貨車の絵 その7
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オテセ9500形 大形鉄製石炭車
北海道の鉄道は もともと石炭輸送のために作られたものですが、当初は無蓋車による輸送を行っていました。
しかし、北海道の炭鉱は九州の炭鉱と違い 各々の規模が大きく 各炭鉱は専用鉄道を持ち、一度にまとまった量の石炭を運ぶ必要がありました。
なので北海道では早くから大形ボギー無蓋車(※貨車の絵 その2を参照。)が活躍していました。
ただ、貨車が大きくても無蓋車では荷降ろしが大変だったようで、積出し港で石炭を効率よく降ろして滞貨を減らす必要がありました。
そこで、明治44年〜大正2年(1911年〜1913年)に導入されたのが、このオテセ9500形 24トン積 大形鉄製石炭車です。
当時は 内地の貨車でもボギー式大形貨車は珍しかったのですが、オテセ9500形は3年間に531両も大量投入されています。各部寸法は当地の大形無蓋車の増トン車と同じです。
オテセ9500形は 欧米の大形石炭車を参考にしたものの 日本の独自設計であり、基本構造は 側開き式のホッパー車で、ホッパー床断面がΛ形になっています。
車端に立つハンドルを回すと 傘歯車とウォームギアで側扉の開閉軸が動かされる仕組みです。ウォームギアは出力側から回すのは困難ですから、積荷の重みで扉が勝手に開く事もありません。
絵を見ると車体両端にハンドルが立っていますが、前位側に立っているのが側扉開閉用ハンドルで 下部にギアボックスがあり、後位側は手ブレーキハンドルです。側扉開閉用ハンドルはL字棒状で、手ブレーキハンドルは円形です。
以降、この“セキ”タイプの石炭車は、北海道を中心に導入され、さらには石灰石輸送用ホッパ車等が派生する事になります。
オテセ9500形は その他装備にも特徴があり、北海道式の低い位置の自動連結器を採用し、当時の貨車としては優先的に真空ブレーキを装備しています。
真空ブレーキ装備車は348両で、配管のみのものが183両、計531両で、つまりオテセ9500形は全車が真空ブレーキを運用できるようになっていました。
それを受け、大正7年(1918年)には 室蘭本線で 9600形蒸気機関車による2700t石炭列車の試験が行われました。
オテセ9500形は、初めてという事もあり設計に試行錯誤が見られ、明治44、45年(1911、1912年)に製作された初期車127両と、大正元、2年(1912、1913年)製作の後期車404両に分けられます。
↑の絵の左側2つが初期車で、右側2つが後期車です。
初期車は斜めの補強が多数入っているのが特徴で、側扉のヒンジの数は7つ。後期車はヒンジの数が9つに増えています。
初期車の試作車9500号車の写真をみると、ヒンジの数は3つ〜9つまで試せるようになっていたようですが、7つで量産したら結局 強度不足だったようです。
また、側板と側扉の斜め補強は、四角い板が菱形に歪むのを防ぐ働きはありますが、側扉のものは強度上無意味だったようで、後年の更新でシンプルなものに取り換えられています。
オテセ11000形 大形鉄製石炭車
大正時代には、鉄道国有化で各私鉄から雑多な貨車が編入された事もあり 仕様の統一を兼ねて貨車の増トン工事が行われました。
車両の新製を抑えつつ 輸送力の増大を図るわけです。
オテセ9500形の場合は車体を かさ上げする事により、24t積みが30t積みになり、形式がオテセ11000形に変更されました。
改造は大正7〜11年(1918〜1922年)にかけて行われ、かさ上げ部分は木製です。
途中、大正9年(1920年)には鉄道院が鉄道省になりました。
また、自動連結器の高さも内地の車両と合わせるべく大正8年(1919年)に673mm→698mmに、大正13年(1924年)には内地と同じ876mmになりました。
さらに大正12年(1923年)には やはり優先的に全車に空気ブレーキが装備されています。
絵は、ちょうどその頃の姿。
セキ1形 石炭車
オテセ11000形は、昭和3年(1928年)の称号改正で セキ1形となりました。
絵は、戦前〜戦後の仕様ですが、この頃になると車体もだいぶ くたびれ、各部に補強が追加され、木製だった増積部分が鋼製になっています。
初期車の側扉は、先に記したように 多くが斜め補強の無いものに交換されました。
なお、戦前には 台車のバネの改良が施されました。
北海道の室蘭や小樽の石炭積み出し港は 大規模なもので、各産炭地から集まった石炭を一旦石炭桟橋で降して 荷主・炭種毎に分別貯蔵し、船が入港したら構内移送用石炭車に積み込んでカーダンパという装置で石炭車をひっくり返して、一気に荷降ろしする方法がとられていました。
セキ1形は老朽化で第一線を退いた後は この石炭構内移送用に使われ、昭和30年代末期まで活躍しました。
雄別鉄道 セキ1形 石炭車/美唄鉄道 セキ1形 石炭車/大夕張鉄道 セキ1形 石炭車
国鉄のセキ1形は、各炭鉱鉄道に払い下げられています。
絵は、左から雄別鉄道、美唄鉄道、大夕張鉄道のもので、いずれもセキ1形を名乗ります。
今も保存されている三菱大夕張鉄道のセキ1号車は、一見して後期車に見えますが、実は初期車(国鉄セキ118号車)のなれの果てで、修繕に修繕を重ねた結果 こんな外観になったものです。
北海道の石炭車は、冬季に積荷の石炭が凍結するため 荷降ろしに難儀たそうです。
特に水洗炭(採掘炭を水で洗う事によって、比重差で不純物(捨石・廃石・ズリ・ボタ)を分離した石炭。)が悩みの種で、カーダンパーで車体を逆さまにしても落ちないので、ハンマーで車体を叩いて なんとか凍った石炭を降ろしていました。
ただでさえ石炭に含まれる硫黄分で鉄板が腐食するのに、ガンガン叩かれては すぐに車体がベコベコになって 穴が開いてしまいます。
車体を“改造”ではなく“修繕”と表現したのは、まさに連続した修繕作業の結果の造形だったからです。
なお、石炭の凍結対策としては、昭和28年(1953年)に貨車を丸ごと温風ジェットで温める融炭装置 が実用化され、小樽及び室蘭の積出港に建設されました。
オテセ10500形 大形鉄製石炭車/セキ600形 石炭車
オテセ10500形は、オテセ11000形の増積工事が完了した後、その増備車として初めから30t積で製作された石炭車です。
大正13〜15年(1924〜1926年)に300両が登場しました。
大正13年には既に連結器高さは高くなっていましたが、オテセ11000形の設計を引き継いだ構造のまま製作されました。
台車は雑形のTR17形を改良したTR18形に変更されました。
双方の台車ともコイルバネを用いた台車でしたが、脱線癖があったようで のちに板バネに交換しています。
オテセ10500形は昭和3年(1928年)の称号改正でセキ600形となりました。
戦後は ほとんどの車両がホキ1400形(ホキ1形)に改造されました。
絵は上段がオテセ10500形時代、下段が セキ600形の補強が追加された姿。
夕張鉄道 セサ500形 石炭車
