貨車の絵 その1
これらの絵は 素材として使う事も考慮して描いているため、使用色数が少なく軽いのが特徴です。トロッコ等は小形鉄道車両のコーナーへ。
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このページの絵は特記以外1ドット50mmで描いています。
貨車の絵 その2は こちら 貨車の絵 その3は こちら 貨車の絵 その4は こちら 貨車の絵 その5は こちら 貨車の絵 その6は こちら 貨車の絵 その7は こちら 貨車の絵 その8は こちら 貨車の絵 その9は こちら 貨車の絵 その10は こちら 貨車の絵 その11は こちら 貨車の絵 その12は こちら 貨車の絵 その13は こちら 貨車の絵 その14は こちら 貨車の絵 その15は こちら 貨車の絵 その16は こちら 積荷の絵その1は こちら 積荷の絵その2は こちら 蒸気機関車の絵は こちら ディーゼル機関車の絵は こちら 電気機関車の絵は こちら 小形鉄道車両の絵 その1は こちら 小形鉄道車両の絵 その2は こちら
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ワ6000形 有蓋車
最初の絵は、官設鉄道開業(明治5年(1872年))に備えて、英国から輸入された5トン積有蓋車です。
最終的に90両が輸入され、官鉄新橋工場と神戸工場でノックダウン生産もされて、総数160両ほどになったようです。
鉄道開業時の この有蓋車の姿はというと 錦絵に見られ、赤く塗られています。
たかが錦絵と侮るなかれ。江戸時代にすでに版画の製作・流通システムが確立しており、職人の役割分担で、当然 色の指示も徹底されていたので、風景画にそんなに嘘は無いです。
実際、この絵の作画に当たり英国古典貨車を当たったところ、赤い塗装の有蓋車がけっこうあった事が分かります。
ただ、国内組み立ての増備車の塗装も同じであったかは不明で、無塗装もあったかも。
車体表記に関しては鮮明な写真もなく、写真によっては まったく文字が見当たらないもの(貨物営業前の写真?)もありますが、やはり英国古典貨車や、写真の残されている魚車やホワ6001を参考に描き込みました。
イギリス流儀に従うなら、車号、自重、荷重、容積が車体に記入されていた、もしくは営業開始後の早い段階で表記されたと思います。
貨物輸送は明治6年(1873年)に正式営業が開始されていますが、既に運賃制度の仕組みは英国人の成案で「鉄道貨物運送補則並賃銭表」が作られており、濶大貨物から荷札の書き方まで事細かに規定されています。
これも英国の仕組みをそのまま輸入したものでしょうが、江戸時代にはシステムが成熟していた水運・舟艇輸送も似たような制度だったでしょうし、特に違和感無く受け入れられた事でしょう。
開業当初は区間が限られていて必要なかったと思われる車票挿し(行先や積荷の種類等を示す。)も、とりあえず最初から付いていたと思われます。
鉄道創業期は やはり小口扱いが主体で、1車貸し切りの車扱(貸切扱い)は営業距離も伸びた明治12年(1879年)以降に本格始動したそうです。
明治後期の姿がこちら。
絵では分かりにくいですが、荷重や容積の表記が、当時の日本人になじむ 漢字・漢数字 縦書きになりました。
“工”の字は初期の官設鉄道の所管の 工部省の頭文字です。レールの断面に似ている事もあり、“工”マークは戦後の国鉄まで使われました。
この貨車はその後、鉄道院形式ではワ6000形となりました。ただ、この形式は明治期にしても小形車で 大正初めには淘汰されたようです。
と言っても、40年ほど活躍しているので、貨車としては寿命が長い方です。
※国鉄車両の形式の呼び方について。
国鉄車両の形式は、戦後に「車両称号基準規程」により明確化されて、例えば貨車の場合は「ワム80000形」ではなく「ワム80000形式」と表記するのが正当なものとなります。しかし「〜形」という表現は、部内部外を問わず古くから一般的であり、私は役人でも研究者でもなく、ただの趣味者なので、まどろっこしい「〜形式」とはゆわず、言いやすい「〜形」を使っています。あしからず。
ワ6099形 有蓋車
これは 官鉄初期の6トン積有蓋車で、官鉄神戸工場で240両ちょっとがノックダウン生産製作されたようです。明治中期の分類ではBB形とされ、鉄道院形式ではワ6099形となりました。
詳細な図面や、それらしき写真も残されているのがありがたいです。
左絵が明治後期の姿で、右絵が大正初期です。この形式も大正時代初めには寿命が来て淘汰されたようです。
なお、絵のように当時から英国流の貨車は側ブレーキを装備していますが、これは留置用なので、片側車輪1つにしか利きません。
停車中に側ブレーキを下げると、車輪に木製の制輪子が密着します。
ワ10343形 有蓋車
これは官鉄の主力有蓋車で荷重は7トン、車体長18ft6.5in(5652mm)程度、車軸間距離10ft(3048mm)。
主に民間工場で2900両弱が製作されたようで、様々な仕様が混在しています。
車体構造は側面車体裾の処理方法で2種類に大別され、また、真空ブレーキ管の引き通しがあるか無いかの差もあります。
明治30年(1897年)以降は「馬積みのできる貨車」と言う意味の“由”の字の角を丸くしたような記号が、側引戸の“工”マークの隣に書かれました。
明治37年(1904年)に日露戦争開戦後、日本軍と官鉄は「野戦鉄道堤理部」を設立して 東清鉄路南部線(ロシア広軌(1524mm))を占領区間から順次狭軌(1067mm)に改築しつつ、日本国内から軍事供出された鉄道車両によって兵站輸送にあてました。
線路はあっても、広軌車両は撤退時にロシアに引き上げるか、破壊されるかしていたための処置です。
供出車両は 私設鉄道からもありましたが、当然 官鉄車が主体で、その主力有蓋車である7トン有蓋車が多く供出されました。
↑は、鮮明な写真が残されている日露戦争に出征した官鉄7トン積有蓋車です。
まず、窓が開けられているのが目に付きますが、兵員輸送のため客車代わりに使ったのでしょう。
右側は郵便車代用車で、書き殴った郵便車の文字がステキです。
郵便は軍事作戦を遂行するうえで必要不可欠なもので、兵士は家族からの手紙を待ち望んでいるのです。
どちらも妙に屋根が白く感じますが、国内の貨客車の屋根も明るい色が見られるので、当時の屋根防水キャンバスの色なのでしょう。
国内のものは蒸気機関車の煤で すぐ汚れてしまったでしょうが、大陸ではトンネルや雨も少なく、石炭の質も良かったのかもしれません。
日露戦争に出征した鉄道車両は 戦後に日本に戻ってきていますが、有蓋車に開けられた窓は すぐに塞ぎ直したことでしょう。
なお、明治29年(1896年)に 東海道線の一時的な客車不足に対応するため、有蓋車を客車代用貨車(仮客車)として運用したようですが、これとの関連は不明です。
仮客車は車内に椅子を仮設して、窓を開口したとのことで1〜2年程度使われたようです。
官鉄のこのタイプの有蓋車は、鉄道院形式では舶来ものと官鉄工場製がワ9868形(96両)に、民間工場製(官鉄工場製もあり。)がワ10343形(2800両弱)となりました。
↑絵は どちらもワ10343形で、先に書いたように 様々な形態のものが混在していました。
北海道開拓の有蓋車
明治13年(1880年)の北海道は幌内鉄道開業時の有蓋車がこちら。
明治22年(1889年)に北海道炭礦鉄道になったあとは、う1〜200号車を名乗りました。
一見してアメリカ式ボックスカーの様ですが、正確にはアメリカの軽便鉄道仕様の有蓋車で、無蓋車(貨車の絵 その2を参照。)と同じフラットカーの上に、箱を据え付けた構造になっています。
荷重は7トンで、縦板張り。側引戸はなぜか左利き仕様ですが、当時の米国の有蓋車では珍しくないです。
浅い三角屋根に手ブレーキハンドルが突き出ていて、本場米国ではブレーキ手が屋根上の渡り板(ランボード)を走って、ブレーキを掛けて周ったそうですが、低速な炭礦鉄道の本邦で それをやったかは不明です。貨車の主役は無蓋車ですし。
同鉄道の無蓋車とは違って 有蓋車はちゃんと塗装されていて、白黒写真からの想像ですが、やはり本場と同じ赤褐色で描きました。
表記も鮮明な写真がないので想像ですが、幌内鉄道時代はローマ字で鉄道名がデカく書かれた米国流。北海道炭礦鉄道時代は だいぶ簡素化されて、社章とナンバーだけのようです。
北海道炭礦鉄道の う1〜200号車は、鉄道国有化後はコワ5798形となりましたが、朝顔カプラーの軽便規格ゆえ、早く淘汰された事でしょう。
ちなみに、右端の絵は何の根拠もない自動連結器化して長生きした想定の お遊びです。
時代は少し下って、これは北海道鉄道部 旭川工場謹製の る形7トン積有蓋車。
下廻りは相変わらずフラットカーべースのアメリカンナロー様式ですが、車体は横羽目板張りの丸屋根で、日本様式に近づきました。
自動連結器を装備し、屋根は低いですが車体幅は広めです。
国有化後は13両がコワ5780形となりました。
日本鉄道 午形 有蓋車
これは日本鉄道の主力有蓋車で、日本鉄道時代の形式は“午(うま(ムマ)もしくは ご)”。
半国営ともいえる日本鉄道では、車両も官鉄と同仕様のものが多く、初期は官鉄新橋工場で組み立てた車両を使用していたようです。
その後、自社の大宮工場や民間製のものが増えていきました。
午形は官鉄の7トン積有蓋車とほぼ同じものですが、荷重は6トン扱い。官鉄のものより側柱の本数が多いのが特徴です。
また、鉄道国有化までに全車が真空ブレーキ管を引き通していたようです。
午形は2200両強も増備され、鉄道院形式では製作会社等で分類されてワ13963形、ワ7817形、ワ9313形になりましたが、同じ仕様です。むしろ官鉄の物よりバラエティーは少なく、標準化されているように感じます。
主要私鉄の国有化の際は、私鉄引継ぎの鉄道車両は細かく形式分けされましたが、あまり意味のない事例も多く、その辺は 昭和3年(1928年)の称号改正で是正される事となります。
甲武鉄道 ほ形 有蓋車
