を自動で切り替える装置が付いてます。
そもそも 過熱式蒸気機関車とは、ボイラーで沸かした蒸気(飽和蒸気)がすぐに冷えて水に戻らないように、もう一度ボイラーに循環させて“強い”蒸気を得る工夫です。
わざわざ複雑な機構を装備して、飽和式に切り替えるメリットもないので、この装置は早くに撤去されました。

また、煙室下から先輪後ろに掛けて 掃除用のダクトと思われるものがありますが、ボイラーの気密に悪影響があったのか、すぐに閉鎖されています。

9600形 蒸気機関車 後期形

9600形 蒸気機関車 69666〜79669号機 原形 空制+真空+バッファー装備 公式側 9600形 蒸気機関車 69666〜79669号機 自動連結器化後 空気ブレーキ+真空ブレーキ併設 非公式側

こちらはキューロクの最終増備仕様、69666〜79669号機。

貨車の絵 その1貨車の絵 その8で詳しく解説してますが、国鉄では大正8年(1919年)に 真空ブレーキに代わって空気ブレーキの導入を決定(電車では既に使われていました。)し、準備整ったところで大正12年(1923年)新製の機関車(8620形、9600形、9900形(D50形)18900形(C51形))から装備しはじめました。
一般的イメージからすると、連結器の自動連結器化→ブレーキの空気ブレーキ化ですが、国鉄が空気ブレーキに全面移行を成し遂げたのは昭和5年(1930年)ですので、7年間は真空ブレーキと空気ブレーキを併設していた事となります。
その間に大正14年(1925年)に自動連結器化をしているので、このキューロクは2年間はバッファー+空制機器という出で立ちでした。

ところで、この当時の機関車には 所属機関庫を示す区名札は無く、側面ナンバー下に所属鉄道管理局の頭文字の切り抜き文字を貼っていました。
私の絵では 小さすぎて判然としませんが、書体は貨車に書かれたものと共通です。

9600形 蒸気機関車 標準仕様

9600形 蒸気機関車 19683〜29637、29653〜49601号機 戦前 自連化・空制化後 公式側 9600形 蒸気機関車 19683〜29637、29653〜49601号機 戦後 除煙板装備 非公式側 9600形 蒸気機関車 19683〜29637、29653〜49601号機 除煙板・ATS装備 公式側

こちらが 自連化、空制化後の標準的キューロクの姿。
空気ブレーキ化によって運転室が手狭となったため拡張しています。そのさい、カーブで炭水車と接触しないように機炭間を伸ばして、近代機と同じ形式の中間連結器に改造されました。
そのままでは全長が伸びてしまいそうですが、炭水車後部連結器を自動連結器化する際に、この部分がバッファーの時より短くなったので、うまくいきました。

空気ダメは絵のようにランボードを凸形に改造して側面中央に配置するのが標準ですが、変形機も多々あり、また整備性(雪の影響?)の関係か、後天的改造でランボード上に移設したものも多く見受けられます。
その他、空気ブレーキ化に伴い、炭水車の車輪の間にあった真空空気ダメは撤去されました。

戦前・戦後・晩年と絵を3つ並べましたが、除煙板(デフレクター)は戦前からあります。
蒸気機関車が速度を上げると、煙突からの煙は車体に纏わり付こうとしますが、除煙板は、走行風によって煙を上方に導く効果があります。時速30kmから効果を発揮するので、本線である程度の速度で巡航する貨物機にも取り付けられました。
しかし、標準タイプのデフは絵を見て分かるようにデッキの乗降の際に邪魔で、しかものちに、除煙板の下の方はあってもあまり意味が無い事が分かり、整備にも邪魔なので 戦後は小形化改造が進みました。

キューロクは使い勝手が良く 770両が製作されましたが、戦時中に250両が標準軌に改造されて大陸に渡りました。
そして、数は減らしたものの国鉄で最後まで働いた蒸気機関車もキューロクです。
9600形クラスが働く線区の後継機として 車両の技術屋は、“ちょっと軌道を強化すれば”D51形改造のD61形で行けると考えていましたが、「大形機は横圧で軌道を壊す。」と保線のプロに猛反対されて計画は頓挫し、入換用9600形の後任は DD13では力不足でDE10の充足を待たねばならず、結局 老骨に鞭打って昭和51年(1976年)まで働く破目となりました。