大規模の炭鉱では露天掘りによるものもありますが、坑道式の場合 並行して次々と坑道を掘っていきます。
坑道式といっても採掘方法は様々ですが、石炭を採りきった坑道を埋め戻しておかないと崩落・陥没の危険があり、その充填用の土砂は 軽くて運びやすい火山灰や石炭灰が適しています。
北海道炭礦汽船の系列の夕張鉄道は、もともと石炭と共に、この坑道埋め戻し用の火山灰を輸送する役目を担って開業しました。
普通だったら その役目は 石炭車の帰り便や 無蓋車で運べば良いような気がしますが、そこは大規模な北炭夕張炭鉱のこと。石炭車に類似した形態の火山灰輸送専用貨車を用意しました。
それがオテハ500形、及びオテハ600形、オテハフ50形の3形式です。
詳細は不明ですが、荷重18tでメーカー2社により、大正14、15年(1925、1926年)に合わせて32両が製作されました。
ところが やはり使用目的がニッチすぎたのか、昭和2年(1927年)にはオテセ500形、オテセフ50形に形式変更され、石炭車の仲間入りをしています。
そして さらに国鉄の貨車称号改正に合わせて 昭和3年(1928年)には セラ500形、セラフ50形へと目まぐるしく改番されています。
ただ、石炭車としては どうにも中途半端なサイズで 設計にも余裕がある事から、昭和9年(1934年)には28t積へと増積改造が施されて、32両全車がセサ500形となりました。
夕張鉄道セサ500形は、基本的には国鉄セキ600形の高さを低くした設計で、増積部分はオテセ11000形と同様の木板張りになっています。
国鉄直通貨車で、昭和40年代まで生き永らえたようですが、最後までコイルバネを使った古い台車のままだったようです。
なお、夕張鉄道セサ500形と書いていますが、実際の持ち主は親会社の北海道炭礦汽船で、側扉裾に わざわざ「北海道炭砿汽船株式会社 夕張鉄道借入車」と書いています。また 系列の天塩炭礦鉄道に渡ったものもいます。
さらに、土砂運搬用に増積部分を撤去してセラ1形となったものもいました。
美唄鉄道 セ1形 石炭車/三菱芦別専用鉄道 セ1形 石炭車
北海道の三菱系炭鉱専用鉄道では、線内輸送用に小形の2軸石炭車が活躍しました。
絵は左が美唄鉄道 セ1形 10t車?。右が三菱芦別専用鉄道 セ1形 12.6t車。どちらも戦後の姿。
美唄のセ1形は大正15年(1926年)に、フテセ1形として6両が製作されたものです。
昭和24年(1949年)にセ3〜6号車が三菱芦別専用鉄道に転属したもよう。転属後の形式は不明。
芦別のセ1形は、美唄の類似形式のようで、容積を増しています。
昭和35年(1960年)に大夕張鉄道の線路付け替え工事用にセ1〜6号車を貸し出している写真が残されています。
なお、三菱芦別専用鉄道にはもう1タイプのセ形がいたようで、「鉄道賛歌」という本には 計3種類の類似 石炭車が記録されています。
手ごろなサイズから、おそらく どの くるまも 石炭の他 ズリ捨てや、土木工事に重用されたことでしょう。
何か詳しいことを知っている方がいたら 教えてください。
これら2軸石炭車のホッパ構造は、他に見られない独特なもので、国鉄セキ車と同じ側開きながら その開閉はセム6000形のようなテコ(重り付き)で 流し板に仕込まれたロックを外すことによって行います。
テコ操作を軽くするためか 側扉は前後で分割されており、一斉に荷下ろしするのには向きませんが、小ロット輸送なので問題ないのでしょう。
側扉の傾斜は きつ目で、ヒンジ位置は国鉄セキ車より若干高く、ホッパ下部板は そのまま外に はみ出して 流し板になっています。
釧路臨港鉄道 セラ200形 石炭車/釧路臨港鉄道 トラ1形 無蓋車
釧路臨港鉄道 セラ200形は、大正14年(1925年)の鉄道開業の翌年の大正15年(1926年)から製作された、18t積石炭車です。
3軸車ですが 国鉄のオテセと同じ構造の側開きホッパ車で、車体は木造です。
釧路臨港鉄道の主要な石炭輸送ルートは、国鉄に乗り入れない春採〜知人 間の4.1kmなので、このくるまも社線内専用で過ごしたと思われます。
使いやすかったのか 増備は比較的長期間で、昭和17年(1942年)までに43両が製作されました。
時代は下って、昭和37,38年(1962,1963年)には 7両が19t積のトラ1形に改造されました。
保線用にでも使ったのでしょうか?
絵は左が セラ200形 公式側、右がトラ1形 非公式側。
セキ1000形 石炭車
セキ1000形は、昭和5〜19年(1930〜1944年)にかけて製作された30t積み石炭車です。
増備期間が長く、初期車200両と後期車1280両で設計が違います。
初期車は 台枠の端を連結器に合わせて高くしたのが セキ600形からの主な設計変更点です。台車は標準台車のTR20形です。
後期車は、内側の仕切り板の配置を変更し、側扉ヒンジ部を補強するなど改良したもので、この構造はセキ3000形に引き継がれています。
戦後は老朽化で徐々に両数を減らしながらも、昭和50年(1975年)まで活躍しました。
絵の下段左端は、美祢線の石灰石輸送に使用された車両で、台車のバネ部分にカバーが付いています。セキ1000形は内地でも使用されました。
下段右側の2両は後期車のヨンサントウ以降の姿で、セキ3000形と同様に道外禁止の黄帯を巻き、また、交流電化のために手ブレーキ、側扉操作用ハンドル共に配置を変更しています。
セキ1000形 石炭車 生石灰輸送 改造車
この車両は、セキ1000形初期車を生石灰輸送用に改造したものです。
従来 生石灰は鉄製有蓋車で運んでいましたが、製鉄用に大量輸送するには効率が悪かったので、ホッパ車化が図られました。
改造は、屋根を付けて 各部の防水を完全にしたものですが、成績良好で、生石灰用ホッパ車の量産に道を繋ぎました。
セキ1000形改造車は、改造両数は少ないものの、東武鉄道の大叶から浜川崎の日本鋼管に運用されました。
台湾鉄路管理局 35H1000形 石炭車
台湾の石炭車も日本国鉄のセキタイプの車両が活躍しています。
おそらく戦後からの活躍と思われますが、いつから活躍しているのかは不明です。
ただ、日本の国鉄において、戦時中の昭和17年(1942年)に同様な35t石炭車が設計されて、形式図が残されているのですが、もしかしてそれがこの石炭車の原形なのかもしれません。
台湾にも炭田があるので、けっこう量産されたようです。
35H1000形の基本的な寸法はセキ1000形と同等ですが、荷役設備の制約が日本と違うので 日本のセキ車より全長が長く、荷重も35t積みとなっています。
ただ、最近は安全のため積荷を減トンしているそうです。
側扉は前後で分割されていて、開閉ハンドルも両妻にありますが、前後の開閉装置が連動しているのかは不明です。
その他、台鉄の貨車の共通仕様として連結器解放テコの配置が日本と逆で、手ブレーキハンドルは低い位置にあります。
絵は1948年から量産の35H1000形ですが、その後増備の各形式も基本的にこんな感じです。