続いて甲武鉄道の6トン有蓋車。形式は“ほ”。
やはり官鉄の7トン車や日本鉄道の6トン車に似ていますが、ちょいと癖があります。
共通の特徴としては羽目板材の幅が広く、側開戸の上レールのカバーが途中までしかありません。
そして、↑絵の左から右へ通し番号で進化していったのですが、初期車は背が低く、また、屋根が波板のようです。
後期車は側板に斜め補強が入り、屋根が山形屋根となりました。
車体表記のしかたは官鉄方式に準拠していますが、2箇所にあるのがおちゃめです。
国有化後は左の絵から、ワ14396形(4両)、ワ7571形(24両)、ワ14415形(115両)となりました。
山陽鉄道 7トン積有蓋車
これは山陽鉄道の7トン積主力有蓋車です。総数は660両以上。
やはり何種類かあったようですが、実態はよく分かりません。
屋根が高くて 官鉄の汎用有蓋車に比べて だいぶ大柄に見えますが、容積はほんの少ししか違いません。また、走行安定性を考慮したのか 他社にくらべ軸距は長めです。
その特徴的な屋根ですが、山陽鉄道では日本家屋のような山形屋根(三角屋根)の有蓋車を愛用していて、わざわざ後天的に改造したものもあるようです。
雨漏れに強いというのが売りで、多重張りになっているのか 屋根材の厚みも分厚いです。
しかし、山陽鉄道の有蓋車も、末期に製作のものは普通の丸屋根になっているらしいので、実際に効果があったのか疑問です。
国鉄になって増トン工事が行われた際には、同じ車高でも室内容積が確保できる 丸屋根に改造されました。
右側の絵のブレーキ装置は複雑ですが、将来の真空ブレーキの装備を見越した仕様のようです。
専門的に言うと、時代を先取りした引き棒方式となっており、それにしても必要以上にマニアックで複雑な機構です。
山陽鉄道は客車の電灯化や、食堂車の導入など 先進的な事をしていたことで知られていますが、どうも発明家気質の人が幹部にいたようで、それが現場に受け入れられていたかは疑問ですね。
山陽鉄道7トン有蓋車は、国鉄ではワ7543形の形式が与えられ、さらに左絵のタイプは国鉄 ツワ22550形(ツ100形)通風車(貨車の絵 その10を参照。)に、右絵のタイプはレソ25280(レ350形)冷蔵車(貨車の絵 その6を参照。)の種車になりました。
九州鉄道 ワ形 有蓋貨車 1号車〜/九州鉄道 ワブ形 有蓋貨車(手用制動機付) 1号車〜
石炭輸送華やかなりし頃の九州の鉄道といえば、鉱山鉄道的色彩が色濃く、戦後まで運転取り扱い等が特殊だったりしました。
特に明治期は、膨大な両数の小さな炭車全てにブレーキを装備するのは困難だったため、代わりに 貨物列車編成中に手ブレーキを装備した貨車を多めに配していました。
つまり、「車両列を留置する際は、何両おきに手ブレーキを備えた車両を連結する事。」とか、「ブレーキ持たない貨車を留置するときは、手歯止めで流転防止を図る事。」などのルールがあればよく、「〜貨車(手用制動機付)」という形式が多数存在しました。
ここでは、そんな九州鉄道の有蓋車の例として、ブレーキの無いワ形と、手ブレーキの付いたワブ形を紹介します。便宜上ワ1形とワブ1形としましょうか。
どちらもドイツのバンデルチーベン社製、もしくは自社工場のノックダウン生産品で、荷重は7t。国鉄引継ぎ時点でワが292両ほど、ワブが73両ほどいました。
また、姉妹形式としてワブから発展した有蓋緩急車のワル形(※貨車の絵 その8を参照。)も存在しました。
九州鉄道も明治40年(1907年)に国有化されましたが、本州〜九州間の貨車航送開始は明治44年(1911年)なので、元九州鉄道の貨車は九州島内に封じ込まれ、九州での独自ルールによって運用され続けたと思われます。
国鉄ではワはワ6484形、ワブはフワ5600形となりましたが、他形式に改造されたりして短命だったようなので、九州鉄道時代の絵を描きました。
と言っても 写真が見つからないため、形式図を元に 多くの推測を交えて描きあげました。
各私鉄引継ぎ 主力有蓋車(ワ7817形、ワ14415形、ワ7543形)
で、今までの官設鉄道(工部省鉄道寮・鉄道局〜鉄道作業局)と、主要 私設鉄道が合わさった国有鉄道(鉄道庁・鉄道院)が 明治40年(1907年)に発足して、明治44年(1911年)の称号改正が行われたのちの 私鉄出身有蓋車の姿がこちら。
左から元日本鉄道のワ7817形、元甲武鉄道のワ14415形、元山陽鉄道のワ7543形2タイプです。
もちろん、他の私鉄からの主力有蓋車も いろいろあります(資料が少なくて描けません・・・。)。
といっても、この私鉄引継ぎ そのままな姿も 一時的なもので、大正時代に入るとすぐに仕様の標準化と増トン工事が始まって、それが終わったと思うと、さらに 大正末から昭和初期にかけて自動連結器化と、空気ブレーキ化が控えています。
それに伴う車体表記の頻繁な変更や、手スリの追加、車票挿しの変更などもあり、大正時代を鉄道模型等で再現するのは非常な困難を伴います。
それと合わせて、明治44年(1911年)の称号改正〜昭和3年(1928年)の称号改正の間の貨車形式は 非常にややこしく、混沌としています。まず、覚えられないですね。
私鉄引継ぎ車を 無駄に細かく形式分けした事もありますが、いけないのは、貨車を大きく有蓋車のグループと無蓋車のグループと石炭車のグループに分けて、その中で車号が重ならないようにしたから。早々に破綻して増備のたびに車号が飛びまくり、車号を見ただけでは形式が分からなくなってしまいました。
なお、この方式は山陽鉄道のやり方だったそうで、す。
ワ17013形 有蓋車
鉄道国有化直前。私設鉄道は資産価値を高めて高く国に買い取ってもらおうと目論見、鉄道車両を多量発注したりしました(使用見込みのない超高級客車を発注し、支払いは国有化後 国にさせた悪質な会社もあります。)。
それはともかく、山陽鉄道(明治39年(1906年)国有化)の最末期に発注され、明治38、39年(1905、1906年)に250両が製作されたのが、この有蓋車です。
国鉄形式ではワ17013形となった この有蓋車は 良い買い物で、荷重は9トンの大形車。真空ブレーキシリンダも装備、屋根は山形屋根をやめて普通の丸屋根だったようです。
作画資料が少ないのが難点ですが、絵は時代背景を考慮して 代用貨物緩急車仕様(解説は貨車の絵 その8を参照して下さい。)で描いてみました。
ワ1形 有蓋車
明治40年(1907年)までに主要私鉄が国有化されると、国鉄がまず取り組んだのは設備・サービスの標準化です。
鉄道車両については、官設鉄道においても 開業以来様々な車両部品が輸入され 試行錯誤されてきた歴史もあり、そこに加えて私設鉄道の雑多な車両が混ざる訳ですから、早急な改善が求められました。
貨車については車両のサイズもまちまちで、走行安定性の悪い小形車もあり、営業上も荷重・容積を統一した方が良いので、明治42年(1909年)には早くも仕様標準化と合わせた いわゆる増トン工事が開始されます。
この貨車の増トン工事は、有蓋車を9〜10トン積に、無蓋車を10トン積とし、車軸間距離10ft(3048mm)未満の貨車を10ftに、合わせて車軸・軸受け等 主要部品の標準化を図るもので、大正11年(1922年)まで行われました。
この改造施工が不可の貨車≒老朽車は、どんどん廃車され、そうでなくても官鉄汎用車と仕様が離れたものは、標準化するにもどうせ手間がかかるため、増トンせずに緩急車への改造種車として選ばれました。
この増トン工事により、有蓋車(鉄張有蓋車を含む。)は横羽目板構造で主に元官鉄や日本鉄道などが由来のワ50000形と、横羽目板構造で主に山陽鉄道や九州鉄道などが由来のワ57000形、縦羽目板張りワ60000形の3タイプに形式分けされました。
出自の異なる雑多な貨車を集めて形式を整理したのですが、実際のところ その主力は元官鉄の標準車とその同タイプの私鉄車であり、改造後の姿はどれも似ています。
むしろ改造実施期間の長さに起因して、後期改造車は柱や扉が鋼材になったりの変化が見られます。
足廻りの改造はともかく、車体の改造では嵩上げを基本に、場合によっては拡幅も行われています。
なお、山形屋根の貨車は基本的に 室内容積の稼げる丸屋根に改造されていますが、そのまま山形屋根の例外もありました。
その後、昭和3年(1928年)の車両称号改正で、ワ50000形とワ57000形は統合されて ワ1形となりました。
その頃にはすでに 無理に改造したような異端車は淘汰されて、標準車ばかりになっていたと思われます。
絵は上段がワ50000形の標準車大正時代。下段がワ1形の昭和戦前期。
下段右端の車両は、1っこ上で解説した元ワ17013形ですが、車体幅が広くて元々10トン積以上の室内容積があったようで、ワ57000形を名乗ったあと なんと わざわざ車高を100mm下げて、他の10トン積有蓋車と容積を揃える改造をしたようです。
標準化が徹底していますね。
西武鉄道 ワ1形 有蓋車/上武鉄道 ワ1形 有蓋車
西武鉄道ワ1形は、川越鉄道のワ1形として明治27年(1894年)に12両が作られました。
当時のスペックはよく分かりませんが、標準的な6トン車だったと思われます。
川越鉄道は 甲武鉄道と関係がありましたので、甲武鉄道の ほ形に準じた仕様だったかもしれません。
その後、川越鉄道は 武蔵水電→西武鉄道→西武農業鉄道→西武鉄道と変遷しますが、ワ1形は形式そのままで活躍したようです。
大正期には10トン積に改造されて、国鉄のワ1形と同様の形態となりました。左絵が西武鉄道ワ1形です。
ところで、ワ6号車は 曰くありげな写真が戦後に記録されています(※貨車の絵 その2の下の方の解説を参照して下さい。)。
上武鉄道(旧日本ニッケル専用線)は、埼玉県北部の多野鉱山若泉製鋼所の原料・製品輸送のために 戦時中に建設された鉄道です。
八高線の丹荘駅から若泉(西武化学前)駅まで6.1kmで、昭和22年(1947年)〜昭和47年(1972年)まで地方鉄道として旅客営業し、昭和61年(1986年)に 国鉄貨物改革の余波で廃止となりました。