台湾鉄路局 DT580形 蒸気機関車

臺灣鐵路管理局 DT580形 蒸汽機車

当時 日本統治下だった台湾でもキューロクは活躍しました。
製作年次は大正11年(1922年)〜昭和14年(1939年)で計39両。以降の増備機はD51形です。
台湾鉄道としては 本当はもっと早くキューロクが欲しかったのですが、本土の鉄道工場は鉄道省の分で手一杯で、仕方なく大正8年(1919年)に米国アルコ社に 同クラス機(600形)を発注してしのいだりしています。

導入当時の形式は800形で、昭和12年(1937年)にD98形に改称し、戦後の台湾鉄路局ではDT580形となりました。
絵は晩年のDT580形で、カウキャッチャーやロッドの赤、炭水車のタブレット保護板が目立ちます。

樺太庁鉄道 D50形 蒸気機関車

樺太庁鉄道 D50形 蒸気機関車 公式側

樺太庁鉄道には5両のキューロクが昭和11年(1936年)から昭和15年(1940年)に掛けて配備されました。
形式はD50形で、昭和11年(1936年)といえば もう国鉄はD51形の時代になりましたが、樺太ではキューロクのサイズがちょうど良かったのでしょう。
他には、樺太鉄道が80形としてキューロクの準同形機を 昭和3〜11年(1928〜1936年)に掛けて9両製作しました。
どちらも昭和18年(1943年)の鉄道省編入により国鉄のキューロクの続番が与えられましたが、樺太がソ連に占領されてからの足取りは不明です。

樺太の蒸気機関車は、低い連結器位置と密閉キャブが特徴です。
運転室扉の直後に石炭取出口部分の穴の開いた妻板があるので、防寒は充分そうです。ただ、炭水車への延長部分の内部構造はよく分かりません。
なんにせよ、北海道よりも寒い地域なので、運転は大変だったでしょう。
乾燥した針葉樹林地帯で 火の粉による山火事にも気を使い、煙突にお椀型の金網が被せてあります。

9600形 蒸気機関車 小樽築港機関区 9633号機

9600形 蒸気機関車 小樽築港機関区 9633号機 非公式側

ここから、9600形の特定番号機の解説です。まずは今も梅小路に保存されている9633号機。
量産初期のキューロクで、晩年は小樽築港で入換機として働きました。運転室後部に 防寒のためのカーテンを装備。
炭水車も初期タイプを嵩上げしたやつ。初期形の炭水車はリベットが少なく、のっぺりとしています。
最晩年の小樽築港のキューロクは、前面と炭水車に派手なゼブラ塗装が施されました。
一応その仕様も描いたので、落ち穂拾い。に載せときました。

ちなみに石炭の積み方ですが、地域差の他に時代による変化も見られます。
一般的には戦前期は薄盛りで、蒸気晩年は山盛りです。
この違いは何かというと、おそらくスコップで手積みの場合は1運用に必要な分しか積まず、大形ホッパーの給炭設備が整った晩年には 補給回数を少なくするために一気にドカッっと積んだためでしょう。

9600形 蒸気機関車 大宮機関区 49613号機

9600形 蒸気機関車 大宮機関区 49613号機 公式側

これは大宮区の49613号機。
デフレクタを装備して川越線でも活躍したようですが、絵の仕様は大宮操車場の入換機。
テンダーに重油タンクのようなものが載っています。
なんとなく北海道の機関車の雰囲気があるので、そちらから転属してきたのでしょうか?