セキ3000形/セキ6000形 石炭車
セキ3000形は、戦後のセキ形石炭車として昭和26〜40年(1951〜1965年)に2730両が製作されました。
セキ1000形後期車と だいたい同じ設計ですが、台車を戦後の標準台車のTR41に変更し、ブレーキ機器の取り回しを変更しました。
また、溶接を全体的に取り入れ、また、ホッパー妻側の開口部を 積荷凍結防止の観点から塞いでいます。
蒸気機関車末期の北海道と言えば、「道外禁止」の黄帯を巻いたセキ3000です。
昭和43年(1968年)10月のダイヤ改正 いわゆるヨンサントウでは、一般貨物列車の最高速度が65km/hから75km/hに変更になりました。
しかし、75km/h化改造に適さない貨車も まだ沢山ありました。それらは識別のため 形式の前にロの小文字を加え、なおかつ幅200mmの黄帯を巻く事になりました。
なかでも石炭車はその特殊な構造からセラもセキも、改造ができずに 全車黄帯を巻いています。
黄帯を巻いた車両は75km/hの列車に組み込めませんから、運用に制限が生じて 管理が面倒なので、その多くを北海道に封じ込める事にしました。
北海道なら主体の石炭列車が最高速度65km/h(空車)なので、全部の貨物列車の速度をこれに合わせれば良いわけで、貨車の管理も楽です。
これがいわゆるマルロ車で、当初は形式の前のロの小文字を○で囲い、なおかつ黄帯の所に「道外禁止」と大書きしました。
ただし、表記を省略した車両もあったようで、このセキ車の道外禁止表記は 国鉄末期の昭和60年(1985年)から正式に廃止されています。
なお、セキ1000形やセキ3000形の荷重等の所定の表記位置は、手スリの下など一見書きにくそうな所に書くのが正規ですが、手スリの近くならガンガン叩きでの被害を逃れやすいための対策でしょう。
現場では無視して 書きやすい位置に書かれましたが・・・。
黄帯を巻いた頃は、ちょうど北海道内の交流電化が進んでいました。
交流25000V電化となると、直流1500Vよりもかなり危険で、近付いただけで感電の恐れがあります。
高い所に昇って行う、手ブレーキや側扉開閉のハンドル操作など もってのほかで、両ハンドルは位置を低くしたうえで 丸ハンドルを縦に装備する改造が施されました。
ただでさえ操作しにくい位置にある手ブレーキハンドルが 縦配置になってしまったため、少しでも操作しやすいように特大のハンドルを取り付けました。取り外した旧手ブレーキハンドルは、側扉ハンドルに転用したようです。
昭和44年(1969年)12月、セキ車の積車列車の制限速度がそれまでの65km/hから、55km/hに制限されて しまいました。
石炭列車の脱線事故が多発したためです。
この運転速度は 北海道内の列車なら、まあ 我慢するところですが、当時セキ車は 西日本や九州でも石灰石輸送用として活躍しており、山陽本線に乗り入れる西日本地区では特に問題となりました。
そこで、台車のバネを柔らかいものに改良すると65km/hまで出せる事が判明したため、セキ3000形を改造したのがセキ6000形です。
バネの交換だけなので、外見ではセキ3000形と見分けがつきません。
セキ6000形は昭和43、44年(1968、1969年)に 1509両が改造されました。改造は西日本地区が先行しましたが、追って北海道のものも改造されています。
北海道のセキ6000形は 主に線形の悪い根室本線で使用されたようです。
西日本地区のものは直流電化なので 手ブレーキハンドルの改造は されていませんでしたが、のちに北海道からハンドルを改造した転入車が来ています。
九州地区のものは台車のバネにカバーが付きました。
ホキ2100形 鉄鉱石及び石灰石専用 ホッパ車
ホキ2100形は、釜石製鉄所の原料輸送用として、セキ3000形を改造して昭和40〜44年(1965〜1969年)に41両が誕生しました。
上有住→釜石に石灰石を、陸中大橋→釜石に鉄鉱石を運ぶ 35t積み 積荷兼用車です。
荷重がセキ3000形から5tも増え しかも勾配線区で運用するため、ブレーキ装置を改良しました。
国鉄末期まで活躍しました。
近江鉄道 セキ1形 セメント原石輸送用 石炭車
近江鉄道セキ1形は、昭和40年(1965年)に31両が製作されたセメント原石(石灰石)専用車で、国鉄セキ3000形と同形車です。
近江鉄道では、多賀鉱山〜彦根で住友セメントの石灰石を運んでいました。
昭和61年(1986)に石灰石輸送が終了すると、三重県の国見山石灰工業鉱山に嫁ぎ、平成14年(2002年)まで働きました。
釧路臨港鉄道 セキ6000形 石炭車
釧路臨港鉄道(現・太平洋石炭販売輸送)は、釧路海底の太平洋炭礦で採炭される石炭を 石炭桟橋に輸送したり、国鉄線に連絡する目的で開業しました。
中でも 春採の選炭場から 知人の石炭桟橋まで4kmの石炭ピストン輸送が主な仕事で、ここの輸送の効率化のため昭和41年(1966年)から製作されたのがセキ6000形連接車です。
セキ6000形は 導入当初にセキ60000形と称していたようで、2車体で1両とし、荷重56tとしていました。
なぜ そんな連接車という特殊な機構を小鉄道が採用したかといえば、この車の開発には運輸省の試験研究補助金が活用されているためです。
国鉄で特殊車両を実験するよりも、釧路炭鉱の規模がコンパクトに完結していてよかったのでしょう。もしかしたら最高速度が低いのかもしれません。
セキ6000形連接車の増備は緩やかで、在来車と混成されていた期間が長く、昭和62年(1987年)までに14組28両が製作されました。
国鉄払い下げセキ車の続番なのか?連接車の1号車は6011号車で、1車体毎に車番が振られています。
なお、釧路臨港鉄道の石炭車は 元々国鉄払い下げのセキ車が活躍しており、時代とともに かさ上げや側扉の一括遠隔制御化改造が なされてきましたが、セキ6000形も かさ上げ状態で量産され、1車あたりの荷重は30tになりました。
セキ6000形連接車のその他の特徴として、機関車からの側扉一括遠隔制御装置が備わっています。
在来車との連結はジャンパ連結器を使用しますが、セキ6000形連接車は自動密着連結器装備し 電気連結器と空気管も一緒に自動連結できます。
また、石炭の積み込みはベルトコンベアで連続して行われるため、各車間に跨がって受け皿が付いています。
それでも多少は こぼれるのか、連結器など車端部の機器には 緑のカバーが掛けられており、石炭や雪から守られています。なので通常は その特徴的な連結部を見ることはできません。
車端面には時代と共に いろいろ装備が追加されているようです。留置ブレーキの小さな丸ハンドルも 車端面下部にあります。
セキ8000形 石炭車
国内炭鉱が 輸入炭や石油に押されて 完全に斜陽化していた昭和50年代末、突如として誕生した石炭車が、セキ8000形です。
その頃でも まだ 僅かばかりの石炭列車は走っており、また セキ車を使った石灰石列車も走っていました。
もうセキ6000形もボロボロでしたが、先の短い石炭輸送用の貨車を新製する事は 国鉄の財政上困難でした。