上武鉄道は戦後に西武系列となり、昭和34年(1959年)に西武鉄道ワ1形1〜5号車が上武鉄道に転属しました。右絵が上武鉄道ワ1形です。
すでに古典車でしたが、昭和43年(1968年)に国鉄貨物の速度向上で直通運用出来なくなるまで活躍し、昭和44年(1969年)に廃車になりました。
なお、国鉄では大正期に入ると大形車の製作に移行しますが、私鉄ではまだ10トン有蓋車の需要があったようで、国鉄のワムを小形化したような10トン車の新製もしています。
官鉄 ホワ形(ワ6848形) 有蓋車 5001号車〜
明治37、38年(1904、1905年)の日露戦争では、官鉄や主要私鉄から多数の鉄道車両が出征し、改軌された大陸の鉄道で働いたのちに帰国しました。
また、戦争に伴い貨物輸送量が急増したため、国は蒸気機関車、有蓋車、無蓋車を、欧米から緊急輸入して賄いました。当時は既に貨車の国産化も始まっていましたが、まだ大量生産は無理でした。
官鉄ホワ形有蓋車 5001号車〜は その一員の米国プレスドスチールカー社製 7t積有蓋車で、625両ほど輸入されたようです。
ホワの“ホ”は真空ブレーキの配管が装備(真空ブレーキシリンダーは無し。)されていることを意味します。
形態はいわゆる米国流の野性的な作りで、屋根は製作簡単な三角屋根とし 頂点に走行板(ランニングボード※米国では貫通ブレーキ実用化前、屋根の上を走って列車の手ブレーキを掛けて廻った。)があります。屋根に上るためのハシゴも備えていたかもしれません。
なお、この官鉄ホワ形のプロトタイプとして、北海道鉄道部の う5022〜5899号車が存在していました。
北海道鉄道部は明治31年(1898年)開業ですが、明治30年(1897年)に北海道炭礦鉄道の手宮駅構内を撮影したという写真に 当該車の組み立て中らしき様子が写っています。
官鉄のものと比べると、相違点は妻板の補強の入り方が違い、真空ブレーキの配管は装備されていなくて、自動連結器(のちの国鉄より低い位置)を装備していたと思われます。
鉄道院発足後、明治44年(1911年)に形式称号改正が行われ、官鉄と北海道鉄道部の両形式560両は統合されて、ワ6848形となりました。
その後、末永く活躍・・・とはいかなかったようで、国鉄の高い連結器位置での自動連結器化には構造不適で、という事は連絡している私鉄へも転用困難で、大正時代中に廃車になったようです。
左絵が官鉄時代のホワ形5001号車〜、右絵が元北海道鉄道部 う形の 国鉄統合後の姿。どちらも少ない資料を基に再現していますので、なにか間違いに気が付かれた方は 教えてください。
官鉄 ホワ形 有蓋車 6001号車〜(ワ12746形)
官鉄ホワ形有蓋車 6001号車〜は、ホワ5001〜と共に日露戦争で緊急輸入された 英国メトロポリタン社製の7t積有蓋車です。明治38〜41年(1905〜1908年)にかけて1300両が輸入されました。
なお、6001号車〜とまどろっこしく書いていますが、官鉄(鉄道作業局)当時は“〜形”という細かい形式分けの方法が確立しておらず、ホワ形の6001〜7300号車が当該タイプとなります。まあ、ホワ6001形と言っても差し支えないでしょう。
主要鉄道の国有化を経て 明治41年(1908年)には国鉄(鉄道院)が発足し、雑多な車両が集まったので 明治44年(1911年)に形式の整理が行われて、当形式は ワ12746形となりました。
この有蓋車の特徴は、防水効果の高い“縦羽目板張り”を採用していることです。
緊急増備という事で 英国メーカーの吊るしの商品?を買ったから そうなったのかもしれません。
当時、縦羽目板張りは客車では一般的でしたが、木製有蓋車は 製作しやすく安上がりな“横羽目板張り”が常識でした。
左の絵が官鉄時代のホワです。
ホワ6001形は メーカー公式写真や、ホワ5001形と連結したフォトラン絵葉書が残されているのですが、車体表記が旧仕様なのか?輸出仕様なのか?英文字多用となっています。
古典車両の場合 乏しい資料を基に描いており、公式写真は有難いのですが、当時の日常を再現する時に心掛けなければいけないのは、写真を安易に転写しないこと。
写真に残されるのは「特殊なもの、状況ゆえ・・・。」と思ったほうが良いです。
私の絵は 実際に働いている姿を描きたかったので、日露戦争に出征した他形式の車体表記を参考に、当時の官鉄の仕様で描きました。
側扉に車号があり、左側に漢字縦書きで荷重や容積などが書かれていますが、細かく見ると これも年代によって表記方の微妙な変化があります。
右の絵は国鉄ワ12746形になったあと、代用貨物緩急車として使われている姿です。
ワ18275形 有蓋車
英国製のワ12746形は性能優秀だったようで、国鉄ではこれを参考に 有蓋車の量産を計画しました。
そして産まれたのが、国鉄初の標準有蓋車の ワ18275形です。明治44〜大正2年(1911〜1913年)に500両ほど製造されたようです。
ワ12746形との大きな違いは、車体幅を広げて車軸を強化して 9t積となったところ。
車輪は ワ12746形が組み立て式の松葉スポークだったのに対して、鋳鋼製一体車輪に進化?しています。
と言っても、この車輪は欧州状勢が不安定になって良質な車輪の輸入が困難になったために 仕方なく国産のものを採用したもののようです。大正初期の数年間のブームですね。
この車輪は安価に鋳造で量産したため 案の定、摩耗が早かったので、ある程度摩耗したら外形を削ってタイヤを焼き嵌めて 輪心としてそのまま使ったとの事です。
ワ12746形のバリエーションとしては、ワフ5000形等の有蓋緩急車や、私鉄で同形車が製作されました。
が、やはり縦羽目板張りは製作にコストがかかるので、その後の標準有蓋車フワ30000形からは 横羽目板張り設計に戻りました。
なお、同時期に ワ18275形に酷似した構造の ワ19110形が少し製作されていますが、形式を分けた理由は不明です。
ワ19110形は、新製後すぐにツワ22500形通風車に改造されたと言われているので、もしかしたら 最初から通風構造をもった特殊な構造の有蓋車だったのかもしれません。
ワ19110形は、長軸のワフ28800形 緩急車にも改造された という話もありますが、実態は不明です。
※ツワ22500形は、貨車の絵 その10を参照して下さい。
ワ17000形 有蓋車
大正時代に入って 貨車の増トン工事が本格化すると、ワ12746形は車体を嵩上げして ↑絵のような10t積のワ60000形となりました。
増設部分は横羽目板となっており、ちょっと不細工です。
なお、同系車ワ18275形の方は 元々9t積だったので、さしたる改造はせずに10t積となったようです。
↑昭和3年(1928年)の車両形式変更の際には、ワ60000形とワ18275形を中心に、有蓋緩急車の改造車や私鉄由来のものなど、縦羽目板張りの10t積有蓋車(鉄張有蓋車を含む。)は一括してワ17000形となりました。
同じ10t積ながら 元ワ60000形と元ワ18275形で大きく側面形が異なるのは、さきに解説したように車体幅が異なるほか ワ60000形(ワ12746形)の屋根Rが大きく深かったことも影響しています。
絵では 自動連結器化や空気ブレーキ化が済んだ 昭和の時代を示します。
東武鉄道 ワ301形 有蓋車/秩父鉄道 ワ30形 有蓋車
東武のワ301形や秩父のワ30形は、国鉄のワ17000形の同形車です。
大事に使われたようで、戦後も遅く(昭和40年代初頭?)まで現役でした。
なお、ワ17000系の図面は「日本の車両スタイルブック」に青梅鉄道のものが載っていますので、参考にしてください。
フワ30000形 有蓋貨車手用制動機付/フワ30095形 有蓋貨車手用制動機付
大昔の鉄道は 機関車にしかブレーキが付いていませんでした。
その後、列車編成が長くなると 制動力が不足したため、機関車の汽笛合図で緩急車の手ブレーキを巻いて列車をコントロールする事が行なわれました。
しかし列車のブレーキは、機関士が一括してコントロールできることが望ましく、保安度を向上させるために貫通ブレーキ(列車の全車両にブレーキ管等を引き通して、運転台で列車全体のブレーキを制御する装置。列車が分離すると自動的に非常ブレーキが掛かる。)の採用が考えられました。
貫通ブレーキは まず、アメリカのウェスチィングハウスが1869年(明治2年)に空気ブレーキを発明し、次いでイギリスで真空ブレーキが1874年(明治7年)に発明(1878年(明治11年)に実用化。)されていました。
そこで、明治19年(1886年)(鉄道開業14年目)に官鉄は、貫通ブレーキとして構造簡便な真空ブレーキ装置を選択し、機関車2両分、客車12両分、緩急車2両分購入し、旅客列車で試用を開始しました。
明治21年(1888年)に開業の山陽鉄道では 開業当時から旅客列車に真空ブレーキを積極採用し、官鉄も明治中期から順次 真空ブレーキ使用の旅客列車を増やしていきました。
貨物列車用としては、明治31年(1898年)から官鉄が 緩急車や速達性が求められる冷蔵車に真空ブレーキの装備を進め、日本鉄道は官鉄よりも積極的に緩急車に真空ブレーキを装備し、北海道でも重量級編成のボギー石炭車に採用されていきました。
しかし、真空ブレーキはその構造上 編成の前の方しか作用しません。
真空ブレーキは、客貨車の真空ブレーキシリンダ内部の空気を抜くことで ブレーキが緩む構造なのですが、どんなに頑張って機関車で真空ポンプを動かしたところで 編成の後ろの方は ほぼ大気圧のまま。ブレーキシリンダは動かせません。
未発達のゴムホースや配管の漏れのせいもありますが、たぶん現代の素材で配管を繋げたとしても、同じ結果でしょう。
そもそも真空ブレーキは、どう足掻いても大気圧より強いブレーキ力は掛けられない仕組みです。
なので、長編成でも真空ブレーキホースを繋ぐのは前から数両までで、後部の車両については相変わらず手ブレーキでの制御が必要でした。
そこで、さらに編成が長くなると、編成の中間にも緩急車を入れたのですが、編成中に緩急車ばかり居ては肝心の荷が沢山運べません。