9600形 蒸気機関車 行橋機関区 59647号機

9600形 蒸気機関車 行橋機関区 59647号機 非公式側

続いて、門鉄形デフ装備の 59647号機。
九州の蒸気機関車は整備が行き届いていて、動輪輪心もピカピカです(絵では目立たないけど・・・。)。

9600形 蒸気機関車 倶知安機関区 79618号機

9600形 蒸気機関車 倶知安機関区 79618号機 公式側

そして、重装備機として名高い 倶知安機関区の79618号機です。
戦前に給水ポンプと給水温め器を装備して、非公式側空気ダメを移設、さらに追加改造でデフレクタ装備、公式側空気ダメ移設、運転室防寒用カーテン取り付け、前灯2灯化、デフレクタ小形化、ATS取り付けなどなど。
シンプルな原形キューロクも良いけど、重装備も また良いですね。

キューロクの給水システムは基本的にはインジェクター2基ですが、給水ポンプ(+インジェクター1基)を装備したものも存在します。
なんでも、インジェクターより給水ポンプ+給水温め器の方が、熱効率が良いようです。
インジェクターでは給水する時に蒸気と混合して水が加熱されますが、給水ポンプは強制的に炭水車の水を汲むので、ボイラーに入れる前の水を給水温め器で温めてやります。
という事で配管が複雑になり、メンテも大変なので、後付けとなる9600形には そんなに普及しなかったのでしょう。

なお 79618号機も該当しますが、北海道のキューロクには 給水ポンプの有無にかかわらず、炭水車の水を予熱するためか コンプレッサーの排気をテンダーに導いたものが見受けられます。

大夕張鉄道 4号機関車

大夕張鉄道 4号機関車

キューロクは、北海道・樺太の炭鉱鉄道向けにも 同形機が何両か製作されています。
大夕張鉄道では 昭和12年(1937年)に3号機、昭和16年(1941年)に4号機が入線しました。
3、4号機共に当時の運用環境の特性から、炭水車に国鉄C56形(当時量産中。)のものを採用して、何ともずんぐりとした姿となりました。
C56形と同じ設計の炭水車であるものの、なぜか大夕張のものはリベットの多い炭水車となっています。
また、もう1つの特徴として給水ポンプ(晩年撤去)を備えており、給水温め器がテンダーに装備されています。

大夕張のキューロクは、国鉄からの転入組と合わせて昭和49年(1974年)に廃車となりました。

C50形 蒸気機関車

C50形 蒸気機関車 戦前 C50形 蒸気機関車 ATS装備

C50形 蒸気機関車は、昭和4〜8年(1929〜1933年)に国鉄向け154両、樺太向け4両が製作された客貨両用中形機関車です。
大正時代の主力機 8620形(大正3年(1914年)〜)の近代化増備機として位置付けられれていますが、C50が登場した時点では すでに幹線は大形機に取って変わられていたので、古典機関車の置き換え用として 登場時から軽列車や入換用の使命を帯びていました。
なので 8620形ほどは量産されなかったので失敗作と思われがちですが、牽引力や燃費、整備性は向上しています。

ただし、前期形(〜49号機)は高速走行時に先輪が脱線傾向にあり、この点は明らかに設計ミスで、何度か脱線事故を起こしています。
入換とかに使う分には問題ないですが、後期形で動輪群を後退させる設計変更を行ない 改善されています。(後期形でも 台枠の形状が2種類あるような気が・・・。)
後期形は とにかくスピードが出せて、非公式ですがC62より早かったとのことです。
また、登場時は 給水ポンプと それに繋がるテンダー前部の本省式細管給水温め器が装備されていましたが、入換機としては贅沢装備なので たいてい撤去されています。
機関車に限らず ボイラーは安全のために給水系統を2つ以上装備する決まりなので、代わりにインジェクターが増設されているはずです。

C50は全国的に分散配置され、のちのDD13形の前任車として活躍しています。
失敗作なら一箇所に固めて配置して、整備とか効率化されるのが普通なので、この事からも その地道な活躍がうかがえます。DD13形並みの名機と言えるでしょう。
また、戦時中に1〜5号機が台湾に渡り、戦後はCT230形として活躍してます。