ところが、2度のオイルショックの経験で石炭に視線が向けられたため、余剰となったク5000形の改造名目で製作されたのがセキ8000形です。
改造と言っても 実際は部品流用の新製で、昭和56,57年(1981,1982年)に155両が製作されました。
従来のセキ車と異なり、台車は高級品のTR63系で、各部の設計を見直した結果、積車空車とも最高速度75km/hが可能なセキ車となりました。
なお、台車バネ部に凍結・粉塵防止用のカバーが取り付けられるよう準備工事がされており、試験的に数両にカバーを装備しました。
荷重は従来と同じく30tですが、オテセ9500形以来ず〜っと続いてきた基本デザインが 少し変わりました。
新製後は北海道に投入されましたが、セキ3000形、セキ6000形も かなり残存していたので、その最高速度が営業で発揮できたかはどうかは不明です。
平成2年(1990年)に北海道の石炭列車が全廃されると、西日本・九州地区に移動しましたが、平成10年(1998年)の美祢線の石灰石輸送を最後に 引退しました。
東武鉄道 ヲキ1形/ヲキフ1形/ヲキ21形/ヲキフ21形 石灰石専用 鉱石車/鉱石緩急車
東武鉄道 ホキ31形/ホキ51形 砂利輸送用 ホッパ車
東武のヲキ1形とヲキフ1形は、浅野セメントが東武東上線沿線の 根古屋の鉱山からセメント工場まで 石灰石を輸送するために製作した私有鉱石車です。
昭和4年(1929年)に荷重28tのヲキ1形が14両、緩急車で26t積みのヲキフ1形が4両製作され、東武東上線に配置されました。
さらに昭和13年(1938年)には同一設計で 東武伊勢崎線に ヲキ21形6両とヲキフ21形2両が登場しました。
こちらは東武鉄道の社車で、葛生からの石灰石輸送に活躍しました。
どちらの輸送も一般貨物に併結された小単位のものだったらしく、国鉄セキ600形を参考に設計しながらも ヲキの留置ブレーキは側ブレーキとなっています。
側開き式なので 下廻りに側ブレーキを設置すると 荷降ろしの際に邪魔ですし、粉が詰まって良くないのですが・・・。
なぜ苦労して側ブレーキ付きで設計したかと言えば、やはりその輸送ルートと規模の小ささに根拠があり、目的地に着くまで何度もヤードを経由して 突放・散転入換の洗礼を受ければならないためです。
実はセキタイプ貨車(赤ホキ含む)の手ブレーキハンドルは、貨車にしがみ付いてから よじ登って そこに辿り着くまでが実に大変で、まさか転がっている貨車に飛び乗って手ブレーキを掛けるというのは無理な話なのです。突放する場合は 事前にブレーキ係が乗っている必要があります。
↑の絵は、上段左からヲキフ1形登場時、ヲキフ1形 流し板付き 、ヲキ1形の晩年で、ヲキ1形の台車の積荷よけバネカバーは、側ブレーキのある所には取り付けられないで 我慢しています。
下段は 伊勢崎線系統のヲキ21形とヲキフ21形の晩年の姿。
根古屋の鉱山は昭和42年(1967年)に閉山となり、ヲキ1形全車とヲキフ1形2両は系列の日本セメント上磯工場の専用線に転属しました。
ところで、ヲキ1系の流し板付きのものは、ヲキフ3号車とヲキフ4号車の写真しか見当たりません。この2両は上磯工場には移籍せず、なぜか東武に残りました。
この2両の写真は、なぜか単独で東武東上線の貨物列車に併結されていることが多く、もしかしたら以前から東武が線路の砕石輸送用にでも借り上げてたのかもしれません。
それなら流し板付きも納得ですし、東武に残ったのも説明がつきそうです。
ヲキ21形とヲキフ21形の全車とヲキフ1形2両は、いつしか国鉄直通をやめ ホキ301形と共に社線内の砂利輸送に活躍する事となり、昭和45年(1970年)にホッパ車に形式を改めました。
ヲキ21形はそのままホキ31形となりましたが、ヲキフは↑の絵のように緩急車設備を撤去してホキ51形となりました。
北海道に渡ったヲキフ1形も似たような改造しています。
側開き式ホッパ車は、荷降ろし施設を無蓋車と同等のもので済ませられる利点があるので、結構便利に転用が利きます。
ホキ31形、ホキ51形は 昭和58年(1983年)、上磯工場に移籍した仲間は平成元年(1989年)まで活躍しました。
セキ4000形/セサフ1形 石灰石専用 石炭車/石炭緩急車
国鉄セキ4000形、セサフ1形は、元をたどれば浅野セメントが青梅鉄道 二俣尾から鶴見臨港鉄道 浜川崎への石灰石輸送のために製作した私有鉱石車です。
昭和5年(1930年)に25t積のヲキ1形が11両、23t積のヲサフ1形が4両誕生し、浅野セメント系列の青梅鉄道に配置されました。
こちらは東武の鉱石車と違って 二俣尾の大きなホッパから まとまった量を輸送していたようです。全体的に小柄なのは 荷役設備の影響でしょう。
昭和19年(1944年)に青梅鉄道他が戦時国有化されると 国鉄セキ4000形、セサフ1形となり、引き続き二俣尾からの石灰石輸送に活躍しました。
その後セキ4000形は 昭和32年(1957年)にホキ4000形ホッパ車に改称され、さらに昭和38年(1963年)にホキ600形となりました。
セサフ1形の方は 国鉄では使い勝手が悪かったのか 早くに長期休車(途中で書類上は ホサフ1形に形式変更。)となり、昭和41年(1966年)に廃車後 2両が福井鉄道に渡って ホサ1形バラスト散布車に改造されて活躍しました。
昭和39年(1964年)に二俣尾からの石灰石輸送は廃止となりましたが、ホキ600形は 氷川から高麗川への石灰石輸送等に補助的に使われ続け、昭和44年(1969年)まで活躍しました。
ホキ150形 石灰石専用 ホッパ車
終戦直後、昭和21年(1946年)から始まった青梅線 氷川駅(現・奥多摩駅)からの石灰石輸送には、主にトキ900形が使用されていました。
しかし、トキ900形は設計寿命3年の戦時設計車であり、劣化も早かったので 代替えのホッパ車として用意されたのが ホキ150形 30t積みホッパ車です。
昭和29年(1954年)に セキ1形から20両が改造されました。
改造内容は車高を低くしただけですが、これは石炭より重い 石灰石の比重に合わせたというより、積み込み施設のホッパーの高さ制限によるそうです。
種車が古くて老朽化もあり、数年で廃車されました。
ホキ1形 バラスト専用 ホッパ車
ホキ1形は 線路保線用のバラスト散布車として、昭和33〜36年(1958〜1961年)に250両がセキ600形から改造されました。
すでに前年には 高性能なバラスト散布車のホキ700形が登場していましたが、旧形石炭車を改造する事で予算の節約を図ったものです。
荷重はセキと同じ30tですが、砕石の比重に合わせて車体を切って車高を下げ、側扉下に散布時の案内板を取り付けました。
なお、ホキ1形は 登場後 数年はホキ1400形を名乗っていました。
配備先は すべて北海道内で、雪捨て列車へ使用する事も考慮されたのだと思います。
のちに 昭和43年10月のダイヤ改正を受けて、制限速度が65km/hなので黄帯を巻きました。