「だったら、手ブレーキと 最低限の制動手乗務設備を備えた汎用貨車を 沢山作ればいいじゃないか。」という事で製作されたのがフワ30000形です。この手の貨車は欧州では普通に見られました。
ちょうど当時は 荷主の貨物の取扱い単位も増えてきており、また制動力は車重があった方が効きが良いので、フワ30000形は荷重12トンの大形車となりました。なお、同時期の大形3軸タンク車でも制動手室付きのものが製作されました。
緩急車では無く“〜手用制動機付”と名のっている貨車に乗務しているのは、車掌ではなく制動手です。部屋(制動手室)が高いのは列車分離を監視するため。
自動連結器採用前の螺旋・連環連結器時代は、列車分離事故もよく起きていたのです。
縦羽目板張りの制動手室には手ブレーキ以外何もなく、乗務は立ちんぼですが 風雨は しのげます。でも、位置が高いから揺れはきつそう・・・。
制動手の組織的な立場は良く分かりませんが、車掌(列車長)の補助的役割もしたようなので、車掌見習い的な存在だったのでしょうか? まあ、下っ端でしょうね。
なお、絵を見てのようにフワ30000形は手ブレーキの他に、側ブレーキも備えています。また、柱の配置が変則的なのも特徴です。
↑絵の右端の車両はフワ30000形に似ているけど、フワ30095形といいます。
フワ30095〜30099号車の5両の異端車で、側引戸が通風構造の2連となっています。この頃に青果輸送の需要が増えて、通風車の模索がされていたのかもしれません。
ところで、有蓋貨車手用制動機付という形式自体は、フワ30000形が登場する以前の明治43年(1910年)時点で 559両が存在しましたが、それらは北海道(米国式で手ブレーキ付きが基本だった。)や九州(ブレーキの無い貨車を手ブレーキ付きの貨車で補った。)の転入車両で、官鉄は基本的に緩急車の増結で対処していたようです。
有蓋貨車手用制動機付は、鉄道車両標準化の流れで翌明治44年(1911年)には73両に急減、大正元年(1912年)時点では一旦淘汰されたようです。
ところが、経済成長で貨物が増加したのに 真空ブレーキの成績が思ったほど芳しくなく、国鉄は長編成化の限界を感じたのでしょう。
大正2、3年(1913、1914年)に あせったようにフワ30000形を1401両ほど量産しています。
その後 どうなったかというと、しばらく1400両代をキープしていましたが、国鉄は大正8年(1919年)に米国式の空気ブレーキの導入を決定します。フワ30000形は、新製5,6年で用途を喪失してしまいました。
制動手室がいらなくなっただけなら まだ良かったのですが、フワ30000形は 輸送単位が中途半端だったのか?どうも荷主からも好まれていなかったようです。
なので、その大形車体を他形式に改造して生かす事になり、大正11年(1922年)からフワ30000系の他車種への改造が始まって、昭和元年(1926年)に101両、昭和2年(1927年)14両と 配備数が急減し、貨車称号の改正が行われた翌昭和3年(1928年)には消滅しています。
フワ30000系の転用は単純にワム化する事無く、多くが特殊用途の車両に改造されています。
具体的には、大正9年(1920年)にツワ22720形(→ツ400形)通風車に130両改造。
大正11、12年(1922、1923年)にレソ25550形(→レ1000形)に80両、大正12〜15年(1923〜1926年)にレソ25630形(→レ1300形)に465両、大正15年(1926年)にレソ26400形(→レ2200形、レ2300形)に40両と、各冷蔵車に連続して改造。
大正13年(1924年)に、ワフ21650形(→ワフ6500形)有蓋緩急車に418両改造。時期不明ながら、カ24700形(→カ1000形)家畜車に150両改造。ツワ22100形(→ツ700形)通風車に130両改造。
と、いう具合。
ワフ6500形は さらに昭和7年(1932年)にウ100形豚積車に再改造(両数不明)。昭和9年(1934年)に追加でウ200形豚積車に50両改造。
カ1000形も昭和7年(1932年)にウ100形豚積車(両数不明)、及びツ2000形通風車に86両再改造・・・と、どんどん派生形式を増やしていきました。
下がフワ30000系の改造後の姿です。冷蔵車以外は 種車の側柱配置の不均等がそのまま反映された柱配置になっています。
と、これだけの説明では収まりきらない存在なのが、このフワ30000形。
注目したいのは、自動連結器化も済んで、貨車への空気ブレーキ管設置工事真っただ中の 最末期に、わざわざ真空ブレーキシリンダーを装備しているのです。
真空ブレーキが使えない代物だったから、製作された貨車なのに・・・。
推測するに、緩急車や代用貨物緩急車に空気ブレーキシリンダーを装備する改造の間、代役として余剰気味のフワ30000形を代用緩急車に仕立てていたのではないでしょうか?
車扱い荷主には不評でも、小口輸送に使うのなら大形車体が生かせます。
↑絵の車体表記は想像です。一応緩急車に準ずるものなので 代用車の白帯は巻かなかったんじゃないでしょうか? いや、どうだろ。
※螺旋・連環連結器について。
官鉄は欧州にならって連環連結器、いわゆるクサリ連結器に、緩衝器として両側バッファーを使用して開業しました。
ただ、鎖で繋いだだけだと運転時の衝動が激しいので、すぐに螺旋連結器、いわゆるネジ式連結器を併用するようになりました。
螺旋・連環連結器の連結方法は、先にネジ式連結器を締めてから、鎖を重ね掛けする方法です。
ネジ式連結器は特に客車列車にメリットがあって、しっかり締める事によってバッファーが密着して乗り心地が良くなります。貨物列車の場合は締め付けを緩めにしたと思います。
なんで連結器をダブルで使うかと言えば、ネジ式連結器がいきなり破断する事故が絶えず、鎖の方が頑丈だからです。
ただ、折角 列車分離予防に連環連結器とダブル掛けしても、螺旋連結器の上に連環連結器を乗せているので、運が悪いと螺旋連結器が切れた衝撃で連環連結器も外れてしまったり、フック自体が破断するとどうにもならないので、国によっては、鎖は別のフックに掛けるなどしてます。
シワ115形 儀装馬車運搬車/ワ21100形 有蓋車
シワ115形は、大正4年(1915年)の大正天皇の即位大礼という儀式に使う馬車を輸送するために作られた車両です。
大正天皇の即位の礼は 京都御所で行われ、各地への行幸もされたので、約1ヶ月間という短期間ながらも東京から馬車の輸送需要が生まれました。
しかし、この儀式に使われる馬車は儀装馬車と言い 特別な装飾が施されたもので、
モノがモノだけに無蓋車で運ぶわけにもいかず、宮内省の所有車として有蓋車が製作されました。
シワ115形は、大正4年(1915年)に所要の24両が製作されました。
基本構造は 次項で紹介するワム19780形と同じですが、車体は馬車を積み込むため車両限界一杯に拡幅され、客車用足廻りを使って床面も極力下げるなどの工夫がしてあります。
側引戸は無く、片妻面に観音開きの扉があり、そこから縦ホーム もしくは長物車を経由して馬車を積み込みます。なお、馬車積込の際に支障するバッファは可倒式の特殊なものだったようです。
護送者が添乗するので窓があり、外開きの扉が4箇所にあります。また、漆塗りの馬車が痛まないように通風装置が側面にあります。
もっさりとした丸屋根といい、絵に描くと なんとも欧州調の外見ですね。車体表記は宮内省所有なのでよく分かりませんが、とりあえず国鉄に準じた標記で描きました。なお荷重は無噸という扱いだったそうです。
この姿だったのは実に2年足らず。大礼の翌年には全車が宮内省から国鉄に移管され、大正6年(1917年)には側引戸の設置や、窓と通風孔の閉鎖が行われました。
国鉄に移管されたシワ115形のうち、引き続き宮内省の御用となる7両はシワ100形となり、残り17両は上記改造に加えて妻扉の閉鎖も行われて、13t積 汎用有蓋車のワ19880形となりました。
さらに昭和3年(1928年)の改番では、それぞれク50形、ワ21100形となり、昭和5年(1930年)にはク50形全車がワ21100形に改造されて、ワ21100形の総数は24両となりました。
ワ21100形は車体幅が広かったので外側に引戸を設置できず、荷物車みたいに車体内側に扉があります。なお、妻開戸の有無以外はク50形も同じ仕様です。
また、汎用有蓋車として使うには床が低かったので 床板を重ね張りして嵩上げしたようです。
足廻りは、普通の貨車と同等の部品に改められましたが、汎用品では無いようです。
という訳で、異端車のワ21100形が どんな使われ方をしたのか不明ですが、貨車不足の状勢もあって 貴重な戦力として戦後の混乱が収まるまで活躍しました。
ワム1形(ワム19780形/ワム23000形(初代))有蓋車
大正2、3年(1913、1914年)に12t積のフワ30000形を量産した国鉄ですが、欧州大戦の影響により好景気となったため、大正3年(1914年)には 更に大形の14t積有蓋車のワ19780形の製作に移行しました。
車体構造としてはアングルやチャンネルなどの型鋼を柱に使うようになりました。
ところで、この車は当初 ワ19780形と名乗っていましたが、成馬を6頭無理なく搭載できる有蓋車という事で、配車上はワムの略号で呼ばれていました。
「ワ」は有蓋車(Wagon)の略ですが、ムは馬(ムマ(歴史的仮名遣い・・・敗戦まではウマでは無くムマと仮名を振っていた。))の略です。
ワ19780形は98両が製作されましたが、この大形車体は軍馬の輸送に好適なため、改良を施して大正4年(1915年)からはワム23000形(初代)の製作に移行しました。
この際、ワ19780形もワム19780形に改番されています。
ワム23000形は「米俵250俵」の15t積を目標に、ワム19780形より長さが127mm、高さが7mm縮みましたが、幅が80mm増えて、容積を2.4立方メートルほど拡大しています。
特に幅を広げたのがポイントで、馬の場合は向かい合わせに3列に積むので 広くなった分 馬のストレスが減ります。馬の口綱を結びつけるための金具も常設されました。