左が戦前、右が戦後 ATS装備後の姿。
また、C50の常磐線 平機関区(ATS装備前)仕様を浪江森林鉄道の しげさんに さしあげました。

C50形 蒸気機関車 小山機関区 ATS装備

C50形 蒸気機関車 小山機関区 ATS装備

話題の少ないC50形ですが、古くから両毛線での活躍が知られていました。
両毛線では高崎第一機関区のC58と共に主力として働き、本線仕業で使うので 本省式細管給水温め器と給水ポンプが残されており、デフレクタを装備していました。
また、小山区のC50は化粧煙突も 残されているものが多いいです。
この化粧煙突とは 本来 煙の整流効果を狙った物なのですが、あまり効果なく、後年ほとんどがパイプ煙突に交換されています。
小山区のは 本線用だから残されたのでしょうか?

今回gifアニメを作ってみました。4コマでも けっこう見れますね。

C50形 蒸気機関車 小山機関区

C50形の他のgif動画は落ち穂拾い。へ。

C50形 蒸気機関車 糸崎機関区 入換用 ATS装備

C50形 蒸気機関車 糸崎機関区 入換用 ATS装備

呉線の糸崎機関区の派手な機関車。
入換用として働く晩年の蒸気機関車は 構内の入換担当職員の安全のために、前後に黄色と黒のゼブラ塗装を施されたりしましたが、糸崎機関区の機関車は、さらにテンダーに緑十字の安全マークが描かれました。
また、入換専用に使われたカマの中には 絵の様(半分ランボードに埋まっているので 見づらいですが・・・。)に動力逆転機を装備したものもあります。
動力逆転機は微妙な操作が苦手なので 本線用機関車では敬遠される面もありましたが、頻繁に前後進をする入換機では重宝されました。

汽車会社 Cタンク

汽車会社 Cタンク

有名な南薩鉄道5号機・・・いや、ここはあえて汽車会社のCタンクと呼びましょう。かつて鉄道模型の入門用機関車として各社で模型化されました。
いずれの製品も南薩鉄道5号機(昭和5年(1930年)製造)をモデルにしながらも それを名乗らず、多少デフォルメされていて、Nゲージではトミックスの「K.S.KタイプCタンク」が有名です。

戦前 汽車会社では このクラスの機関車を各地の地方私鉄や専用線に送り出しており、細部は違えど一大グループを形成していました。
のちに空気ブレーキを装備したものもありましたが、この機関車の活躍する環境では必ずしも必要ではなく、絵もすっきりとした姿を描きました。

C12形 蒸気機関車

C12形 蒸気機関車 戦前 C12形 蒸気機関車 ATS装備

C12形 蒸気機関車は、昭和7年(1932年)から戦後にかけ282両が製作された小形タンク機関車です。
明治以来 日本の鉄道は 主要路線の完成後は、幹線の強化よりも我田引鉄方式で地方への路線網の構築が優先されました。
しかし、あっちもこっちもでは 当然資金が足りなくなり、丙線規格(軸重制限13t)よりもさらに低規格の簡易線規格(軸重制限12t)を制定して、輸送需要の少ない線区を建設する事にしました。

軸重11t程度の近代機関車は当時まだなく、明治以来の古典機関車ももう更新時期に来ていたので、簡易線向けに新たに設計されたのがC12形 蒸気機関車です。
また、同時期製作のC11形と共に、入換作業用古典蒸気機関車の置き換え用としても増備されました。

簡易線は 設備が貧弱で、終端駅に転車台の無い場合もあるので タンク機関車としました。
なお、タンク機関車も 転車台がある場合は基本的に前頭を前にして走りますが、トンネルの多い勾配線区では登り下りとも山側に前頭を揃えて 運転室に煙が流れ込むのを防ぐ使い方をします。
入換作業に使う場合は、短くて見晴らしが良い 後位側で主に連結をします。
タンク機関車は入換作業をする事を重視して設計されているので、後進の方がブレーキの効きが良く設計されています。
また、タンク機関車は、テンダー機関車と違って 走れば走るほど軽くなり 重心が移動するので、国鉄のタンク機関車は水槽をボイラー横と運転室後部の3箇所に分散させてバランスをとっています。