古い車両ながら昭和51年(1976年)まで生き延びたようです。
ホキ400形 石灰石専用 ホッパ車
ホキ400形は、ホキ150形の増備車としてセキ1000形から改造されたもので、昭和32〜39年(1957〜1964年)に105両が登場しました。
改造内容はホキ150形と同じで、種車はセキ1000形の初期・後期 関係なく選んでいます。
私有貨車のホキ4200形と並行して増備されましたが、種車が古いので 昭和40年代中頃までに廃車されました。
東武鉄道 ホキ301形 砂利輸送用 ホッパ車/大井川鉄道 ホキ400形 ホッパ車
東武鉄道ホキ301形は、国鉄ホキ400形を譲り受けたもので、東武開発の私有貨車です。壬生〜業平橋間で砂利輸送に活躍しました。
大井川鉄道ホキ400形は、やはり国鉄ホキ400形を昭和44年(1969年)に4両購入したもので 砂利輸送に使ったそうです。
ホキ4200形 石灰石専用 ホッパ車
戦後、石灰石輸送は順調な伸びを見せました。
国鉄では石灰石輸送用にホキ400形を用意していましたが、石灰石輸送の顧客は限られており、特定の荷主だけ優遇するわけにもいかないので、増備分は私有貨車を製作してもらう事にしました。
それが ホキ4200形 30t積み 石灰石専用ホッパ車で、昭和34〜37年(1959〜1962年)に奥多摩工業向けに110両、昭和42年(1967年)に麻生セメント向けに18両が製作されました。
ホキ400形はセキ1000形の改造車でしたが、こちらは当時製作されていたセキ3000形と同じ設計(車高のみ違う。)の新製車です。
最高速度65km/hも同じですが、奥多摩のものは勾配線区で制動力が不足したため、のちにブレーキ装置を改造しました。
麻生セメント向けのものは 製作年次が新しいので、最初から改良されたものを装備しています。
のちに 奥多摩向けのうち 93両がホキ34200形に改造され、それ以外は昭和58年(1983年)まで活躍しました。
ホキ34200形 石灰石専用 ホッパ車
石灰石・生石灰の需要は大きく分けてセメント用と製鉄用、肥料用があります。ホッパ車で大量輸送するのはセメント用と製鉄用で、そのうち製鉄用は粒の細かいものが好まれます。
ただ、粒を細かくすると どうしてもパウダー状のものも混ざり、それを剥きだしで運ぶと 周囲に撒き散らして 公害になってしまいます。
ホキ34200形はそれを防ぐために ホキ4200形に 飛散防止用カバーを取り付けたもので、昭和51〜58年(1976〜1983年)に 奥多摩向けのもの93両が改造されました。
ただ、カバーをアルミで作って軽量化に努めたものの自重が増えて 荷重が28tとなってしまい、形式変更と相成りました。
JR化後も生き残り、平成6年(1994年)まで活躍しました。
岩手開発鉄道 ホキ100形 石灰石輸送用 ホッパ車
岩手県の岩手開発鉄道では、昭和35年(1960年)から岩手石橋〜赤崎間に石灰石輸送を始めました。
その際に製作されたのがホキ100形で、以降 平成12年(2000年)までに 52両が増備されました。
基本的には国鉄ホキ4200形と同じ設計でしたが、モーターによる側扉の遠隔操作ができ、ジャンパ線を編成間に引き通しています。また、妻板の形状も違います。
さらに昭和54年(1979年)には、荷重を30t→35tにする増トン改造がされて、箱が嵩上げされています。
なお、増備が長期間に及んでいるため台車だけでもTR41系→TR213系→TR225系と変化していて、その他、側扉開閉機構の機器変更など 時代による装備の改修もあり、1両毎に どこかが違います。
東日本大震災では多くの貨車が被災しましたが、無事復活を遂げました。
ホキ4700形 生石灰専用 ホッパ車
ホキ4700形は上述のセキ1000形改造車の成功を受けて量産された30t積 生石灰輸送用ホッパ車です。
生石灰の大量消費者は主に製鉄所で、運用先が限られるために私有貨車とされました。
また、この頃は発展途上の車種であったため、所有者毎に仕様が異なります。
最高速度はセキ車と同じく65km/hで、昭和44年(1969年)には それでも危ないということで、積車時55km/hの制限が掛けられました。
なお、当初はホキ4400形を名乗り、昭和38年(1963年)の改番でホキ4700形となりました。
↑小野田セメントの26両(昭和34、35年(1959、1960年)製)は、セキ3000形に屋根を付けた感じの簡素な設計で、晩年は日石輸送に移籍して昭和62年(1987年)まで活躍しました。
↑宇部化学の6両(昭和35、36年(1960、1961年)製)は長めの車体で丸屋根が特徴でしたが、後年は屋根のハッチ部分を切開されて、石灰石輸送に転用されました。昭和51年(1976年)に廃車。
マイナーな存在ゆえ、登場時の資料が見当たらないため、晩年の仕様で描きました。
↑吉沢石灰12両(昭和35、36年(1960、1961年)製)と奥多摩化工15両(昭和36〜43年(1961〜1968年)製)は、着荷主が同じため基本的に同一仕様で、屋根踏板の形状が違う程度です。
全長はセキ車と同じに戻り、屋根の肩の傾斜が急な生石灰ホッパ車の基本形が完成しました。
後年、山線に運用する奥多摩のものはブレーキ装置が改造されました。
両車ともチキ80000形(貨車の絵その5を参照。)に置き換えられて、昭和52年(1977年)以降廃車されました。
ホキ500形 石灰石専用 ホッパ車
ホキ500形は、50t積 石灰石専用ホッパ車として 昭和35年(1960年)に開発された貨車です。
同年に日本車両が開発したタキ50000形ガソリンタンク車では 50t積を実現するために3軸ボギー台車が採用されましたが、これに注目した国鉄は この台車をTR78形として標準化し、他形式への応用を検討しました。
製作は 試作の意味もあったので 国鉄浜松工場で内製する事とし、50t積にあやかってホキ500形を名乗り とりあえず3両が製作され、同じくTR78を採用したシキ550形大物車と一緒にお披露目されました。
結果として シキ550形は大成功で量産されましたが、ホキ500形は失敗作でした。
というのも、荷重:自重比も 荷重:車長比も 前年登場のホキ4200形に劣っていたのです。
貨車1両としては荷重が増えても、編成としたら むしろ輸送効率が悪くなってしまうのです。
この問題は、国鉄の建設規定61条の「車体長1mあたり重量5t以下。」の制約があったために、車高を低くして無駄に全長を伸ばさざるを得なかったことに起因します。
同じ50t積なら 全長をもっと短くして、かさ高にした方が 重たいフレームも短くできて自重も軽くなるので、貨車を設計する側としては この設計は納得のいかないものでした。
実はセキ車も オテセ11000形の時代から 既にこの建設規定に抵触しており、特認で認可されていました。
この建設規定61条は 例えば橋梁で荷重が集中して折れたりするのを防ぐための制限ですが、同規定の62条には、「運用区間を限定する貨車は 線区に応じてこの制限を超過できる。」旨が書かれています。