車体構造はワム19780形よりもさらに洗練されて、引戸も鋼製になりました。
ところが、800両ほど製作したあと大正6年(1917年)から製作の後期車800両は 世界大戦の影響で資材が欠乏し、柱の一部や引戸が木製に戻されました。
その後、大正14年(1925年)には自動連結器化され、順次空気ブレーキも装備していきました。空気ブレーキ装備車には4隅に白線が入ります。
そして、昭和3年(1928年)の称号規定改正によりワム19780形とワム23000形(初代)は まとめてワム1形となりました。
ワム19780形の方が若干室内容積が少ないのですが、特に改造せずに15t積となったようです。
で、この時、「ム」の記号は14t〜16t積みの貨車を表す記号になり、「ム・ラ・サ・キ」の荷重表記が誕生しました。
15t積みのワム1形は、近代化後の一般荷主の輸送単位としてちょうど良く、その後 連結面間8mのワム1形は貨車の基準単位にもなりました。
※ 鉄道貨物の現場では 荷重+自重=10tを 換算両数=1両、連結面間8mの車輌を 延長=1両、実際の連結車輌数を 現車○○両と言います。20m車なら延長=2.5両ですね。(実際の列車組成時は 計算しやすくするため形式毎に簡略化した数値を使うので 誤差あり。)
これらと区別するため車輌単位で数える時は1車(しゃ)2車・・・と数えます。
翌、昭和4年(1929年)には荷重とかの表記の仕方が変更になり、昭和5年(1930年)には列車の空気ブレーキ化が達成し、昭和6年(1931年)には車票挿しの大形化、昭和12年(1937年)には“小なる荷重”の廃止などがありました。
また、戦前期にはガタがきた車体を筋交いで補強したり、木製引戸の鋼製化も行われるなど、ワム1形の外見もコロコロ変わっています。
絵では、左から年代順にそれぞれの時代のワム1形を並べてみました。※上段は元ワム19780形で、側板上辺の処理方法でワム23000タイプと識別できます。
※有蓋車への家畜積載についての解説は、昭和43年(1968年)12月現行「貨物積付方標準」 や貨車の絵 その10を参照して下さい。
ワム3500形(ワム32000形)有蓋車
大正6年(1917年)から製作の15t積有蓋車は、当時議論されていた鉄道の広軌化計画を見据えて、車軸を標準軌に対応できる“長軸”として製作されたため、形式はワム32000形に改められました。
ワム32000形は、車軸以外はワム23000形の後期車とほぼ同じです。
この長軸は、いざとなったら車輪を外側にスライドして固定すれば 簡単に標準軌化できるのが特徴ですが、従来の短軸よりも安定性があるので ボギー車よりも走行性能の劣る2軸車で ワム80000形に至るまで標準的に使われる事となりました。
なお、短軸にも 鋼材使用量を節約できて、自重が軽くできるメリットはあります。
また、足廻りはフワ30000形以来 新方式の1段リンク式というものを採用していてて、ワム32000形も1段リンク式で製作されたのですが、当時はまだバネの加工技術が未熟で設計要求を満たせず、思ったより軸受バネの折損が多かったため、苦肉の策として昭和初期には急遽 旧来のシュウ式という足廻りに改造されました。
ワム32000形は大正14年(1925年)まで増備が続き、昭和3年(1928年)にはワム3500形に改称され、私鉄からの編入車もあって11891両程が活躍したようです。
また当初の目論見とは違いますが、戦時中に2500両ほどが標準軌に改軌されて大陸に渡りました。
ワム3500形は両数があるので 大まかに3つのタイプに分けられます。
初期車はワム1形後期車と同じく木製の柱が特徴ですが、そんなに両数は無かったようで、中期車は鋼製柱・鋼製引戸に仕様変更されました。
後期車は側ブレーキ機構が変更されています。今まで側ブレーキは2輪片側しかブレーキが利かなかったのが、空気ブレーキ化を見据えて4輪両側に掛かるようになりました。
・・・イギリスに範をとった鉄道創業時から 2軸貨車には側ブレーキというテコ式の足踏みブレーキが付いているのが普通ですが、これはもともと車両留置のために備えられたものです。
下り勾配での速度節制のために使われる事もありましたが、いずれにせよ停車中に操作するものなので、絵のように 大正初め頃までの貨車には 側ブレーキを操作する際に人が乗るステップがありません。
ところが、日本では大正時代あたりになると、駅の取扱い両数が増えて、転がっている貨車と並走して側ブレーキを操作することが常態化。場合によっては突放した貨車に作業員が しがみついてブレーキを掛けるようになりました。
本来、突放入換での貨車の制動は、ヘムシュー(制動靴)という手歯止めみたいなものをレールに置いて止める方法を取ります。
ヘムシューで貨車を点々と止めると、あとで機関車でまとめて押して 連結してやる必要がありますが、元々そういうものです。
しかし、その現場の工夫(手抜き)で作業効率が向上したことから、国鉄は貨車に飛び乗りやすいように 側ブレーキにステップと手摺を付けて 積極的に速度制御にも使用するようになりました。
その後、自動連結器の採用で突放入換が ますます盛んになり、多数の殉職者を出すようになるのですが、その後も飛び乗り作業で浮いた作業効率を前提に、日本の鉄道システムは形成されていきました。
ただ、この危険な進化?は日本だけのようです。
米国ではもともと、走行中の列車のブレーキを手ブレーキに頼って、それを屋根の上を走って廻って操作するという さらに危険極まりない事をしていましたが、それも空気ブレーキの実用化で終息し、連結器緩衝器も強化されたので繊細な速度制御は不要となりました。
欧州では螺旋・連環連結器を採用している事もあり、戦後もヘムシューを使いました。
と、絵に直接関係ない解説を書くのが、このサイトの特徴です・・・。
絵は、ワム1形と同じく左から時代順で並べました。
真ん中の絵は、なぜかシートを掛けた姿。輸送中に雨漏りでもしたのでしょう。時々こんなのが写真に残されています。
ワム3500形は戦後の貨車不足の折、老骨に鞭打って 昭和40年代初頭まで活躍しましたが、後期車の一部がスム4500形(貨車の絵 その12を参照。)やカム1形(貨車の絵 その10を参照。)に改造されています。
名古屋鉄道 ワム500形 有蓋車/小田急電鉄 ワム730形 有蓋車/津軽鉄道 ワム1形 有蓋車
国鉄ワム3500形タイプの私鉄貨車を数点描きました。この他にも多数の仲間が存在しますが、どれも主に 国鉄との連絡直通用として活躍しました。
左端の絵は 名鉄のワム500形で、当時の三河鉄道がワム300形として大正13年(1924年)から100両新製した15t積有蓋車です。
国鉄ワム3500形と同形ですが、車軸は長短両方あったようです。
名鉄には この他、愛知電気鉄道で大正12〜14年(1923〜1925年)にワ5000形として 63両製作されたワム5000形(53両)が引き継がれていますが、外見はワム500形と変わりありません。
ただし、愛知電気鉄道のワ5000形のうち10両は通風構造で、名鉄移籍以前にツム5500形(貨車の絵 その10を参照。)となっています。
真ん中の絵は 小田急のワム730形で、9両存在しましたが、無蓋車改造車と国鉄払い下げ車(ワム1、ワム3500、ワム50000)と経歴は まちまちです。
ただ、元ワム50000形以外は 皆 ワム3500形と同形車体のようです。
1950年代中に それぞれ鋼体化改造を受けて、絵のような すっきりした姿になりました。
右端の絵は 津軽鉄道ワム1形で、同鉄道の開業用として 昭和4年(1929年)に6両新製した車両で、国鉄ワム3500形の上廻りと 国鉄スム1形の下廻りを組み合わせた造りになっています。
ワ21000形 有蓋車/ワ21400形 有蓋車
左絵のワ21000形は昭和2年(1927年)に国有化された越後鉄道(大正元年(1912年)開業)の引継ぎ貨車です。
製造年は大正9年(1920年)で、35両製作。国有化後1年間はワ19700形を名乗っていました。
ワム並みに車体が長いのですが、なぜか屋根が低く 設計も明治流です。荷重は12t。
昭和7年(1932年)には15両がパ100形家禽車(貨車の絵 その10を参照。)に改造され、残りは昭和17年(1942年)まで活躍しました。
右絵のワ21400形は、芸備鉄道(大正4年(1915年)開業)を、昭和12年(1937年)に国有化した際に 国鉄に来た13t有蓋車です。
大正11年(1922年)から45両が製作されたとの事で、国鉄では昭和20年代末まで活躍しました。
この2形式は、ワムの模型の車高を詰めれば 簡単に再現できそうですね。
名古屋鉄道 ワ610形 有蓋車
名鉄ワ610形は、愛知電気鉄道が大正11年(1922年)から76両を新製した12t積有蓋車で、国鉄の10t車より大柄なのが特徴です。
沿線の常滑焼輸送用ですが、輸送需要に対して愛電にはお金が無かったため、多くが常滑の荷主の私有貨車として製作されました。
ワム5000形と同じく、姉妹車に通風車のツ600形(貨車の絵 その10を参照。)も存在します。
戦後に一部の車両に空気ブレーキが装備され、また、鋼体化されたものもあります。
昭和43年(1968年)まで活躍しました。
ワム20000形 有蓋車
ワム20000形は、スム1形式(貨車の絵 その12を参照。)の失敗を何とかするために、急遽スム1形を設計変更して昭和3年(1928年)に登場しました。
改良点は、鉄板外板の内側に木板を張って断熱・吸湿効果を期待したもので、500両が製作されました。
ただ、吸湿効果はともかく 断熱性能は充分ではなく、屋根高さは低いままだったので容積が減少して 荷主には不評で、ワム21000形式が開発される事になります。
ワム20000形も ヨンサントウの頃には既に老朽車でしたが、有蓋車の数が不足していたので2段リンク化改造と延命処置がとられて、昭和54年(1979年)まで活躍しました。
絵の右のやつが更新車です。
クム1形 車運車