C12形は使い勝手が良く、62両が軍に供出されて海外で活躍しました。また、地方私鉄や台湾・樺太向けにも同形機が製作されています。
絵は左が戦前〜昭和20年代のATS装備前の姿。右はATS装備後。
C12形はC56形と共に形態変化が少ない機関車ですが、それでも どこかしらが1両毎に違います。絵の姿はあくまで参考までに・・・。
この絵のgif動画は落ち穂拾い。へ。

C12形 蒸気機関車 クルクルパー装備

C12形 蒸気機関車 クルクルパー装備

蒸気機関車は 陸蒸気の時代から排煙に混ざる火の粉による沿線火災が悩みのタネでした。
火の粉は粗悪な燃料なほどよく出るようです。薪燃料の鉄道では それを防ぐためにダイヤモンドスタックという煙突を装備したりしました。
一般的な火の粉対策と言えば、煙室内部の吐出管と煙突の間にペチコートという金網を張って、火の粉が外に出る事を防いでいました。
ただ、ペチコートは通風を妨げますし、整備の際に邪魔なので、冬季以外や良質炭の地域では 取り外していた機関車も多かったようです。

そんな中、昭和30年代に入ると画期的な「回転式火の粉止め」が開発されます。
これは、煙突上部に排気の力によって回転する羽根車を装備することで、舞い上がってきた火の粉をたたき落とすものです。
回転式火の粉止めにも金網が付いていますが、ここまで上がってくるのは細かいススで、金網から漏れたススは お皿状の防煙板で受けます。
その防煙板は目立ち、クルクルパーと通称されましたが、防煙板無しの回転式火の粉止めもあります。
回転式火の粉止めは、羽根車に定期的に油を差す必要がありますが、これにより じゃまなペチコートを付けずに済みます。
基本的に この装備は 乾燥している冬場以外は取り外すものだったようです。

絵はクルクルパー装備のC12。
C12形は本来簡易線用ですが、足尾線等 丙線規格の路線でも主力として使われています。

C12形 蒸気機関車 日之影線

C12形 蒸気機関車 日之影線

戦後の蒸気機関車には、石炭を整理しやすくするために増炭囲いという枠を炭庫上に装備したものがいます。
九州のC11形C12形では その改造の際に 運転室室内から炭庫後面を貫通する換気管が装備されました。
外見では後部前灯の両脇に四角いダクトが目立ちます。南国ならではの装備でしょうか?
絵は、日之影線のC12形

C56形 蒸気機関車

C56形 蒸気機関車 戦前 C56形 蒸気機関車 ATS装備 C56形 蒸気機関車 小海線

C56形 蒸気機関車は、昭和10年(1935年)から昭和14年(1939年)にかけ160両が製作された簡易線向け機関車です。

簡易線向けのC12形は性能も良く 各地で働いていたのですが、欠点は航続距離が短い事。
そこで、少し長めの簡易線向けに C12形の炭水搭載量を増やした機関車として、テンダー形式のC56形が誕生しました。
転車台が無く 長距離後進運転をせざるを得ない事態を考慮して、また入換機関車としても手ごろなサイズなので、テンダーの水槽を斜めに切り 後方視界を確保してます。

この機関車は軍に特に気に入られたようで、新製間もない昭和16年(1941年)に製造数の半数以上の90両が1メーター軌間に改軌、真空ブレーキ化されてタイ国に旅立ちました。
タイでは戦後も活躍していましたが、うち2両が両国親善のために日本に里帰りし、31号機が靖国神社に、44号機が大井川鉄道に居ます。

絵は左から戦前〜昭和20年代のATS装備前の姿。ATS装備後。小海線仕様 ATS装備後。
この絵のgif動画は落ち穂拾い。へ。

C56形 蒸気機関車 集煙装置装備 大糸線

C56形 蒸気機関車 集煙装置装備 大糸線

長野地区は小海線・飯山線・大糸線とC56形が最も活躍した地域ですが、雪国だけあって重装備でした。
まず、テンダー前部切り欠き部に風防窓を付けて、運転室屋根を延長してそこにカーテンを張る事で、防寒構造とし、他にスノープロ―や旋回窓、ツララ切り等を装備していました。
また、大糸線のシゴロクは集煙装置を備えていていました。