運用区間が定まっていて 長編成を組む石灰石輸送用貨車なら、普通は特認扱いで製作されるべきでした。
ところがホキ500形は 誰の意向か?特認扱いも貰わず、61条を律儀に守って作られたのでした・・・。
また、無駄に車長があるという事は 荷役施設との不適合も あり得ます。
結果として量産叶わず、昭和40年(1965年)にはホキ400形に500〜502の車号を明け渡して ホキ2900形に改番されました。
と、何やら不憫な貨車に感じますが、輸送効率が悪いと言っても セキ車で石灰石を運ぶよりかは荷重:自重比は良く、車両性能も悪くないので試験の後は伯備線でセキ車に混ざって昭和50年(1975年)まで働きました。絵に描いたのは その晩年の状態。
また、のちにホキ2500形に採用された側扉の構造は このホキ500形で試作されたものが元になっています。
ホキ5300形 焼結鉱専用 ホッパ車
ホキ5300形は 浜川崎の日本鋼管川崎製鉄所から 浅野の鶴見製鉄所へ、製鉄途中の焼結鉱を運ぶために製作されました。
焼結鉱とは鉄鉱石とコークス、石灰を一緒に焼き固めたもので、溶鉱炉に入れる前の段階の鉄原料です。大まかに鉄鉱石→焼結鉱→銑鉄→鉄鋼の流れで鉄製品は作られます。
日本鋼管川崎製鉄所と鶴見製鉄所は 2.7kmと距離が近いため、日本鋼管は国鉄鶴見線を あたかも構内鉄道のように高温の原料輸送に活用しました。
ホキ5300形は ホキ4200形をベースに車体を断熱構造としたことが特徴で、内張り固定用のボルトと熱変形防止用の斜め補強が目立つ 武骨な外見となっています。
荷重30tで昭和36年(1961年)に20両が製作され、昭和46年(1971年)まで活躍しました。
ホキ2000形 石灰石専用 ホッパ車
国鉄ホキ2000形は、ホキ500形の反省から 輸送効率を高めて設計された・・・完璧な失敗作です。
車長はホキ500形と同大で 荷重65tを実現しました。
全長を長くしても良しとしたのは、新規開拓の輸送需要に使用する予定であり、荷役設備も新設となるためです。
ホキ2000形は 2軸台車を電気機関車のように3つ配置する特殊な設計で、運用区間を限定し、機関車並みの軸重15tとするため 車軸を太くしました。
ただ、重量が一定な機関車と異なり、それが変動する貨車では設計がすごく大変でした。しかし そもそも、技術的な冒険を 量産前提の車両で行うのは間違っていると思います。
営業からの強い要請があったのでしょうが、荷重を最大にするという目的ばかりに目がくらみ、足廻りもブレーキ装置も特殊で、保守・維持管理の事は 作った後で考える事にしました。
試作車完成時に書かれた当事者の設計レポートにも、「量産および保守上なお検討すべき点が残されている。」と明言されています。
ところが、現場の検修人・保線人にとって幸いな事に この車両を運用する予定だった輸送計画自体が撤回されてしまいました。製作側はハシゴを外された感じです。
時は昭和38年(1963年)。
製作中だった試作車に当たる2両は とりあえず落成させましたが、車体が長すぎて他への転用もできず、この車両が日の目を見る事はありませんでした。
昭和39年(1964年)には美祢線 重安〜厚峡、山陽本線 周防富田〜小郡で 走行試験を実施しましたが、結果が実用レベルに達したのかどうかも定かではありません。
荷重を欲張らずに50t程度に抑えて、TR78形を履いたホキ500形の短縮嵩上げ版を製作してれば 違う未来も見えたのでしょうが・・・。
ホキ8500形 石灰石専用 ホッパ車
ホキ8500形は、石原町→黒崎の石灰石輸送に使うために製作された 私有35t積ホッパ車です。
当時 同輸送には国鉄のセキ車が転用されていましたが、国鉄の勧めにより増備車を三菱鉱業セメントの私有貨車としたものです。
35t積とするためホキ4200形に比べ全長を伸ばし、ホッパの幅も広げています。その結果充分な容積が得られたので車高は低くなりました。
これが前期車で、昭和42年(1967年)に 17両が製作されました。
少し間をおいて 昭和49年(1974年)に増備された後期車は、ホキ9500形と似た仕様になり、22両が製作されました。
ただ、ホキ9500形と似ていると言いっても側扉一斉開扉機構は無く、独自設計です。
この車の運用区間では、成田から引っ越してきたホキ9500形も 側扉の開閉は手動で、操作ハンドルを取り付けたままホキ8500形と混用されていました。
なお、当地の車両には 荷役に使うのか?側面車端に謎のフック掛けがあります。
ホキ8500形は、平成12年(2000年)まで活躍しました。
ホキ2500形/ホキ9500形 石灰石・砕石用ホッパ車
ホキ2500形はホキ400形の後継として、昭和42年(1967年)から製作された石灰石専用車です。
最高速度が65km/h→75km/hに、荷重が30t→35tになりました。なお、従来の積み込み施設がそのまま使えます。
なお、石灰石専用車と言っても 実際は砕石輸送にも混用されています。
荷降ろし時の側扉の開扉は、新たに空気シリンダによるものとしました。操作用圧搾空気を地上施設から供給し、車両間にホースをつないで一斉荷役できます。
車両入換時の切断事故を防ぐため 列車組成時は荷役用エアホースは連結しないのが建前ですが、線区によっては連結したままの場合もあります。
開扉の手動操作もできるように 従来通りのハンドルも備えていますが、手ブレーキハンドルと間違えないように 未使用時は軸から取り外して格納しています。
ただ、地上に空気供給元が無い線区を運用する車両は、旧来の石炭車に合わせ 例外的に 側扉手動操作用のハンドルを取り付けたまま運行していたようです。
ホキ2500形の前・中期車は氷川(奥多摩)向けに増備され、東京鉄道管理局→東京西鉄道管理局に配備されました。
後期車は だいたい美濃赤坂むけに名古屋鉄道管理局に配備され、前〜後期車で計172両が製作されました。
のちに 美濃赤坂では細かい石灰石を輸送するようになり、飛散防止のためカバーの取付改造をしたものが増えました。
ホキ34200形は 開口部全体を塞いで 蓋も付けたため自重が増えて荷重が減ってしまいましたが、こちらは簡略構造で蓋が無いため、荷重35tを維持しています。
昭和45年(1970年)には成田空港建設のための砕石輸送車として、新東京国際空港建設公団の所属のホキ9500形が193両誕生しました。
私有貨車なので形式を分けましたが、ホキ2500形後期車とまったく同じ仕様です。
砕石輸送事業終了後は、当初の予定通り石灰石輸送に転用され、日本石油輸送、日本セメント、小野田セメント、奥多摩工業の私有貨車となりました。
ホキ2500形の方は国鉄からJRに引き継がれましたが、経年劣化が問題となりました。
JRとしては廃車したいところでしたが、ユーザーが存続を望んだためユーザーの私有貨車としたうえで更新工事をする事となり、それらはホキ9500形に編入されました。