クム1形は、昭和4年(1929年)の 昭和天皇即位大礼の儀式に使う馬車を輸送するために作られた車両です。
昭和の大礼の馬車輸送は、シワ100形改めク50形を使う事も考えられたようですが、同車も老朽化していたので新たに15t積有蓋車運車が27両用意されました。
クム1形はシワ115形と同じく妻側の観音扉から馬車を積み、深い丸屋根も似ていますが、大礼終了後の汎用有蓋車への転用を見越した構造となりました。
ワム21000形の二重羽目構造を先取りし 側引戸も最初から付いています。
そして 大礼翌年の昭和4年(1929年)に鉄道省に移管されて 有蓋車代用として活躍しました。
また、昭和6年(1931年)にはクム27号車が活魚車のナ1形ナ1に改造され、昭和7年(1932年)からはクム17〜26号車の10両がナ10形(貨車の絵 その10を参照。)に改造されました。
残されたクム1〜16号車は 戦後の昭和30年代中盤まで活躍し、時には妻扉を有効利用した輸送にも使われたようです。
ワム21000形 有蓋車
鉄製有蓋車の断熱性能の問題を解決するために 昭和4年(1929年)に開発されたのが ワム21000形です。
スム1形・ワム20000形は従来の木製有蓋車の構造を そのまま採用していたのですが、ワム21000形は骨組みの構造を変えました。
つまり 骨組みの外側に鉄板を張るようにして、さらに内側に木板を張って、骨組みの厚さの部分を空間として断熱層を構成し、また妻面通風口からの空気を流通させました。
これを2重羽目板構造と言います。
引戸には内張はありませんが、開口部を大きくして荷役を楽にしました。また屋根高さも元に戻りました。
効果は てきめんで、国鉄は 念願の鋼製汎用有蓋車の決定版を手に入れました。
ワム21000形は1000両が製作され、ヨンサントウの2段リンク化改造をへて、昭和59年(1984年)まで活躍しました。
絵は左から公式側、非公式側、2段リンク化改造車公式側です。
ワ22000形 有蓋車
ワ22000形は、昭和5年(1930年)から製造された、戦前の標準小形有蓋車です。
第一次大戦後、しばらくは戦争好景気でしたが、昭和4年(1929年)に発生した世界恐慌によって不景気になり、荷主1口あたりの貨物が15tに満たなくなり、従来の15t積みワム車の製作は一時的にストップしました。
国鉄は ここのところ大形車を増備して 小形車をどんどん廃車にしていたのですが、それが裏目に出ました。
商単位が小さくなったので荷主は小形車を求め、大形車の留置両数は増えるばかり。タイミング悪く、この頃にはトラックも台頭してきたため客も逃げていきました。
そこで国鉄は貨物をトラックから鉄道に誘致するため、10t積の小形車を量産したのでした。
あわせて、昭和4〜12年(1929〜1937年)までは 10tも積まない荷主を取り込むために、「小なる荷重」を定め、少量貨物(主に荷重が推測しやすい重量品。)の運賃を割安とする施策を実施しました。要するに「15t車に10tの貨物なら10tの運賃でいいですよ。」という制度です。
その場合、正規の荷重表記の下に「小なる荷重(ワ22000形の場合は8t。)」を表記しています。
また、ワ22000形の量産は、明治時代から引き継がれた古典小形有蓋車の老朽置き換えも兼ねていたので、しばし増備が続きます。
ワ22000形は、ワム車の隙間を埋めるように昭和15年(1940年)までチマチマと製造されたため、設計変更があり、3タイプに分かれます。
まず、1次車は さきのワム21000形を そのまま小形化した構造です。
足廻りは 昔ながらのシュウ式ですが、これは軸距が短いので曲線抵抗をそれほど考慮しなくても良いためです。
2次車は、側引戸の裏にも内張板を張って、断熱・吸湿性能を高めています。
3次車は、側引戸にプレス加工をして強度を高めています。
以上が 外観からすぐに分かる変化ですが、各次車でブレーキ廻り等も違います。
絵は、左2つが1次車、次が2次車、右端が3次車。
左から2つ目の絵は、引戸止装置(引戸半開止装置=突っかい棒)を使用して引戸を半開状態に固定して、何やら農作物を運んでいる姿です。
引戸止メ装置はワム21000形から採用したもので、戦後のワラ1形まで装備されました(パレット貨車を除く。)。
有蓋車で青果、動物、人等を輸送する場合は、側引戸を 部分開もしくは全開して輸送しますが、要所を縄や木材等で固定して 扉が動かないようにする必要があります。
引戸止装置を使う場合も縄か針金で緊締しますが、この装置のおかげで楽に固定できるようになりました。
ワ22000形は、私鉄からの編入車も含めて6428両が増備されました。
ヨンサントウ(昭和43年10月ダイヤ改正)では軸距が短く2段リンク化改造しても速度向上できないため、生き残っていたものは北海道に封じ込められて 昭和40年代中盤まで活躍しました。
関東鉄道 ワ10形 有蓋車
ワ22000形の私鉄同形車の一例として、関東鉄道のワ10形を描きました。
経歴等は不明ですが、この手の社車(私鉄所有貨車)は鉄道雑誌の蒸気機関車の写真の隅っこの方に 偶然写っていたりするものです。
ワム23000形/ワム2000形/ワム90000形 有蓋車
ワム23000形は、不況により製造を中断していた15t積 ワム21000形の後継車として、昭和13年(1938年)から製造されました。国鉄貨車の代表形式です。
ワム21000形との主な違いは ワ22000形2次車同様に 引戸内側にも木板張りがなされた程度の 軽微な変更点ですが、多量増備がなされるので形式を変更したのでしょう。
戦前には昭和16年(1941年)までに6500両程が作られました。
戦前製は基本的に側引戸が のっぺりしてますが、戦前後期製作のものからプレス加工のリブが入ったようです。
ワム23000形の量産は、戦時中にワム50000に移行したため中断されましたが、戦後の昭和21年(1946年)から製作が再開されました。
戦後製作分は 新製の他 トキ900形無蓋車の部品利用(32000番代1600両)で、7500両程が作られました。
また、戦時中には資材節約のためにのトキ900形等の短軸の貨車が多数製作され、部品のストックもあったので、それらを活用して 1158両製作されたのがワム2000形です。
ワム2000形の外観は ワム23000形と同じで、下廻りが異なるだけです。
戦後、2軸貨車の最高速度を向上できる2段リンク式バネ吊り装置(↓記事参照。)が開発されました。
さっそく花形列車「急行便」に使うべく ワム23000形に取り付けられ、最高速度は65km/h→75km/hに向上。150両が改造され、形式はワム90000形になりました。
戦後の国鉄貨車の形式の付け方というのは、50t積みだからタキ50000とか おちゃめな面があって、ワム90000形も急行用・・・“9”と連想されたものです。
なお、同時に側ブレーキ装置も取り扱い簡便な物を採用しています。
その後、15t積み有蓋車の新製は ワム90000形に切り替わり、また従来のワム23000形も2段リンク台車に改造されて、旧形式に100000を追加した番号でワム90000形に編入されました。
さらに トキ900やワム50000形の一部もワム90000形に改造され、ワム90000形の総数は18811両に達しました。
また、ワム2000形も2段リンク化改造されましたが、こちらの形式は そのままです。
上絵は左からワム90000形急行便 公式側、非公式側、ワム2000形2段リンク化改造車、ワム90000形家畜の特殊積載2例、ワム90000形晩年。です。
2段リンク式バネ吊り装置について。
戦時中。多数の技術者が優秀な航空機等を開発しましたが、戦後は軍事関連の一切が禁止され、急に職を追われる立場になってしまいました。
そこで、それら優秀な技術者を 軍事技術から平和技術に転換させる事で 温存を図る 国家戦略が取られました。
その受け皿として「鉄道技術研究所」は、旧軍の研究施設を引き継いだり、職を失った軍事関係の研究者を次々に招へいして 戦前の数倍の規模に組織を拡大し、合わせて 近代的な研究ができるように組織改正をしました。
そして、その成果の一つに2段リンク式バネ吊り装置があります。
2軸車の軸箱の上には「担バネ」と呼ばれる板バネが載っています。
この担バネと車体台枠とを繋ぐ部分は、黎明期には枠に嵌まりこんでいるだけでしたが、後にピン接続で間接が1箇所入り 1段リンク化されました。
航空機の研究から転身した鉄道技術研究所 車両運動研究室の松平室長は、2軸車の走行性能改善に取り組み、研究の結果開発されたのが「2段リンク式バネ吊り装置」です。
構造は、1段リンクバネ吊り装置に間接を もう一段増やしたもので、蛇行動を抑制し 走行性能が安定する効果があります。
このため、従来の最高速度65km/hを最高速度75km/h(緩急車は柔らかいバネを使っているので最高速度85km/h)にする事ができました。
弘南鉄道 ワム20形 有蓋車/東武鉄道 ワム1001形 有蓋車/上信電鉄 ワム200形 有蓋車/秩父鉄道 ワム700形 有蓋車/三岐鉄道 ワム200形 有蓋車/近畿日本鉄道 ワム8001形/ワム9370形 有蓋車/南海電鉄 ワム1701形 有蓋車
国鉄貨車といえば、誰もが思い浮かべたであろうワム23000形/ワム90000形ですが、私鉄でもやはり一番多く見かける貨車で、同形新製車や改造車、類似車、譲渡車が数多く存在します。
そのうちの 数タイプを描きました。
↑の弘南鉄道ワム20形は 2段リンク装備車で、自社発注車10両と秋田中央交通から転属した4両が存在しました。
名産品のリンゴ等を運んだようです。
↑の東武鉄道ワム1001形は、昭和16年(1941年)に15両が新製されました。
絵は2段リンク化された晩年の姿です。
↑の上信電鉄ワム200形は、国鉄ワム23000形の中古で、昭和25年(1950年)に2両入線。
非公式側の写真1枚しか発見できませんでした。
↑の秩父鉄道ワム700形は詳細不明。秩父鉄道の事ですから、たぶん まとまった数が働いていた事でしょう。