D51形 蒸気機関車 なめくじ

D51形 蒸気機関車 なめくじ 戦前 D51形 蒸気機関車 なめくじ ATS装備

D51というと 誰もが思い浮かべるのは標準形ですが、初期形は半流線形・・・いわゆる なめくじ形として登場しました。
流線形ブーム後期の昭和11年(1936年)から生産され、新たに採用したボックス動輪と共に旅客用機関車より美しい貨物用機関車となりました。
なめくじの正体は、煙突と砂箱の間に給水温め器を置き 一体でカバーしたものです。

しかし これは見た目以外にメリットが無く、煙突と砂箱に挟まれた給水温め器の整備に 苦労する事になりました。
給水温め器というのは いわゆる熱交換器で、シリンダ、コンプレッサ、給水ポンプの各排気熱でボイラーに流し込む前の水を予熱するものですが、内部は細パイプが束ねられてて、ただでさえ その掃除が大変なのです。

D51形 蒸気機関車 スーパーなめくじ 戦前

D51形 蒸気機関車 スーパーなめくじ 戦前

D51の22、23号機は なめくじドームをスーパーにしたタイプです。

かっこよかったのですが、のちに通常の なめくじカバーに修正されてしまいました。
修正といっても ドーム後端の部分は元のカバーを板金加工で丸めたもののようで、歪んでいました。

D51形 蒸気機関車 なめくじ 吹田操車場 ATS装備

D51形 蒸気機関車 なめくじ 吹田操車場 ATS装備

ハンプを備えた大規模操車場では 大形貨物機関車を入換機関車として使用していました。
ここで活躍したのが 当初から動力逆転機を備えていたD51の初期形で、本線では嫌われた動力逆転機も 前後進を繰り返す入換作業では重宝がられました。
そして、運用が入換仕業に固定されると邪魔な除煙板(デフレクタ)を撤去したものが吹田操車場や稲沢操車場に現われました。

D51形 蒸気機関車 標準形

D51形 蒸気機関車 標準形 戦前 D51形 蒸気機関車 標準形 ATS装備

D51標準形の、ありふれた姿を描きました。
この絵のgif動画は落ち穂拾い。へ。

D51形 蒸気機関車 標準形 499号機 後藤工場デフ 鷹取式集煙装置 重油タンク ATS装備

D51形 蒸気機関車 標準形 499号機 後藤工場デフ 鷹取式集煙装置 重油タンク ATS装備

人気のある 後藤式デフレクタを装備した499号機。
描いたのは いちばん重装備だった1960年代後期の姿で、現在 静態保存されているものとは細部が異なります。

煙突にかぶさる集煙装置は、トンネル内で車体にまとわりつく煙を整流するための装置で、煙突直上を塞いで装置後方から煙を吐き出します。
トンネルの多いい線区の機関車に装備されました。
工場によりいくつか種類があり、499号機に装備されたものは鷹取工場式(のちに鷹取式亜種の後藤式に換装。)です。

背中に積んでいる箱は重油タンクで、石炭に重油をかける事により石炭の燃焼を助けるためのモノです。
この重油併燃装備は勾配線区の黒煙防止に威力を発揮しました。

また、福知山機関区独自の長い前面窓ヒサシが特徴的です。

D51形 蒸気機関車 標準形 953号機 ギースルエゼクター 密閉キャブ 切詰デフ ATS装備

D51形 蒸気機関車 標準形 953号機 ギースルエゼクター 密閉キャブ 切詰デフ ATS装備

典型的な北海道仕様のカマです。

まず、北海道は極寒なので密閉式運転室に改造されており、そのため炭水車前面を斜めにカットしてあります。
除煙板は切詰られて その分デッキが広くなっていますが、これは 積雪時の入換作業者の足場を確保するため。
炭水車後部のヘッドライトは耐雪カバーが付いています。