なお、平成8年(1996年)に19500番代が3両新製されています。これはホキ2500形のホキ9500への改造に伴う予備車確保のために制作された異端車で、ブレーキ装置が最新式のものになっています。
絵は色々描きましたが、積荷の山の出来方は 積みこみ施設によって異なります。石の種類によっても変わってくるでしょう。
積み込み施設は大きく分けて ホッパー直下荷役と ベルトコンベア荷役及び土建用重機による荷役の3種類があります。
ホッパー直下荷役は 圧倒的に荷役時間が短いですが、大規模な設備が必要で、貨車の方もそれに合わせたサイズになります。
重機やベルトコンベアによる荷役は、小規模な設備で済むものの 荷役に時間がかかります。
基本的にホッパー直下荷役は、施設の積み下ろし口の間隔の通りに 複数の山ができ(奥多摩は4山。)、ベルトコンベアによる荷役では、ベルトコンベアを横動させる事で なだらかな山ができます。
石灰石の色合いは、私の絵は砂利と区別するため あえて白っぽく描いていますが、実際は灰色や茶系の濁った色のものを運んでいる事の方が多いです。
ただ、これは産出地の違いではなく 用途別の粒の大きさと その時削っていた地層の違いと言え、どの鉄道でも純度の高い 真っ白な石灰石を運んでいる時期があります。
ホキ8800形 生石灰専用 ホッパ車
ホキ8800形は、ホキ4700形30t積生石灰専用車の後継車です。
車体を伸ばして荷重35tを確保するとともに、デッキを設けて台車間隔を広くしたことにより、最高速度が積車空車とも75km/hに向上しました。
このデッキを設けるという改良は、入換作業にとっても非常にありがたいものです。なぜかというと、東武ヲキ1形の解説でも記述しましたが、セキ車タイプの手ブレーキ配置は、妻壁をよじ登って手ブレーキハンドルにたどり着くまでがまず大変で、ハンドルの逆回転で緩解不良も起こしやすいものなのです。
そのデッキですが、見てのように吉沢石灰と奥多摩所有のものは一部嵩増しされていますが、ここには電動式側扉の駆動ユニットがあります。
また右端絵の奥多摩のホキ8800形は、後述のホキ2800形の一部設計を取り入れた18800番代ですが、足廻りは製作安価な私有貨車仕様(メンテナンスは国鉄が手間をかける必要がありますが・・・。)のままです。
ホキ8800形は昭和42〜49年(1967〜1974年)に掛けて31両が製作されましたが、すでに国鉄貨物の斜陽期に入っていたため 全盛は短めで、ほそぼそと残った車両も平成4年(1992年)に廃車されました。
ホキ2800形 生石灰専用 ホッパ車
ホキ2800形は、昭和40年代中期に荷主離れを恐れた国鉄が、本来私有貨車であるべき生石灰専用ホッパ車を 国鉄所有の物資別適合貨車として用意したものです。
基本的な仕様は上述のホキ8800形と同じですが、国鉄車として古い規格の部品や設計は使わず、素材を吟味して ちょっと高級な足廻りと、車体と、荷役装置と、ブレーキ装置を採用しています。
足廻りをコロ軸受にしたので、トキ25000形と同じく車体塗装は赤3号となりました。
ホキ2800形は昭和45年度(1970年度)に20両が製作され、奥多摩や美濃赤坂を拠点に活躍して、なんとかJR化を乗り越えた4両は平成7年(1995年)に廃車されました。
ホキ650形 生石灰専用 ホッパ車
ホキ650形は、昭和46年(1971年)にセキ3000形から7両が改造された 生石灰専用ホッパ車です。
国鉄の生石灰専用車は、前年に新製車のホキ2800形が登場したのですが、高級仕様にしすぎて そのままでは増備がままならなかったため、減価版としてセキ車の改造で賄ったものです。
もっとも、ホキ2800形は国鉄としては常識的な理想の設計で、むしろ当時の私有貨車の仕様の方が陳腐化していた状況だったのですが、所期の需要を満たすなら改造車で充分だったのでした。
とは言うものの改造内容は広範囲で、最高速度を75km/hにするために荷重が5t減の25t積みとなってしまいました。
ホキ650形は、全車 美濃赤坂駅に配備され、昭和60年(1985年)まで活躍しました。
ホキ8100形 石灰石専用 ホッパ車/ホサ8100形 石炭専用 ホッパ車
ホキ8100形は 三井鉱山がホキ4200形の増備として昭和49年(1974年)に製作した石灰石専用ホッパ車です。
数年前には私有石灰石専用車として ホキ9500形が登場していましたが、三井鉱山ではホキ4200形との混用のため側扉の一斉開扉機構は不要であり、また少しでも増積するために新形式を起こしました。
荷重は38tを実現しましたが、国鉄の建設規定の都合でホキ9500よりも全長が伸び、デッキを装備しました。
また、実はホッパはホキ9500形と同大で むしろ容積は少し減っているため、石灰石をてんこ盛りにして運用しました。
ホキ8100形は33両が製作され、船尾駅に配置されて枝光・苅田港へ石灰石を運びましたが、国鉄末期にその輸送は終了しました。
そのため大牟田→金田の石炭輸送に転用する事となり、昭和58年(1983年)に荷重を20tとしたうえで 全車が石炭専用車のホサ8100に形式変更されました。
この車両は JR化後の平成6年(1994年)まで活躍しました。↑の絵は最晩年の姿です。
ホキ2000形 石灰石専用 ホッパ車
JRホキ2000形は、老朽化したホキ9500形の置き換えのために 平成23年(2011年)から制作の 35t積み石灰石専用ホッパ車です。
上廻りはホキ9500形と まったく同じで、ブレーキ装置もホキ9500形19500番代と同じものです。
ただ、走行装置に95km/h対応に改良した台車を採用したため、形式が変更になったものと思われます。
五日市鉄道 リ1700形 土運車/リフ1600形 土運緩急車
五日市鉄道リ1700形及びリフ1600形は、浅野セメント西多摩工場への粘土運搬用として昭和3年(1928年)に製作されました。
製作数はリ1700形が17両、リフ1600形が3両。車体構造は転倒式土運車 いわゆる鍋トロで、荷重はそれぞれ10t、8tです。
荷台を転倒する方法は片側3ヶ所のヒンジピンを支点として、反対側の鍋中央を吊る方式です。
五日市鉄道は昭和15年(1940年)に南武鉄道に合流し、さらに昭和19年(1944年)に国鉄に買収されました。
その際、買収私鉄貨車の通例として国鉄籍が与えられ、リ1700形はリ2100形に、リフ1600形はリ2050形となりました。
しかし、この貨車が使われるのは大久野駅周辺の浅野セメント(日本セメント)の専用線のみであったらしく、実態は専用線の貨車、あるいはトロッコのようなもの。
国鉄に籍を置いておく必要もなく、昭和29年(1954年)に国鉄車籍が抹消されました。
その後は粘土運搬用トロッコとして、昭和43年(1968年)まで働いたようです。
リ2000形 土運車
土運車という車種は 一般的には鉄道建設のために用いられる土砂を運搬する車で、わが国最初の鉄道建設にも使われたという 貨車の中でも古い存在です。
と言っても、車体構造は無蓋車と同じで、中古の無蓋車を非営業用の土運車に転用した例も多いです。