三岐鉄道の貨車は 数が多いのに1両毎の変化が強く、用が済んだらポンポン廃車にしてしまうので、とっ付きにくくて困ります。
三岐鉄道ワム200形は、経歴・構造が まちまちな15t積 汎用有蓋車を まとめた形式で、総数は54両。
↑絵に描いたのは、ワム200形の中でも 比較的まとまった勢力だった 国鉄ワム23000形の新製時不合格品が由来と言われ、三岐鉄道が手に入れて、手直しされて屋根は鋼板張りになっています。
袋詰セメント輸送に活躍しました。
↑は近鉄の有蓋車ですが、ワム23000形タイプがワム8001形。ワム90000形タイプがワム9370形のようです。
近鉄の貨車の形式の末尾は 奇数が一般的のようですが、なぜか偶数のものも混在しています。変わっていますね。
社名表記も自由奔放で、近畿と小さく横に書いて、その下に日本鉄道と大きく縦書きしています。
↑の南海のワム1701形は1段リンク車で、少なくとも十数両いたようです。
ワム50000形/ワム1900形 有蓋車
ワム23000形の解説が長かったので 話は前後しますが、ワム50000形は第二次大戦中の鋼材節約のために ワム23000形の車体を木製に退化させたものです。
昭和15年(1940年)から昭和21年(1946年)に掛けて3645両が製作されました。
また、海を渡り損ねた 台湾向けの短軸の同系車100両は、終戦に伴い国鉄に編入され、ワム1900形になりました。
木造車体にもメリットがあり、二重羽目構造にしない分 ワム50000形はワム23000形よりも自重が軽くなりました。
折しも国鉄は 昭和30年代中盤から経済の復興と共に 貨物輸送力不足に陥っていたので、短軸で軽量のワム2000形と共にワム50000形、ワム1900形は増積対応がとられ、荷重17tとして形式の頭に小文字の“オ”が付いて、昭和35〜41年(1960〜1966年)の間オワムとして活躍しました。
木造車体はメンテナンスが難点です。雨水の浸入を防ぐために 小まめな整備が必要です。
特に戦後は 羽目板用木材の良いモノが手に入りにくくなり、昭和38年(1963年)から在籍車の半数は耐水防腐合板化されました。
ワム50000形は車体こそ木製で古臭い感じがしますが、製作年次は そう古い訳ではないので、在籍車のほとんどは2段リンク化改造されました。
そして国鉄末期まで生き残っています。
絵は左から、ワム50000形公式側、ワム50000形公式側 半開、ワム1900形公式側、ワム50000形非公式側 オワム表記増積、ワム50000形公式側2段リンク化改造 外板更新車、ワム50000形非公式側2段リンク化改造車。
名古屋鉄道 ワム5200形 有蓋車
名鉄のワム5200形は、昭和17年(1942年)に製作された国鉄ワム50000形の同形車です。
絵のように、戦後に鋼体化改造されました。
絵は 国鉄乗り入れ現役時代の表記ですが、現在も 表記を消されながらも 事故復旧救援車として残されているようです。
ワ10000形/ワ12000形 有蓋車
ワ10000形は、老朽小形有蓋車の淘汰とトキ900形の有効利用のために、昭和30年(1955年)に500両がトキ900の部品を利用して製作された10t積有蓋車です。
翌、昭和31年(1956年)には長軸・2段リンク版のワ12000形に製作が切り替わり、こちらも500両が新製されました。
ワ10000形も ヨンサントウに際しては 2段リンク化改造が施されています。
ワ10000、ワ12000形の形態は、ワ22000形の3次車をやや大形化した感じで、軸距を延長して走行安定性を増しています。
小形有蓋車は戦前なら ごく当たり前でしたが、戦後も昭和40年代以降になると利用は少なくなり、ワムにポツンと挟まれての凸凹編成が、非常に魅力的に写りました。
晩年は 両形式とも 国鉄工場の配給車として好んで使われました。
絵は左からワ10000形公式側、ワ10000形公式側2段リンク化改造車 配給車代用車、ワ12000形公式側 晩年、ワ12000形非公式側です。
ワム89000形 有蓋車
世の中が落ち着いてくると、国鉄では車両の近代化に取り組み始めました。
設計上の各車種共通の方針として、軽量化と製作・メンテナンスコストの削減が求められ、新たな発想で車両構造の骨組みを見直し、プレス物を多用するなどしています。
有蓋車では、昭和32年(1957年)にワム80000形(初代)有蓋車が3両試作されました。
ワム80000形(初代)では、荷役作業のパレット化による改革を目指して 側面をすべて側扉として、フォークリフト荷役が円滑にできるようにしました。
車内には T11型標準パレットを12枚並べられます。
ただ、試用したところ平パレット貨物積載時に、パレットの分 貨物の容積が不足することが指摘され、また台枠の強度も足りなかっため、量産は持ち越されました。
そして、昭和35年(1960年)に 改良版のワム80000形(二代目)が実現すると、パレットの「8」由来の形式を そちらに譲り、ワム89000形に形式変更されました。
また、その間にワム80000形(初代)の試作結果を生かしたワム70000形、ワム60000形が登場しています。
ワム89000形は台枠を補強し、試験終了後は 全開構造を生かして板ガラス輸送に活躍しました。
また当初の車体色は黒でしたが、ワム80000形(二代)に合わせてトビ色に変更されています。
ワム89000形 当初製作分の89000〜89002号車は 昭和50年(1975年)に廃車されています。
しかし、昭和56年(1981年)に4両目の89003号車が製作された事で 形式復活しました。
89003号車は、ワム80000形280000番代の後継試作車で、車体構成素材の変更や、荷崩れ防止装置の設置などされましたが、もうコンテナの時代になっていたため量産は実現しませんでした。
外観はワム80000形280000番代と見分け付かないので 絵は描きません。
ワム70000形 有蓋車
番号が前後しますが、ワム90000の次の標準有蓋車が 昭和33年(1958年)から登場のワム70000形です。
下廻りは従来と特に変化はありませんが、ワム80000形(初代)の成果を取り入れて 上廻りにプレス材を使用して軽量化しています。屋根は鋼板製で 製作簡略化のために三角屋根になりました。
また、荷役の近代化を促すために、側扉を全開とはいかないまでも 小形フォークリフトが車内に乗り入れやすいように 間口を旧来の1.7mからワム80000形(初代)の中央扉と同じ2.3mに広げています。
ワム70000形は昭和35年(1960年)までに5710両が製作され、一部車両は「急行」表記が書かれて 急行便に活躍しました。
なお、71410号車以降は屋根等を若干設計変更しています。
また、後期の車も含めて新製時は 連結器解放テコが 妻板のプレスを避けるためか下作用で登場していますが、やはり操作し辛かったのか、のちに一般的な上作用式に改造されています。
ワム60000形 有蓋車
さらに番号が戻りますが、ワム60000形は、ワム70000の次の標準有蓋車として、昭和35〜38年(1960〜1963年)に8580両が製作されました。
この形式はワム80000形(初代)で試作された軽量な下廻り構造を本格的に採用したもので、あわせてワム70000の使用実績を反映して、引戸の間口をさらに広く 2.7mにしています。
屋根は容積確保のためか、丸屋根になりました。
ワム60000形はワム80000形(二代)と同時期の製作開始で、前期車の61299号車までは妻板にパワムと同じ部品を使ったため、側面との接合部が額縁状に段差になっています。
パワムと並行して増備されていますが、これは壁に持たせ掛けて積む積荷には、側全開の有蓋車は あまり適していなかったからです。
絵は、上段が前期車。下段が61300号車からの後期車です。
やはり当初は急行用に投入されましたが、「急行」の書体と色が変わりました。
また、後年の改造で引戸半開止装置の棒を長くして、この装置を使用した時の引戸開口幅が狭くなるようにしたものも見られました。
名古屋鉄道 ワム6000形 有蓋車
国鉄ワム60000形の私鉄同形車は、名古屋鉄道ワム6000形25両と、水島臨海鉄道ワム600形2両が存在します。
名鉄のワム6000形は、 昭和37,38年(1962,1963年)に製作されましたが、登場時の色はハワイアンブルーという名の青だったとの事です。
当然 国鉄乗り入れ連絡直通車で、国鉄の黒ワム編成の中では かなり目立った事でしょう。
ただし、蒸機の煤煙に屈したのか すぐに黒く塗られちゃったようで、カラー写真も見当たらないので、絵は想像で塗りました。
ワラ1形 有蓋車
昭和30年代、国鉄では輸送力増強のために 貨車の車体断面積を大形化する事にしました。
国鉄車両の車体断面積、いわゆる車両限界は 明治以来拡大を続け、昭和4年(1929年)に最大幅3000mmで落ち着いたのですが、これは将来の目標値みたいなもので、実際は地上施設の改良を続けながら ジリジリと車体を大きくしていきました。
ワキ等を除く一般貨車の場合は さらに地方私鉄へ乗り入れられることが前提であり、最大幅・高さの小さい 古い車両限界で設計されていました。
しかし、昭和35年(1960年)製作の貨車から 国鉄線内の運用を前提として車体断面の大形化が始まり、昭和37年(1962年)登場のワラ1形は 汎用形式も第三縮小車両限界という大きな規格が採用されるに至りました。
車体が大きくなっても、私鉄の施設も改善しているので 多くの路線に乗り入れ可能です。
ワラ1形は 車体断面を大きくしたおかげで、全長をわずかに伸ばしただけで 汎用有蓋車で17t積みを実現しました。
この頃には機関車の性能も良くなり、増トンしても車長が短かければ 駅の線路有効長一杯に多くの貨車を連結できるので 列車の輸送力増強が可能になりました。
ワラ1形の全体の設計は ワム60000形を軽量化に留意しつつサイズアップしたものですが、床板を木板張りから鋼板張りに変更して容積を稼いでいます。
上絵では中央にワム60000形を混ぜてみましたが、大きさの微妙な違いが分かりますでしょうか?