ここまでは一般的な北海道仕様機ですが、この機関車は 扁平煙突が特徴のギースルエゼクターという特殊な排気装置を備えております。
ギースルエゼクターは シリンダ排気を特殊なノズルから吐き出す事により 煙を誘引し、石炭の燃焼を効率的にする装置で、戦後にオーストリアで発明されたのをライセンス生産したものです。
蒸気機関車最末期の新装備のため 日本ではあまり普及しませんでしたが、石炭列車牽引で最後の活躍をする北海道 追分区のカマを中心に、36両のD51に装備されました。

D51形 蒸気機関車 戦時形 装備改善前

D51形 蒸気機関車 戦時形 装備改善前

D51は戦時色が濃くなるにつれ 輸送力増強のために主力機関車として増備が続けられましたが、後期のものは装備や製作工程を簡略化した いわゆる戦時形となっています。
各部に代用材を使ったり、ドームをカマボコ形にしたり、炭水車を資材節約のため船底形にしたりが目につきます。
カマボコ形ドームは各種バリエーションがあり、趣味的に楽しいものです。

戦時形でも後半のものは 給水温め器を廃止して煙室上部を“Ц”形もしくは“」”形に切欠いており、“」”形に切欠いたものは 戦後に装備改装したあとも煙室扉に名残が見られました。
給水温め器に至るべき配管の処理も何パターンかあり、絵では煙突横で途切れたタイプを描きました。
装備改装前の戦時形は資料に乏しく、再現するのに苦労します・・・。

台湾鉄路局 DT650形 蒸気機関車

臺灣鐵路管理局 DT650形 蒸汽機車

D51形蒸気機関車は鉄道省向けの他に、台湾向けに37両、サハリン向けに準同形が30両作られました。

台湾のものは日本統治時代に32両発注、第二次大戦後に5両増備の計37両で、新製時は鉄道省のD51標準形と同じものでしたが、時を経るに従い 南国台湾独自のアレンジが加えられています。
列挙すると、罐逆止弁のボイラー上へ移設、罐水清掃装置の泥溜の撤去、煙室扉の改造、大形排障器の取付、前照灯の変更、炭水車にタブレット保護板の取付、砂箱蓋の改良などなど。
空気配管の取り廻しも日本国鉄とは違い、また、新製時からキャブ雨ドイの位置が上の方にあります。
台湾ではロッドに赤を色入れするのが標準塗装で、晩年は架線注意の表示が追加されました。

D52形 蒸気機関車

D52形 蒸気機関車 戦時αD52形 蒸気機関車 戦時βD52形 蒸気機関車 戦時 迷彩

D52形 蒸気機関車 装備改善後

D52形は戦時輸送強化のためにD51形を上回る牽引力を得るとともに、資材や工程を節減するというコンセプトで、1943年から1946年にかけて285両が製造されました。
D51の足回りに一回り大きなボイラーを載せ、日本では一番力がある蒸気機関車となりました。
ただし、本格的に性能を発揮したのは1951年から1953年に掛けての装備改善(戦時簡略仕様→一般仕様)後です。
D51形から始まる戦時簡略化は、木材の多用(除煙板、炭台、ランボード、ナンバープレート等)、ボイラー等の材料割りの見直し、ドームカバーを鋳造から板材へ、炭水車の無台枠船底化及び台車の変更、ディスク車輪の使用、一部装備の省略、死重のコンクリートブロック搭載等です。
ナンバープレートを省略してペンキの直書きや、木部の塗装省略もありました。
また戦争が激しくなってくると、鉄道省全機関車に運転室防弾装置取付工事と、灯火管制改造(前照灯にルーバー付フード取付等)等が行われ、戦争末期には白ペンキで迷彩が施された車両もあります。
※ 「鉄道模型趣味誌」1991年8月号に、終戦直後に撮影された迷彩塗装のC58形の写真が掲載されています。


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