違いといえば汎用無蓋車が主に石炭を相手にするのに対して、比重の重い土砂を運ぶのに適した造りになっています。
そんな中、大正10年度(1921年度)製のリ2000形は 転倒式(側転式)荷台を備えた特殊な設計です。
土木の現場で働くナローゲージのダンプトロッコを拡大したような感じで、荷台をダンプ構造にする事により 迅速な荷降ろしを可能とします。
ただし、荷重は10tしかなく 製作費も高いので 11両の配備に終わりました。
ダンプトロッコは何両も連ねて一気に土砂を降ろす使い方をするので、リ2000形も おそらくどこかに集中配備されて、虎の子的存在として使われたと想像されます。戦後の写真では仙台駅常備となっています。
荷台は凝った造りで、転倒すると側戸がリンクで上方に跳ね上がるようになっています。普段の転倒防止には鎖で固定する簡単な方式です。
製作年が大正14年の自動連結器化の前となっていますが、構造的にバッファの装備が考慮されていないようなので、当初は朝顔カプラーを使用していたのかもしれません。
昭和3年(1928年)の改番前は 鉄製土運車テツ3000形を名乗っていました。そして 昭和30年代まで活躍したようです。
リム300形 土運車
リム300形は、戦後板の転倒式土運車で昭和28年(1953年)からトキ900形の改造名目で355両が新製されました。
戦後になると古典無蓋車の成れの果てのような土運車は更新が必要で、多数の人夫を雇っての荷降ろしの時代でもなく、本格的な転倒式土運車が登場したのでした。
設計はリ2000形よりも進化していて、荷重15tを実現しました。円形ハンドルを操作して 荷台を徐々に傾ける事ができます。
車体構造上 最高速度は65km/hですが、リム300形は国鉄末期まで活躍しました。
ホキ700形 事業用ホッパ車
ホキ700形は、線路のバラスト散布専用に製作された事業用ホッパ車です。
従来、線路新設や保線をする際は 無蓋車や土運車を使用してバラストを散布していましたが、スコップを使って人力で 手間と時間がかかりました。
土運車では早くから荷台側転ダンプ式ものが開発されていますが、これはどちらかというと建設用で ドザーッと土砂をぶちまける用途、例えば田んぼを埋め立てて広大な貨物ヤードを造るような仕事に使われていました。
線路のバラスト散布、特に砕けて少なくなったバラストを補充する保線作業には、散布量をコントロールできるホッパ車が求められました。
そうして昭和32年(1957年)に開発されたのが 流し板付きホッパ車のホキ700形です。
このくるまは通常のホッパ車と違い、ホッパ部分が高い位置にあり、そこから落とされたバラストを流し板で軌道肩部分に散布する仕組みになっています。
バラストの散布量は落とし口のゲートの開く量をデッキの円形ハンドルで制御し、またレバーハンドルで流し板の角度を変える事で 散布位置を軌間外0.5mと1mの2段階に選択できます。
なお、落とし口のゲート操作用円形ハンドルは左右2つあり、個別に操作して片側のみ散布する事も、左右で散布量を違える事も出来ます。
ホキ700形は、前期形35両、流し板角度を少し急にした後期形20両が製作され、全国に分散配置されてホキ800形と混用されました。
絵は左が前期形、右が後期形。
ホキ800形 事業用ホッパ車/新幹線 931形 ホッパ車
ホキ800形は ホキ700形の改良形として、昭和33年(1958年)から製作されました。
形態・寸法は ホキ700形の後期車とほぼ同じですが、ホキ800形は流し板を改良し、軌間内にもバラストを散布出来るようにしました。
軌間内散布のため、脱線防止用に台車に排障器が付いています。
ホキ800形は保線作業の近代化に大きく貢献し、前期形が973両。台車等を変えた後期形が105両作られ、全国の鉄道局と建設局に配置されました。
またホキ800形の標準軌版が新幹線建設用に3000形として導入され、東海道新幹線開業後は新幹線931形として新幹線の保線作業に活躍しました。
新幹線931形は126両が製作され、内 12両が のちに在来線の台車に振り替えられてホキ800形に編入されました。
絵は上段左からホキ800前期形、ホキ800後期形、新幹線931形です。
下段は前期形のバラスト散布風景で、左から軌間外1m、軌間外0.5m、軌間内散布です。
折角あるホキ800形の軌間内散布機能ですが、元々使用頻度は少なく、散布の加減が難しくて バラスト乗り上げによる脱線を懸念して、使用禁止としている所もあったそうです。
ホキ700、800形式の運用は、多くの場合は操車場から工事用臨時列車(工臨)として数両編成で山に行き、バラスト(砕石)を積み込んだら操車場に戻り、そこから散布場所に向かいます。
また、かつて国鉄時代は 貨物列車に併結されている姿が良く見られました。
散布の際は、基本的に工臨を仕立てるか、線路閉鎖してモーターカーに牽引されます。
散布要員は だいたい4名で、散布用ハンドル操作に2名、散布状況確認に2名です。その他、必ず地上要員がいて、撒かれたバラストを整理します。
なお、数両編成の場合でも1つの地点で散布に使われる車両は たいてい1両で、1両が空になったら次の車両と、作業員は順次乗り換えていきます。
ホキ800形はJR(旅客会社)に引き継がれ、現在も活躍しています。また、私鉄にも譲渡車や同形車が多数存在しています。
東武鉄道 ホキ1形 ホッパ車
東武鉄道 ホキ1形は、国鉄ホキ800形の姉妹車で、昭和37年(1962年)に登場しました。
一見してホキ800形そっくりですが、東武ホキ1形は軌間内散布機能を廃し、また流し板の角度も違います。
10両が在籍したようですが 徐々に廃車され、秩父鉄道、上毛電気鉄道、茨城交通に2両づつ譲渡されました。
名古屋鉄道 ホム100形 ホッパ車
名鉄のホム100形は、バラスト散布用に昭和40年(1965年)から製作された2軸ホッパ車です。荷重は15トン。
国鉄ホキ800形と違い 流し板は固定です。足廻りは廃品利用なのか 古めかしいタイプです。
総数は9両で、平成13年(2001年)にJRから中古のホキ800形が導入されると 廃車され、3両が豊橋鉄道に転属しました。
西武鉄道 ホキ81形 ホッパ車/ホキフ71形 ホッパ緩急車
西武鉄道ホキ81形とホキフ71形は、国鉄のホキ800形の設計を流用して昭和43年(1968年)から自社の所沢工場で製作されました。
ホキ81形が10両、ホキフ71形が4両で、当初は国鉄に乗り入れ、中央本線の酒折駅から西武秩父線建設用のバラストを運んだそうです。
ホキフはホキ800形のデッキに、車掌室をポン乗せした感じです。
絵は公式側を描いてますが、実はホキフの車掌室は全幅ではなく 3分の2の幅になってて、手ブレーキは車室外に剥き出しです。
晩年は明るく塗装変更され、最晩年は車体表記が大幅に簡略化されました。
西武のバラストホキは、平成20年(2008年)まで活躍しました。
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