ワラ1形はパワムと並行して昭和41年(1966年)までに17367両が製作されました。なお、1,2号車は試作車で、量産は100号車からです。
また、ワム60000形式と同じく 引戸半開装置を改造したり、引戸取っ手を追加したものがあります。
東武鉄道 ワラ1形 有蓋車/越後交通 ワラ1形 有蓋車
大形車体の国鉄ワラ1形ですが、私鉄でも同形車を導入しています。
東武鉄道は、旧形有蓋車の置き換え用に 昭和39〜41年(1964〜1966年)にワラ1形として120両を製作しました。
東武のワラは比較的遅くまで活躍しています。
越後交通もワラ1形として5両採用しました。
ワム80000形 有蓋車
ワム89000形での試作を経て、昭和35年(1960年)に満を持して登場したのが、“パワム”ことワム80000形式(二代目)です。
ワム89000形の試用で荷主から出た「パレット容積分荷物が積めない。」という意見から、車体を延長してパレット利用時でも従来のワムと同量の荷物を積めるように 容積を拡大しました。
そのため、従来の主力有蓋車=全長約8m(延長換算1両)を打ち破って全長9650mm(延長換算1.2両)となり、列車の長さを計算するのが少し面倒になりましたが、無蓋車の方は古くから長トラが主流でしたので、特に困らなかったのでしょう。
ただ、ワム80000形は用途がパレット用という事もあり、配車上の都合で電報略号に「パワム」が用意され、1973年頃からは車体表記もワムの記号の前にパレット荷役を示す“ハ”の小文字を追加しています。
荷重は パレットの使用非使用に係わらず、従来のワムと同じく15tとしました。
車体塗装はトビ色2号とし、パレット荷役対応をアピールしています。
この鳶色(トビ色)塗装は、蒸気現役時代は煤で黒い汚れ方をしているものが結構見られました。
↑従来のワムとパワムの荷姿を並べてみました。
経済が発展してくると人件費も高くなりましたが、荷役作業をフォークリフト化する事により要員を削減できます。また、荷役時間の短縮や、重労働からの解放にも効果があります。
ワム80000形の車内には T11型標準パレットを ワム89000形より2枚多い 14枚並べられます。
従来のワムは たわら積みを描きましたが、このように壁に持たせ掛けるように積めるので、パワムに比べ積載効率が高いです。
ワム80000形登場時は 国鉄は輸送力不足に悩んでいたので、積載効率の良いワム60000形・ワラ1形も並行して増備しました。
なお、たわらは昭和中期には 袋詰めに荷姿が変わりましたが、米穀類の袋詰め貨物は 荷崩れ防止方法の確立が大きく後れ、平成になってからようやくパレット化が促進されました。
同じ袋詰めでも比重の高いセメント等は 早くからパレット化に成功しています。
また、パワムの絵に描いた段ボールも 時代と共に だんだん荷崩れや荷摺れを気にするようになり 養生方法が進化して、現在ではストレッチフィルムでの養生が常識になっています。
ワム80000形(二代目)は5両試作され、量産は80100号車から始まりました。
この初期車はワム70000形と同じく三角屋根で、昭和42年(1967年)までに2800両が製作されました。
うち、昭和37年(1962年)までに製作の1905両は、急行用の“キワム”か、特定輸送向けの専属貨車として製作されました。
これら初期車は、のちに83000番代と同じく両側側ブレーキに改造されています。
昭和42年(1967年)から製作の83000番代は改良形で、昭和45年(1970年)までに14908両が作られました。
大量増備ですが、これはヨンサントウ ダイヤ改正でスピードアップに付いていけない老朽貨車を 淘汰するためです。
外見では屋根がプレス物に替わり、両側面に側ブレーキが付きました。
側ブレーキが両側面に付いたのは、突放・ハンプ入換で散転している貨車の直前横断による事故をなくすためですが、高床ホームでの車両留置時にも役立ちます。
上武鉄道 ワム8000形 有蓋車/水島臨海鉄道 ワム800形 有蓋車/三岐鉄道 ワム700形 有蓋車
パワムにも 少数ながら私鉄社車がありました。
上武鉄道ワム8000形は、昭和43年(1968年)に1両が新製されたものです。同鉄道廃止まで活躍しました。
水島臨海鉄道ワム800形は、同じく昭和43年(1968年)に10両が新製されたものです。
両形式とも、ワム80000形83000番代と同じ仕様で、国鉄へ連絡直通輸送していました。
黒い車体の三岐鉄道ワム700形は、国鉄末期の昭和60年(1985年)にワム80000形83000番代を12両購入したものです。
社線内で袋詰めセメント輸送に活躍しました。
ワム80000形 有蓋車 581000番代(板ガラス輸送用)
ワム80000形83000番代が製作されていた頃は、国鉄は物資別適合貨車の製作に積極的であり、ワム80000形にも多数の変形車が生まれました。
自動稲刈結束機輸送用の582000番代やオートバイ輸送用の583000番代のように 外観に変化のないものもありますが、板ガラス輸送用の581000番代は、簡易保冷車の580000番代(貨車の絵 その6を参照。)。と並んで特異な存在です。
見てのように屋根が変わっていますが、これは大形板ガラスを 天井からクレーン荷役するためにスライド開閉式のハッチに改造したものです。妻面にハシゴも付きました。
初期車は昭和42・43年(1967・1968年)に80100番代から14両が改造され、昭和44年(1969年)には11両が新製で増備されました。
ワム80000形 有蓋車 584000番代/585000番代(ビール輸送用)
ワム80000形の物資別適合貨車でも 両数が多かったのが瓶ビール輸送用のもので、昭和43年(1968年)から新製された584000番代470両と、昭和46年(1971年)から改造の585000番代300両が存在します。
ビール業界では、ビール瓶及び瓶ケースの規格が古くから統一されており、それに合わせてパレットも900mm×1100mmのT9型を使っています。
そのため、標準パレットのT11型(1100mm×1100mm)に合わせて設計されたワム80000形の柱の位置では フォークリフト荷役に支障し、一部手積みで対処しなければなりませんでした。
ワム80000形 584000番代と585000番代は これに対応して柱の位置をずらしたもので、それ以外に設計の違いはありません。
ビール・飲料水はパレット化が先行していた事もあり、計770両が用意され、ビール工場に隣接する駅に配備されました。
また、製粉業界のパレットもビール輸送用パワムが適合し、一部が小麦粉輸送に専用されたようです。
ワム80000形 有蓋車 280000番代/380000番代
ワム80000形は昭和45年(1970年)まで製作されましたが、所要数に達したので一旦製作が中断しましたが、昭和50年(1975年)から旧形ワムの置き換え用に増備が再開されました。
これがワム80000形280000番代で、これまでと大幅に設計変更されました。
まず、将来の高速化を見据えて、車軸間距離を拡大して走行安定性を高めました。
台枠は床面が強度不足気味だったため補強され、これに伴う自重増を側引戸をアルミ合金化する事で相殺しました。
屋根は腐食対策でポリエステル樹脂塗装され、白っぽくなりました。また、妻面に縦トイが追加されています。
280000番代は、昭和56年(1981年)までに8500両製作されました。ワム80000形の総製作数は26605両に達し、これは車種・時代を問わず国鉄で最多製作記録保持車です。
↑の絵は 280000番代を色々描きましたが、仕様は全部同じです。
屋根のポリエステル樹脂は 全般検査数回おきの塗装だったようで、経年により色が違います。
開扉状態のものは網かご(ボックスパレット)を描き込みました。
金網パレットの欠点は接地面積が小さい事で、重たいものをドスンと置くと床板を傷めます。
積荷は金属部品から農作物まで色々ありますが、比重の軽い積荷の場合は こうして2段積みも可能です。
左端はJR移行時の昭和62年(1987年)に 全般検査で工場を出場したものに見られたPR塗装で、「未来を拓くJR貨物」か「パワー全開JR貨物」のスローガンを掲げていました。
昭和62年(1987年)のJR化では、2軸有蓋車ではワム80000形280000番代のみ6578両がJR貨物に継承されましたが、それも次第に数を減らしていきました。
平成2年(1990年)からは残存車のうち500両が メンテナンスフリー化を目的にコロ軸受に改造されて、380000番代となりました。
ファストブルーに塗装され、最後の有蓋車として紙輸送に活躍しましたが、平成24年(2012年)に ついに運用が終了して、有蓋車の歴史は終焉しました。
ワム80000形 有蓋車 480000番代(木材チップ輸送用)
トラ90000形式(貨車の絵 その2を参照。)による木材チップ輸送は、JR移行後も北海道で生き永らえていましたが、さすがに貨車の老朽化が深刻になったので、余剰のワム80000形280000番代を改造して置き換える事になりました。
新製車が投入されなかったのは 輸送に先が見えていたためで、480000番代への改造も必要最低限のものとなっております。
まず、有蓋車を無蓋車の代わりとするわけですから、屋根を切り開きました。積車時はトラ90000形と同様にシートをかぶせます。
側面は片側は閉鎖して、もう片側は下部が煽り戸で開くものを新製しました。と、片側でしか降ろせないので、貨車の向きは揃えられて運用されました。
パワムは容積が大きいので、内部に囲いを付けて過積載を防いでいます。
こうして480000番代は、平成10年(1998年)から90両が用意され、平成14年(2002年)まではトラ90000形と混結で運用され、平成20年(2008年)まで活躍しました。
ワサ1形 有蓋車
高度経済成長期には 車扱の輸送単位の拡大が想定され、15t積車のワム60000形とワム80000形の大形化(17t)が検討されました。
ワム60000は、単純に増量分の容積を拡大したワラ1に移行しましたが、パレット貨車であるワム80000の方は容積よりも、増量分のパレットの床面積を確保する必要がありました。
パレットを使うと荷役効率は良くなるのですが、積載効率は悪くなるのです。
そのため車体が大形化して自重も増加し、しかたなく3軸車となりました。
で、T11型標準パレットで計算すると、14枚から2枚増の16枚分の貨物が積めるようになりましたが、どうにも中途半端なサイズだったようで、量産は より大形のワキ5000でなされました。
ワサ1形は 2両が製作されましたが、ワサとしての試験の他に、ドアの構造などワム80000の改良試作の意味合いもあったようです。
試験終了後はローカル線の新聞輸送等に活躍しました。
ポ100形/ポム1形 陶器車
陶器車とは読んで字のごとく陶器輸送用の有蓋車で、割れやすい陶器や瓦を一般の有蓋車利用に比べて簡単な養生(荷造り)で輸送できるように、取り外し可能な棚等を備えたものです。
従来、陶器の輸送は有蓋車により行われていましたが、そのままでは積載効率が悪く、また、割れないように厳重に梱包するのも手間が掛かりました。
少量輸送ならそれでもいいのですが、瀬戸物、常滑焼、七宝焼、三州瓦と窒業の盛んな中京地域では輸送量が多いので 専用貨車として陶器車が生まれました。
まず、昭和8年(1933年)にワ1形の改造で試作のポ1形7両と量産のポ50形45両が製作されました。
外観は有蓋車時代と変わりなく、戦時中は棚を外して有蓋車代用として働きました。
戦後になると、トラック輸送に負けないように陶器車の増備がおこなわれ、ワ22000形・トキ900形からポ100形が130両。ワム1形からポ300形が40両、ワム90000形から改造及び新製でポム1形が192両 続けて増備されました。
絵は左がワ22000形 3次車改造のポ100形。右が国鉄末期の仕様のポム1形です。
外観は一般有蓋車と同じで、名古屋鉄道管理局の「名」のマークが目立つだけです。
ポム200形 陶器車
上記の陶器車の外見は 普通の有蓋車と変わりなく、趣味的には ちょっとつまらないものです。
しかし、このポム200形は違います。
見ての通り余剰のウ500形 豚積車からの改造で、ワム50000形の更新車と同じく合板張りとなり、屋根にベンチレーターが残されています。
積載力に劣るポ100形等の置き換えのため、昭和43年(1968年)から150両が改造されました。
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